愛することについて/きみに読む物語
年齢を経た中ですれ違う男女を描いた「ブルー・バレインタイン」や、ダッチワイフを彼女だとして連れてきた心の弱った男を「ラースとその彼女」で演じたライアン・ゴズリング。
近年では「ラ・ラ・ランド」などでもヒットを飛ばした俳優の、代表作の一つとしてあげられるのが「きみの読む物語」です。
恋愛映画の中でひときわ際立つ本作品について、その愛がどのように変化していったのかを含めながら、考えてみたいと思います。
はじめはひと夏の恋の物語
物語は、現代と過去をいったりきたりします。
施設の中で認知症の患者として生活している女性に対して、デュークと呼ばれている男性が、ノアとアリーの二人の恋物語を読み聞かせるところから物語ははじまります。
ライアン・ゴズリング演じるノアは、木材屋として建築現場などで働く男です。
ノアはある日、アリーという一時的に都会からやってきているお嬢さんであるアリーに一目ぼれしてしまいます。
かなり強引にアリーとデートをするノアですが、価値観の違いがありながらも二人は急速に惹かれあっていきます。
この作品を見る際に気になるところは、彼らの愛(恋)は本物か、というところです。
ライアン・ゴズリング演じるノアは、観覧車にぶらさがりながらデートを要求するという、とんでもない男です。
まるで、欲しいものはなんとしても手に入れようとする男かと思ったりしてしまいますが、彼は、どこまでも一途で純朴な人間であることがわかります。
お嬢様と田舎の男のひと夏のアバンチュールを描いたものかと思いきや、愛とはどういうものかが描かれていくからこそ、本作品が好きな人が多いのではないかと思います。
常識に縛られる物語
「きみに読む物語」が、ライアン・ゴズリング演じるノアが主人公かと思いますが、本当の主人公は、アリーです。
アリーという女性は、良家の娘です。
何不自由なく育ち、家柄のためにお嬢様学校に行くために勉強をしたり、レッスンを重ねたりしていますが、本当は、絵をかきたいと思っている女性です。
そんな彼女に、ノアは言います。
「君は、てっきり、自由かと思ってた」
「私は自由よ」
「そうかな」
そういってノアは、道路に寝転がります。
田舎の道とはいえ、いつ車がきても不思議ではありません。
「子供の頃、よく親父とこうして寝転んでいた。君もやってみないか」
「イヤ。だって・・・、とにかく起きてよ」
普通に考えれば、常識で考えれば、道路に寝転がるなんて無理です。
ただ、考えてもみれば、田舎の道で、しかも、当時のアメリカでそんなに車が走ってくることはないはずです。
とすれば、寝転がってはいけないのは、自分自身が決めていることに過ぎないのです。
「君は、自分を抑えている」
ノアからすれば、彼女は自由奔放で、縛られていないように見えていたのです。
ですが、世間や常識、家族などに縛られていることに気づいて、ノアはそれを取り払おうとしてくれたのです。
アリーは自分を抑えてずっと生きてきたことに気づきます。
「普段は考え事で、頭が混乱しているけど、筆を持つと世界が静かになる気がするの」
母親が望む娘を演じるために、彼女は、本当は絵を描きたかった、ということを思い出します。
よくあるパターンかもしれませんが、自分の境遇に不満や疑問を抱いていなかったお嬢様が、常識にとらわれない人間に出会うことで、自分が本当にやりたいことに気づく、という物語は、王道でありながらも、魅力的なものです。
母と娘の物語
ちょっとだけネタバレになります。
アリーとノアは離れ離れになり、その代わりに、ノアは手紙を毎日アリーに送ります。
ただし、家に届いた手紙を、アリーの母は娘渡しませんでした。届いていることすら伝えていません。
結果、365通もの手紙を書き続けたものの、それは届かない。
都会に戻ったアリーは、ノアとの関係を諦めます。
なんで、そんな簡単に諦めるのか、なぜ会いにいかないのか、ということを考えてしまうところですが、当時は簡単に旅行などできない時代ですし、お互いにやらなければならないことがあるため、どうしようもできなかったのでしょう。
二人を阻むものは、実は母親だったりします。
一通でも手紙が届けば、アリーとノアは再び恋の炎を燃え上がらせることでしょう。
ですが、一通も目に触れられなかったことで、アリーは進学し、新たな恋人であるロンと出会うことになるのです。
実は、母親もまた田舎の男と恋に落ちていたのですが、母親は、当時の世間や常識に打ち勝つことができず、育ちのいい旦那と結婚することになったのです。
この物語は、お金や将来は不安定な田舎出身の男をとるか、お金もちで家柄のいい将来安泰な男をとるか、で悩む物語でもあるのです。
でも、その悩みというのは、母親による呪縛から発生したものであるのです。
