ジャコ・ヴァン・ドルマルの世界その2/八日目
2015年現在まで、たったの3本しか映画をとっていない監督、ジャコ・ヴァン・ドルマルですが、彼の2作品目の映画「八日目」について、「愛すれど心さびしく」といった名作との関連性や見所を含め紹介していきたいと思います。
ジャコ・ヴァン・ドルマル作品の中では、時系列がバラバラになることもなく比較的わかりやすい物語のつくりになっているので、ジャコ・ヴァン・ドルマルの奇妙な世界の中に入る前には丁度いいかもしれません。
ジャコ・ヴァン・ドルマルの3作品すべてについて語る予定ですので、第一作目「トト・ザ・ヒーロー」について知りたい方は、前回のエントリーを参照ください。
駄目なサラリーマンと障害者の物語
「八日目」は、キリスト教的な世界観で始まります。
ジャコ・ヴァン・ドルマルという監督は、物語の中にキリスト教を軸にして作品をつくりあげていく傾向がありますので、この作品については、それが表面的には、前面に押し出されています。
物語冒頭。
一日目に光をつくり、二日目は、と旧約聖書でいうところの創世記が語られていきます。あとからおかしくなっていきますが。
この物語のタイトルである「八日目」は、まさにこの神が7日間で世界をつくったということをもとにし、さらに、8日目には何がつくられたのか、ということが最後に明かされます。
物語としては、妻と子供に出て行かれたサラリーマンである主人公が、半ば自殺するつもりで目をつぶって車を走らせていたときに、施設を抜け出したダウン症の男ジョルジュと出会い、人生の生き方を考え直す、というある意味で典型的なヒューマンドラマになっています。
障害者と出会って云々という物語でいえば、数多くでているところですが、ダスティンホフマン主演の「レインマン」であるとか、親子関係でいえば、ショーン・ペンとダコタ・ファニング「アイ・アム・サム」なんていうものも有名どころです。
障害者の描き方
前作「トト・ザ・ヒーロー」で主人公の弟役をやっていた役者が、本作品での主人公になっています。前作でもダウン症の役をやり、本作品でも同様にダウン症の男を演じます。
また、本人自身もダウン症であり、その演技か本来のものなのかわからない姿が、実に迫力をもって演じられます。
ジャコ・ヴァン・ドルマルは、特に「8日目」においては、ダウン症の人たちを天使として描きます。
ダウン症の男ジョルジュは、神の使いとしか思えない人物として描かれます。目を閉じて思えば、彼はネズミにだってなれるし、テントウ虫にだってなれてしまう。
彼の中で、妄想と現実が同じ価値で語られることがポイントになっています。
ネタバレというほどではありませんが、彼ははじめ、来ない母親を待っています。
施設にいる彼は、他の人たちが家族と共に家に帰るのをみて「ママが来てくれるまで待っている」といって、暗くなるまで施設の前で待ち、やがて、家に帰ろうとして歩き出します。
そのいく先々で、彼は妄想の人物と語り合ったりしますが、彼の中では、妄想も現実も同じであり、他の人間にとっては、妄想は妄想である、ということが彼を最後の行動に導いていきます。
ちなみに、障害者の描き方として、対称的な描き方をする監督といえば、ファレリー兄弟をおいてほかにいないでしょう。
障害者を特別な存在ではなく、障害者にだって性格の悪い人もいればいい人もいる。バカにする人もいればしない人もいる、といったように差別せずに描くのが特徴です。
当ブログでも、「メリーに首ったけ」で紹介しましたが、描き方一つとっても監督の個性がでます。
主人公の駄目さ
さて、もう一人の主人公である男アリーは、エリートサラリーマンで、自己啓発系の講師もやっている男です。
いかに売り上げを伸ばすのか、自信をもって営業をするべきか、ということを教えていく立場にありますが、妻と子供には出て行かれており、子供に会うことは限られてしまっています。
にも関わらず、主人公は仕事のことばかり。
子供と会う日だというにもかかわず、仕事ですっかり忘れてしまって、子供を駅で待たせたままにしてしまいます。
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いつまでたっても父親が来ないため、駅のホームに降りて、そのまま動かず帰りの汽車に乗って帰ってしまう子供たちが、ダウン症のジョルジュが母親を待つ姿とオーバーラップして語られることにより、子供の気持ちとジョルジュの気持ちがわかる演出になっています。
