シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

この世の果てで恋を歌う青年/ミスターノーバディ ジャコ・ヴァン・ドルマルの世界その3

ミスター・ノーバディ(字幕版)

 

「ミスターノーバディ」は、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の最高傑作です。

2016年5月には、5年ぶりの新作「神様メールが」公開される予定ですので、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督を予習する意味でも、「ミスターノーバディ」は是非見ておきたい一作です。


当ブログでも他に「トト・ザ・ヒーロー」や「八日目」を紹介していますが、ジャコ・ヴァン・ドルマルの世界観がこれでもかと詰まっている、集大成ともいえる作品です。

 

大雑把に言ってしまえば、一人の男の子が両親の離婚によって、お父さんについていくか、お母さんについていくかで悩む物語、となります。

ですが、ジャコ・ヴァン・ドルマルの特徴は、「妄想と現実」が同じ価値であるということです。

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何を言っているかわからない、という方は、前作品をみていただくことでより理解が深まると思いますので、是非記事をみてから戻ってきていただけるとありがたいです。

 

 

もちろん、単体で見てもまったく問題のない作品です。

豊富な予算と、構想から完成まで10年を要したという本作品。

その魅力。

そして、いったいどんな物語なのか、ということを、かの伝説のゲーム「世界の果てで恋を唄う少女YU-NO」との関連性を含めて、語っていきたいと思います。


最後まで読んだとき、あなたの世界は、少し変わって見えるかも、しれません。

 

あなたは誰と結婚する?

 

人生もある程度の年齢を過ぎた人、多くの決断をした人であればあるほど、思うことがあるのではないでしょうか。

あの時、当時付き合っていた人と結婚していたら、人生は変わっていたのではないか。


「ミスターノーバディ」の主人公、ニモ・ノーバディは、それを体言した存在です。

映画を少しでもみていただくと判るのですが、これは可能性の物語になっています。


もしも、あの子を選んでいたら、というIFの物語。

主人公が結婚する女性は、三人います。


アンナ。
イメージカラーが赤の女性であり、この作品のメインヒロインといってもいい存在です。


エリース。
彼女は、イメージカラーが水色の女性であり、非常に情緒が不安定です。


最後に、ジーン。
彼女は東洋系の美人で、劇中では、エリースにふられたニモがたまたま選ぶ相手でもあります。イメージカラーはイエロー。

様々な映像が交錯しますが、ジャコ・ヴァン・ドルマルは色やイメージを上手く使うことで、混乱することなく最後まで物語を伝えてくる技量はさすがとしかいえません。

 


基本的には、この三人の女性とどのような付き合いかをするか、その主人公がその全ての可能性を体験するというのが、この物語の重要なポイントになります。


当たり前ですが、人生というのは選択の連続です。

選択することで、それ以外の可能性を失くしてしまう。
それこそが、我々が住んでいる現実の世界です。

ですが、ネタバレは避けますが、この主人公であるニモ・ノーバディは、選択するということに対して、必要に言及しています。


「選択をしなければ、すべての可能性は残る」


お金を握り締めた彼は、エクレアとロールケーキどちらを買うか迷いますが、結局、どちらも買わないことで、結果として可能性を残す、という選択肢をとりました。

 

ボケた老人のたわごとか?

 

物語が始まると、ベッドに横たわった老人が現れます。

その老人ニモ・ノーバディは、人が死ななくなった世界において、唯一死ぬことができる人間です。

SF的設定ですが、この物語では、テロマー化と呼ばれる謎の手法によって、人類から死がなくなったという設定になっています。

その世界の中で、最高齢になっているニモが、医者やインタビュアーに対して、自分の一生を語り始めるというのがこの物語の大枠になっています。

 

しかし、この老人の話す内容は支離滅裂なのです。

「私は34歳。1975年に生まれた」


幼い頃両親が離婚し、父についていったといい、また、母とも過ごしたといいます。

孤独に生きたときもあれば、女性とともに過ごしていたこともある。


このようにして物語を語っていく形式では、インタビュー・ウィズ・ヴァンパイアなどが本ブログでも紹介したものとなっていますが、傍からみていれば、頭がどうかしてしまったとしか思えない老人の話と思うことでしょう。

 

 

意味がわからないという方も多いと思いますが、ジャコ・ヴァン・ドルマルの他の作品にも共通していえるのは「妄想と現実」というのは同じ価値をもっているというのが大きなポイントになっています。