母親は、娘に自分と同じような道を歩ませようとすることで、娘の幸せを願っています。
アリーが、正しい道を選んだかどうか。
それは、二人の愛が本物かどうかにかかっているのです。
「ひとのことは考えるな、俺も両親も忘れろ。きみは、どうしたい?」
ノアは、アリーに言います。
本当のことをいうと、俺のことを考えて一緒にいてくれ、といいたい場面です。ですが、彼は、アリーのことを愛しているのです。
愛しているからこそ、ノアは、アリーのしたいことをやってほしいのです。
母親も同様です。
アリーを愛しているからこそ、正しいと思う道に進ませてあげたい。でも、自分がかつて選択した道も、その後示したことで、アリーを赦しているところが素晴らしいです。
「どうしたい?」
アリーは、車に乗って走り去ります。
男の物語
「きみに読む物語」において、ライアン・ゴズリング演じるノアという男は、辛い運命を背負った男として描かれています。
半ば強引に付き合うことができた良家のお嬢様。
ケンカをしながらも、二人は子犬のようにじゃれあい過ごしていましたが、相手はお嬢様であり、自分は、どもりを直すためにホイットマンの詩を読むぐらいしか学らしいものはない男です。
普通に生活するぶんにはまったく問題ありませんが、良家のお嬢様であるアリーとつりあいをとるためには、かなり不十分です。
アリーの家で食事をする際に「ご職業は?」ときかれて答えた後の、まわりの反応は非常に冷ややかなものでした。
結果として、彼は、アリーを諦め、同時に諦められないままに、家をつくることに没頭します。
何かをやり続けることで、道が開けるという点を示した作品としても見ることができますが、戦争に従事したことで、多くの犠牲者を見て、親友までなくした彼の人生が、抜け殻のように過ごしているのは、大変辛いところです。
愛するものを失ったあとの人生というのは、こういうものだ、ということがわかるところです。
「私はどこにでもいる平凡な思想の男だ。名を残すこともなくじきに忘れ去られる。ただ、誰にも負けなかったことがある。命がけで、ある人を愛した。私にはそれで十分だ」
過酷な状況の中で、ノアという人間を人間たらしめていたのは、アリーへの愛だった、ということが全編を通して示されます。
赤いアリーの物語
この作品は、デュークという男が女性に物語をきかせる話です。
デュークの話すアリーとは一体誰なのか。
ノアとアリーはどうなってしまったのか。
この物語は、ミステリーではありません。
そのため、物語を少しでもみていれば、デュークがノアであり、認知症の女性がアリーであることはすぐにわかります。
アリーは大事なときには赤い服をきており、認知症の女性もまた赤い服を着ていることから、その共通性もわかるところです。
この物語のポイントは、たとえ記憶を失ったとしても、愛は消えないということを示しているのです。
たとえ、一時であったとしても、彼らは愛し合っていたということこそが、大事なことであり、愛というものが、どういうものであるかが全編を通して、えがかれているのが「きみに読む物語」なのです。
「最高の愛は魂を目覚めさせ、人を成長させる」
文字通り、この作品では、愛があることによってアリーは、自分が本当にしたいことに気づいていくことができるのです。もしも、ノアと出会わなければ、自分の境遇に対して疑問ももたず、絵が好きだったことも忘れたまま、それなりにいい人生を歩んだことでしょう。
本作品では、ホイットマンの詩を象徴的な言葉として引用します。
「永遠なものは何もない。鈍く老いて冷たくなった体。こんな昔の炎の燃え殻でも、再び燃え上がる」
本作品がたんなる若い男女の恋愛物語であれば、老人となった二人を出す必要はありません。
美しい夏の恋からはじまった愛の物語として終わらせればよかったはずです。
また、この作品にでてくる男は、いい男ばかりでてきます。
アリーの父親も非常に物分りのいい人ですし、婚約者となったロンも、非常に大きな心でアリーを受け止めます。
だからこそ、アリーの母親は、今の旦那と結婚したのです。ロンと結婚した場合は、きっと母親と同じような人生だったでしょう。
映画の中で両方の結果を映画の中で示しているのも面白いところです。
いい作品は、可能性を示した上で、主人公がその道を選んだ、というところがわかるようになっていることが多いように思います。
人によっては、アリーを都合がいい女性と思うかもしれませんが、これはアリーという女性によって描かれた、きみに読む物語、であることがわかります。
そして、それを受け止めた男の物語でもあります。
愛とは何か。
人間にとっての苦悩や、愛することの大変さを描いた作品となっていますので、自分自身に迷いそうになったときに、見てみると感じ入ることができることがあるかもしれません。
以上、愛することについて/きみに読む物語でした!