もう一度見る人へ。億り列車。感想。劇場版「鬼滅の刃 無限列車編」
はからずも、日本映画の興行収益を塗り替えていく劇場版「鬼滅の刃 無限列車編」ですが、そろそろ、国民の大半が見たことでしょうから、ネタバレを含みつつ、気軽に感想を述べてみたいと思います。
もう何度も、無限列車に乗車している方も、誰かの感想や考え方をきくと見え方がかわったりしますので、ぜひ、これからも乗車しようと思う方は、当記事も参考にしていただければと思います。
また、まだ無限列車を見ていないという方であれば、別記事で、劇場版をみる際の事前知識等を書いたものもありますので、そちらを参考にしてみてください。
それでは、さっそく、感想&解説に移っていきたいと思います。
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無限列車について
物語の概要や細かい内容については、この記事をご覧になっている人が十分に承知していることと思いますので、純粋に感想を述べていきます。
本作品は、原作漫画の7巻から8巻にあたる内容となっており、物語の全体からしてみると、あっという間に終わってしまう部分となっています。
そのため、純粋に原作を追っていた人間からすると、炎柱である煉獄杏寿郎に対して、それほど大きな感情を持っていなかった、という方が多いのではないでしょうか。
柱の中でも精神的にも鬼滅隊を支えていた人物でもありますし、炭治朗のアザの発動にも一役買うことになる重要な人物でもありますが、単行本で2冊分ぐらいでいなくなってしまっては、感情移入しろというほうが難しいでしょう。
ですが、劇場版では、はからずも煉獄杏寿郎という男の物語となっており、鬼滅の刃の本編でありながら、外伝のようにして、その男の生きざまにクローズアップした作品としてとらえることができるようになっています。
結果として、それが映画そのものも含めてヒットした要因の一つではないでしょうか。
オリジナル要素
原作と異なる部分として、映画では、オリジナルの鬼が、夢の中とはいえでてきたりしますし、映画ならではのまとめ方をしているのも特徴的です。
物語のはじめに、お館様こと、産屋敷とその妻が、墓を歩いているシーンからはじまります。
原作にはない場面となっており、本作では、物語の最初と最後によって、挟み込まれてつくられているのが特徴です。
こういった挟み込みをすることで、枠をつけるという点については、映画においてはよくある手法ではありますが、原作をまるっきりそのままではなく、映画用にまとまりのあるものに仕上げている点も見逃せません。
多くの鬼滅隊の隊員が死んでいったことがわかると同時に、産屋敷が、隊員の誰しもを平等に扱っていたことがわかります。
柱だから覚えているではなく、下っ端だから覚えていないのではない。
鬼滅の刃は、ブラック企業や人間組織におけるあるべき姿といった言葉で語られることもありますが、まさに、そういった意味では、中小企業の社長が、全社員の名前と家族を覚えている、というようなものでしょうか。
もちろん、ネタバレありと書いてありますのであえて書きますが・・・。
煉獄の死もまた、お館様にとっては、つらいことではありますが、鬼舞辻無惨との戦いの中で、道を切り開いていった人たちと同等に扱われているところがわかります。
そんな無限とも思える人々の死体の上に、炭治郎達がいることが、物語がはじまった瞬間わかるようになっています。
見どころ
いわずとしれた「鬼滅の刃 無限列車編」の見どころといえば、その戦闘シーンのすさまじさであることは言うまでもありません。
CGを多用しつつ、列車の中を縦横無尽に走り抜けるシーンなどは、圧巻です。
特に、原作では、いまいち凄さがわからなかった列車での戦闘シーンがはっきりわかるところも面白いです。
列車と同化した下弦の壱である魘夢が、乗客を人質に取りつつ主人公たちを襲うシーンは、はっきりと、肉体化したものが観客に襲いかかろうとしており、炭治郎達が、どうやってこれを守っていくのかというところの難しさが見て取れます。
また、原作では、いまいち何両あるのかわからなかった無限列車の車両も言ってくれており、炭治郎たちと、柱である煉獄の力の差がすぐにわかるように工夫されている点も素晴らしかったです。
上弦の参と、煉獄の戦いに至っては、一気に格の違いを見せつけられる戦いが、映像として作りこまれていました。