 

ニモ・ノーバディが話すことは真実なのか、嘘なのか。


少なくとも、彼の頭の中では間違ってはいないのです。

 

映像の繋ぎ方

 

ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は、この映画の編集にものすごい時間を費やしたといいいます。


三人の女性とそれぞれ付き合った男の一生を描いているわけですから、普通に考えれば混乱して理解できない状態になることでしょう。

人間の一生が錯綜する物語としては、カート・ヴォネカット原作「スローターハウス5」なんかも、未来や過去、宇宙人や戦争時代などをいったりきたりして、見慣れない人間からすると混乱してしまいがちです。


ですが、ジャコ・ヴァン・ドルマルは人間に記憶や連想というのを意識した、とインタビューでも語っており、その編集の繋ぎ方は、非常に無理なく頭にはいってくるようになっています。


この作品の中では、何回も主人公は死にます

時には事故にあい、時には殺される。

悲劇が起こるときは、水に関連することが多かったりするのですが、その水がでてきたときの連想で、次々と悪い映像が流れてくる編集などは、悪夢をみているときの夢も変化にも似ています。

 

全ては少年のあたまの中。

 

ここからはそろそろネタバレを含んできます。

ただ、知っていたところでこの物語の価値はまったくかわりませんので、見ていない方も見ていない方も気にせず進んでいただきたいと思います。

 

さて、この物語は可能性の物語です。

 

なぜ主人公であるニモ・ノーバディはあらゆる人生の決断を何回もやり直すことができるのか。

その説明については、天使が生まれ変わらせるときに、『忘却のしるし』を付け忘れたからだ、という説明が入ります。

生まれる前に子供は、両親を選び、その全てを知った上で忘れさせられ、生まれかわるという設定なのです。ですが、その忘却をさせられなかった少年だから、何度も人生をやり直すことができる、ということになっています。

 

ただし、この作品において、SF的な設定というのはそれほど重要ではありません。

ジャコ・ヴァン・ドルマルの世界というのは、だいたいにおいて、少しおもちゃのような世界になっているから、そのあたりを深く考える必要はないと思います。


覚えておくべきは、ミスターノーバディの世界は、一人の少年の頭の中のできごとということだけです。


少年にとって、お父さんを選ぶか、お母さんを選ぶか。

エクレアとロールケーキのように簡単に選ぶことなんてできません。

ですから、彼は頭の中ですべての可能性を考える、というのがこの物語のラストシーンの意味になってきます。


すべてを考え終えたあと、物語ははじまりの時に戻っていく。

そして、再び選択。

決断が行われていくというのがこの物語なのです。

 

では、なぜこんなエンディングになっていったのでしょうか。

それが、冒頭でも話をした、伝説的なゲームとの関連になってくるのです。

 

映画的引用

 核心に触れる前に余談を書いておきたいと思います。


まず、この物語は誤解を恐れずに言えば3層構造になっています。

一層目は、118歳の老人ニモ・ノーバディが語りながら、死ぬまで。


二層目を飛ばして、3層目は、ニモの幼少から青年期にかけてのあらゆる決断を行った世界。

 

2層目は、その中間にある死の世界ともいえる場所です。

あの世とこの世の狭間と捕らえると判りやすいところですが、その世界は、つくりものめいた世界になっています。


ジム・キャリー主演「トゥルーマン・ショー」のように、主人公が見えない部分は巨大なセットになっていて、主人公だけがそのことを知らないで過ごしている。

そんな世界が2層目の世界なのです。

だから、予期せぬ行動をしたときには、まだ作りかけの世界がベロリと口をあけていたり、道路が不自然に舗装されていたりするのです。


そんな狭間の世界だというのは、母を求めるノーバディが、ドアを開けて、おばさんに抱きつこうとするところでわかります。


「私はあなたの母親じゃないわ」

そうして後ろからでてきたのは、前作「八日目」にでてきたジョルジュ役の俳優です。彼は、ニモから母親を取り返します。


八日目では、ジョルジュはお母さんを求めて決断をします。ファンサービスの一環なきはしますが、ジョルジュは幸せに暮らしている、ということがこのシーンでわかるのです。


映画の引用は様々なところで見られますが、バイク事故で身体が動かなくなったニモが、看護婦さんの動きや、日差しの暖かさで季節の動きを知るというシーン。

これは、ドナルド・トランボが監督を務めた「ジョニーは戦場へ行った」のオマージュと思われますし、母親との折り合いが悪くなったニモは、自殺の振りをしますが、母親はその様子をみても驚こうとすらしません。