主人公は、自殺願望の塊になっています。
雨の中、ジョルジュに慕ってきた犬を轢いてしまい、彼と出会います。
主人公は、自己啓発系のサラリーマンで、ジョルジュはダウン症の自由奔放な青年。
その二人が出会うことで、主人公がすこしずつ変わっていくのが見ものです。
ジョルジュは明るく、アリーは暗く
しばらく見ていると気づくのですが、ジョルジュが映っているシーンは、ほとんど明るく撮られています。まばゆいばかりに明るいシーンであったりして、どこか幻想的な光景にみえます。
対して、駄目サラリーマンであるアリーのシーンは、薄暗い撮影されていて、二人の気持ちが姿勢が画面越しに伝わってくるのが面白いです。
また、ジョルジュは動物に好かれ、また、施設のダウン症の人たちにもすごく仲がいいです。彼とつながっている人たちというのは、常に幸せそうにしています。
アリーのように、自分のことだけ考えて生きてきた人間からすると、ジョルジュは絶対に理解できない存在です。
ですが、ジョルジュの純粋さに触れることで、アリーは自分がさげすんでいたような人たちに心を開いていくようになるのです。
また、その二人が仲良くなっていく姿は、もう、ホモソーシャルを通り越して、もうヤバイ感じのところまでいってしまっているようにも見えるのですが、彼らの幸福さというのは、映画史上でもまれに見るシーンで集約されます。
最高の、一分間。
この映画を語る上で欠かせない演出が、木の根元でジョルジュとアリーが寝そべるシーンです。
「行こう」というアリーに対して「もう少しいる」というジョルジュ。
そして、アリーがじゃあ、一分だけだ、と時計を見ます。
遠く上空にあったカメラが少しずつ二人に近づく。
ジョルジュは、ニコニコしているだけで何も喋りません。
台詞も何もなく、ただ二人を写します。
な、なんなんだこりゃ、と思っていると。
アリーが一分経ったといい、ジョルジュが言います。
「この一分間は僕たちの時間だ」
まるまる一分間の長回し。
ただ一分間長まわししただけかよ、と思う方もいるかもしれませんが、これには物語の上の演出としても、映画としても秀逸な場面といえます。
話は変わりますが、現代音楽の世界では、アメリカの作曲家ジョン・ケージによる「4分33秒」が有名です。
3楽章からなる曲ですが、全て「比較的長い間の休み」を意味するタセットと呼ばれる音楽記号が書かれており、曲名の通り、4分33秒の演奏が行われるのですが、一音も鳴ることがありません。
聞いている人間は、ひたすらその時間を無音のうちに過ごすのです。
「4分33秒」に関しては色々と議論するところもあるでしょうが、その無音であるという以前に、この世界に溢れている音を聞けということでもあると思います。
ちなみに、この曲(と呼んでいいのかわかりませんが)が演奏されるときは、ちゃんと指揮者がやってくるそうです。
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その4分33秒を、映画としてやろうとしたのが、この8日目の一分間のシーンではないでしょうか。
ひたすら、彼らが何を考えているのか、周りの音や動きをじっくり見る。そういった映画体験をさせてくれるのが、映画「8日目」です。
アリーは、日々の仕事に追われ時間に追われる生活をしていましたが、この一分間を何もせずに過ごす、ということができたことで、彼自身の心の変化そのものを見事に描き出しています。
障害者への偏見、そして彼の愛
二人がレストランに入るとき、アリーはジョルジュにサングラスをつけさせます。
かっこいいからではなく、周りの人にダウン症だと気づかせないためです。
はじめ、なんで隠す必要があるのだろうか、と思ったのですが、そこには、障害者に対する偏見とかが根強いということが映画を通して見え隠れします。
ジョルジュは、美人のウエイトレスさんに一瞬で恋をして、花をプレゼントします。
ウエイトレスさんもまんざらでもないといった様子なのですが、ジョルジュのサングラスがはずれたのをみて、「ごめんなさい」といって逃げ出します。
そして、ジョルジュは悲しさのあまり床で泣き叫ぶのです。
「こんなに愛しているのに、なんでなんだ」
ウエイトレスさんを責めることはできませんが、ここで不思議に思う点は、会ったばかりのウエイトレスさんに対して、なんでそこまで悲しむのか。