猪之助が近づくことすらできず、二人の戦いを、まともに目で追うこともできないという描写から、いかにその戦いがすごいものかが客観的にもわかるつくりになっていたりします。
凄さがわかる工夫も、ポイントです。
煉獄と母親
ある意味において、この作品のもう一人の主人公は、煉獄杏寿郎という人物であり、その人物の人となりを際立たせるために存在しているのが、母親の存在です。
原作よりも、はるかにかわいらしく、凛として美しく描かれたキャラクターは、作中での煉獄の背負ってきた責務の重さ、そして、何を彼が望んでいたのかを教えてくれるものでした。
高貴なるものの義務と言われるこの言葉を思い出さずにはいられません。
煉獄家は、代々柱として鬼滅隊に人材を送り出す名門であり、杏寿郎もまたすさまじいプレッシャーの中で、生きてきたはずです。
父親は、とある理由からダメ人間風になってはいますが、自分が、綿々と続いてきた煉獄家の流れを絶やすわけにいかないという矜持が杏寿郎をより強くしているのです。
そんな彼を、亡くなった母親が赦すことによって、一人の男の人生を描き出したからこそ、無限列車編は、一つの作品として、劇場映画単体として見ることができる作品となっているのではないでしょうか。
魘夢の多元宇宙
ここからは、ちょっとした蛇足を語ろうと思います。
下弦の壱 魘夢がつかった血鬼術ですが、この手の技というのは、色々な形で表現されています。
ぱっと思いつくところでは、天元突破グレンラガンにおいての、多元宇宙に取り込まれた時の回でしょうか。
知的生命体が認識した瞬間に実現化され、その宇宙をみせられることにより無限の可能性に精神を閉じ込められてしまう、という回です。
簡単にいってしまうと、先日記事にした、アニメ版「打ち上げ花火、下から見るか? 横から見るか?」における、もしも玉をつかったときのパラレルワールドみたいなものだと考えていただければと思います。
無限列車編においても、魘夢の血鬼術は、夢をみせるということによってそれを実現しています。
夢を見ているときに、自分が夢をみている、と気づくことはなかなかできないものです。
特に、家族を殺された炭治郎からすれば、鬼と戦っている現実のほうが、よほど悪夢に思えるはずですし、いかにも幸せな夢に逃げたくなる、というのは、いかにも人間的な欲望です。
事実、夢に逃げるために、幾人かの人間が、炭治郎達を殺そうとしてくるところなど、人間の、薄暗いところをそうとはみせずに表現しているといえます。
そして、炭治郎の心の美しさと、覚悟によって、物語の状況がかわっていくというのが、アニメーションによってより一層わかりやすくなっているところもまた、映像のすばらしさとなっています。
原作として押さえておくところ
これは本当に蛇足ですが、煉獄が夢の中に入り、まわりから「弟子にしてくれ、アニキー」
と言われて、喜んでいるシーン。
または、伊之助が、炭治郎たちを子分にしていい気になっているときなど、善逸が出っ歯として描かれている、というところは、原作ファンであれば、ちゃんとやっているな、と思うところです。
見た目の良さもあって、人気の善逸ですが、作中における彼は、他の人間から、出っ歯だと思われているという皮肉というか、小ネタが原作でこっそり解説されていたりするのですが、それを、あえてやっているところも、いい感じでした。
「鬼滅の刃 無限列車編」は、全23巻におけるほんのわずかな内容にすぎないところではありますが、前述したとおり、物語全体に影響を及ぼすことになる人物煉獄杏寿郎という男の生きざまに焦点をあてることによって、その前の事前情報を知らない人たちが見ても十分伝わる内容になっております。
そのことが、長い原作のたった2冊分でありながら、本作品を含めて、邦画史上例をみないほどの売り上げにつながることになったのではないでしょうか。
メインキャラクターのそれぞれが、心に嘘や偽りがなく、気持ちのいいキャラクターたちであるということももちろんヒットの要因でしょうし、コロナ渦において、各所映画館が、ものすごいサイクルで上映しまくったことも売り上げにつながったところでしょうが、見ていない方は、みておいて損はありませんし、別の物語へとつながるきっかけにもなると思いますので、興味をもった方は、本作品をきっかけに、色々な作品に手を広げていってもらいたいと思います。
以上、もう一度見る人へ。億り列車。感想。劇場版「鬼滅の刃 無限列車編」でした!!