これは、当ブログで相方のニャロ目が紹介した「ハロルドとモード」のオマージュになっています。

 

また、自分の映画のパロディのようなものをちらほら入れています。

知らなくても、知っていてもいずれにしても面白いつくりになっているのは、さすがです。

 

ゲーム的リアリズムから見るノーバディ

 

さて、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督は「日本の人は、この映画がよく理解できるんじゃないかな」とインタビューで言っています。
(どの記事だったかは失念してしまいましたが)。


何度も書いてきたように、この物語は、正直いってかなり複雑です。

ですが、ジャコ・ヴァン・ドルマルの編集技術によって、その複雑な物語が、すんなり頭の中には入ってきます。

ですが、ビッククランチと呼ばれる現象によって、宇宙が膨張から収縮へ向かって、死んだものが生き返り、すべては原初へと帰っていきます。


何度も書きますが、この物語は、決断できなかった少年の、物語なのです、。


さて、なぜ日本人であれば理解しやすいのか。

それは、もう少し限定して考える必要があります。


これは、日本におけるパソコンゲームの中でも、ビジュアルノベルと言われる作品をやったことのある人間であれば、容易に理解できる物語だからです。

 

日本において、ビジュアルノベルというのは、一種アンダーグラウンドな世界と、参入するのに非常にハードルが低かったということもあって、多くの人間がつくりだし、2000年前後を最大として、今なおつくりつづけられているゲームの1ジャンルです。


多くの場合、それは恋愛をモチーフにつくられており、プレイヤーは、選択肢が与えられて、その選択を選ぶことによって、複数の女性キャラクターの中から一人を選び、ハッピーエンドを目指していくというゲーム形体をとっています。


ゲームによって選べるキャラクターは様々であり、ある時期からは女性の主人公として、イケメンキャラを攻略していくという乙女ゲーなんていうのも当たり前のように売られるようになりました。


いずれにしても、主人公の選択によって、誰かを選ぶということについては変わりがありません。


ミスターノーバディは、そんな日本のパソコンゲーム的な考えによって作られたとも考えられるのです。


ですが、この映画は特にある一つの作品の影響が強いと考えています。


選択をすると他のキャラクターは攻略できなくなります。

また、物語をやり直すことでしか、別のキャラクターを攻略することができません。

当たり前のことですが、ゲームという性質上、リセットしてはじめて、新しくゲームをやり直すことができます。

 

そのため、いくらその前にやったときにキャラクターとラブラブになっていたとしても、別のキャラクターを攻略する場合は、もう、今までラブラブだったキャラクターとは赤の他人に逆戻りです。


物語のルートによっては、誰かが悲しんでいて、主人公の選択によって助かったかもしれません。

ですが、別のキャラクターを攻略する場合、もう、その悲しんでいるキャラクターを助けることができないのです。

また、どんな悲劇的なできごとがあったとしても、そのゲームの中ではなかったことになってしまうのです。


これは、ゲームという性質上避けられない事実です。


そんな中、1996年に発売され、今なお伝説として語り継がれるゲームが存在します。

おそらくは、ミスターバーディはそのゲームの影響を感じずにはいられないつくりとなっているのです。

 

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO

 

この世の果てで恋を唄う少女YU-NO」は、剣乃ひろゆきこと、菅野ひろゆきがつくりあげたゲームです。


PC-98という、NECが誇るパソコン黎明期につくりだされた機器で発売され、後にセガ・サターンやパソコンに移植されたものの、様々な権利問題から大手を振って発売されることがない作品です。

一応、2016年にフルリメイク版が発売されるとして、公式HPでも発表されている作品ですが、ミスターノーバディを見ていると、この作品のことを思わずにはいられないのです。


主人公である有馬たくやは、事故にあっていなくなった父親を探しているうちに、リフレクターデバイスと呼ばれる装置で、平行世界を旅することができるようになります。

平行世界というのは、簡単にいえば、起こりえたかもしれない世界と考えていただいて結構です。

 