決して、勝手に好きになって勝手に悲しんでいる人をおもしろがるようなシーンではありません。
これは、物語を最後まで見ていくとわかるのですが、ジョルジュは、愛するものに対して躊躇がないのです。
時間など関係なく、自分が愛する人を全力で愛する。
だからこそ、彼は、動物に好かれ、色々な人に好かれます。
だから、はじめて会ったウエイトレスさんであったとしても、彼が愛したいと思ったのであれば、それは1秒だろうか1年だろうが関係ない。彼にとって時間という概念は関係ない。
だからこそ、こんなに愛しているのに、なぜ愛をうけとってくれないのか、と泣き叫ぶほど悲しむのです。
愛すれど心さびしく
ジョルジュが人を愛する姿をみて、思い出される作品は、1968年の映画「愛すれど心さびしく」です。
ゴールデングローブ作品賞、アカデミー主演男優賞・女優賞にノミネートした作品でもあります。
耳が聞こえない男である男シンガーが、音楽が好きだけれど家が貧乏であるせいで勉強できない女の子ミックの家で下宿します。
主人公であるシンガーは、ミックのためにレコードを買ったり、酔っ払いの話を聞いてあげたりしてみんなに色々としてあげますが、一番大事な友達が死んでしまったことで、自分を愛してくれる存在がいなくなってしまう。
物語の最後で、下宿先の女の子ミックは、彼はみんなに色々してくれたけれど、自分達は彼に何もしていない、ということに思いあたります。
「八日目」はこの物語を下地にして作られています。
その証拠として、露骨なオマージュで、チョコレートを捨てるシーンがまったく同じに撮影されています。
「愛すれど心さびしく」では、6時までに病院に戻ってこいと言われていたのに、友人のアントナパウロスは食べるのに夢中で帰ろうとしません。
そのため主人公のシンガーが、1階に降りてチョコを買い、そのチョコでおびき寄せてタクシーの乗せ、チョコを投げ捨てます。
それに怒ったアントナパウロスが、花を投げて抗議するというシーンがあります。
「八日目」では、ジョルジュはチョコレートアレルギーなのですが、アリーがジョルジュを連れ出すためにチョコレートでおびき寄せ、同じく車からチョコレートを捨てます。
すると、怒ったジョルジュが車の中にあった電話の受話器を外に投げ捨てます。
どちらも障害を持つ人間の話であり、その純粋さを描いていますが、いずれも、誰かを愛することはしても、自分を愛してくれる人はいなかったという絶望が描かれてる作品でもあります。
ジョルジュは、同じダウン症の女の子が好きで結婚したいと思っていますが、女の子は両親に呼び戻されてしまいます。ここで、その子がジョルジュの元に行くことは現実として難しい。
アリーもまた、愛すべき子供達がいる。
誰一人として、ジョルジュを愛してくれる人はいないのです。
ただ、一人、天国に旅立った母親を除いて。だから、劇中で、何度もママについての歌が歌われます。
「愛すれど心さびしく」では、友人のアントナパウロスが八日目でいうところの母親と同じ役割を果たしています。
結末までは書きませんが、その結末は、賛否あると思います。
作中の中で、ジョルジュの姉は「みんな現実に生きているのよ、あなたとは違うの」といったような台詞があります。
ジョルジュは、妄想と現実を同じ価値で生きている存在。
だからこそ、現実に生きる人たちは彼と一緒に生活することはできない。でも、彼と触れ合うことで、現実にはない価値を知ることができるのです。
ジャコ・ヴァン・ドルマルという監督は、妄想と現実、ありえたかもしれない未来や、過去、そのどれもが同じ価値で存在しているとして描く映画監督です。
そのため、八日目の最後も、決して悲壮ではありません。「愛すれど心さびしく」と結末は同じですが、その結末の解釈はまったく異なるのです。
この物語の神が、八日目に何をつくったのか。
映画をみたとき、ジャコ・ヴァン・ドルマルの世界をまた一つ、理解できる一助になれば、と思います。
ジャコ・ヴァン・ドルマル作品は、一つの作品だけみても理解しずらい部分がありますが、複数みていくことで、監督が何を言いたかったのかがわかるようになっていきます。
監督第一作目「トト・ザ・ヒーロー」についても、興味をもたれた方は、記事がありますので、参照していただければと思います。
以上、「ジャコ・ヴァン・ドルマルの世界2/八日目」でした!
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