大雑把に書きますと、テーブルの上にケーキがある。

そのケーキを食べたあと、やっぱり、食べるのをやめようと思ったら、彼はケーキを食べなかった世界にいけるのです。


この物語は、時間の考え方や考古学的な知識など、様々な考え方の上に成り立っており、容易に説明することはできないので詳細は省きます。


ただ、大雑把に言ってしまえば、先ほど書いたビジュアルノベルという性質上必ず、選択肢を選ばなければなりません。


ですが、YU-NOでは、ADMS(アダムス)とよばれる、オートマッピングシステムが採用されており、選択肢そのものが別の世界という風に考えられ、視覚的にとらえることができるようになっています。


どういうことかと言いますと、選択肢で、肉を食べるか、魚を食べるか、という選択肢があったとします。


その選択肢というそのものを、地図のように表し、肉を食べる場合は右の道へ。魚を食べる場合は、左の道へ行ったように見せてくれるのです。

そして、その分岐点ごとに「宝玉」とよばれるセーブポイントをおくことで、平行世界を渡り歩いていくというのが、この作品の最大の特徴になっています。


先ほど書いた、選択肢があるヴィジュアルノベルという世界の、欠点そのものをゲームに取り入れているのです。

 

だから、この物語を終えたとき、自分が選択したせいで救えなかったキャラクターも、平行世界では救えているという結果が残るようになっているのです。

選択しなかったから悲劇が起こらなかったのではなく、悲劇が起きた世界も、起きなかった世界も同時に存在して、その全てが、ゲームそのものに関わっているという非常に深い内容になっているのです。

 

 

 

 

可能性は無限ではない。

 

さて、ミスターノーバディに戻りますが、118歳のノーバディは、あらゆる可能性を体験した最後のニモ・ノーバディです。


病気で死んだニモもいれば、事故で死んだニモもいたことでしょう。


でも、118歳のニモ・ノーバディは、9歳の少年が考えた中で、もっとも最後まで生き残った可能性に過ぎないのです。

 

「9歳の子供の想像の産物でしかないのだ」


この物語の分岐について考えるということは大事ですが、この場合、「YU-NO」と同じ発想に立って考えたほうが、より物語を理解することが可能だと考えます。

 

YU-NOのネタバレになってしまいますが、YU-NOは最後に、あらゆる可能性を試した上で、主人公は異世界に飛ばされます。

そして、その異世界にいったあと、彼は世界を救うために、はじまりの場所へと旅立つのです。

あらゆる物事が始まる生命の樹と呼ばれるものがつくりだされる瞬間。

宇宙誕生の前の世界。

あらゆる可能性の始まりの世界へと、物語の最後に行くというのが「YU-NO」の最大のエンディングなのです。

 

さて、ミスターノーバディもまた、ビッククランチと呼ばれる大収縮が始まり、やがてはじまりの世界へと戻っていきます。


すべての可能性を終えて、少年はまた9歳の頃へと戻ります。

そして、そのすべてを知った上で、どんな決断を下すのか。

それは、是非、ミスターノーバディをみて頂きたいと思いますが、この物語が、ヴィジュアルノベル的な可能性の中で生まれた作品であるという可能性は、非常に高いと思います。


ジャコ・ヴァン・ドルマルは、「トト・ザ・ヒーロー」において、死から始まり、自分の人生を都合のいいように考えてしまう老人の話を描きました。
その中では、彼は、名探偵トトであり、その事実は変わりません。


また、八日目では、ジョルジュというギリシャ正教でいうところのホーリーフール(聖なるバカ)のようなキャラクターが描かれ、その中で、生も死も、妄想も現実も全て同じ価値であるということが示されました。
物語のラストは一見悲惨ですが、暗い様子では描かれておらず、楽しげに終わっているのはそのためです。


そして、ノーバディではまさにその集大成として、あらゆる物事は、同価値であるということを、一人の人間にあらゆる可能性と一生という形で示した作品です。


人生に迷うことがある我々は、やはり、何度も見返したくなる作品ですので、ジャコ・ヴァン・ドルマルの5年ぶりの新作「神様メール」を見る前に、見返してみるのも面白いかもしれません。

 

 

以上、「この世の果てで恋を唄う青年/ミスターノーバディ ジャコヴァンドルマルの世界」でした!

 

ジャコ・ヴァン・ドルマルの他作品はこちらです。

 


 

 

 

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