ディカプリオ アカデミー賞受賞作品/レヴェナント:蘇えりし者
「レヴェナント:蘇えりし者」は、レオナルド・ディカプリオが5度のノミネートを経てようやくアカデミー主演男優賞を受賞した記念すべき作品でです。
アメリカ西部開拓時代の実在の人物を演じ、実際の冬山で行われた過酷なロケは、その裏事情を知らなくても、驚くしかないシーンが満載しています。
そんな日本に一般公開が4月22日にされたばかりの本作品「レヴェナント:蘇えりし者」の見所を解説していきたいと思います。
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蘇りし者とは
「レヴェナント(原題 The Revenant)」は、亡霊を意味します。
一体、何が亡霊なのか。どういう状態なのか、ということも気になるところですが、映画をみていくうちになんとなくわかってきます。
まず、ストーリーそのものは複雑ではありません。
レオナルド・ディカプリオ演じる猟師をやっている主人公ヒュー・グラス。
彼は、インディアンとの間につくった息子ホークと共に、毛皮を捕って生活を立てる組織の一員として働いています。
90人を越える大所帯で毛皮をとりに行き、いざ帰ろうとしたところでインディアンに襲われてメンバーの大半は殺されてしまいます。
ヒュー・グラスの先導のもと逃げようとしますが、ヒュー・グラスはクマに襲われて、喉を食い破られ、瀕死の重傷を負ってしまうのです。
そんな中、仲間たちから見放され、息子ホークと若いハンターの男ブリンジャー、そして、自分のことを快く思わないトム・ハーディー演じるフィッツジェラルドの三人が残ります。
主人公が動けない中、フィッツジェラルドは息子を殺し、自分を見捨てていってしまいます。
ディカプリオ演じるヒューは、殺された息子の敵をうつべく、地面を這いずりながら生き延びようとする、というのがレヴェナントの物語です。
もっと簡単に言ってしまえば、瀕死の重症を追ったディカプリオが、生きて復讐を遂げることができるのか。
というのがこの物語の全てです。
見所はどこなのか。まずは戦闘シーン。
ストーリーで言ってしまえば、それほどのストーリーはありません。
ですが、この作品は、本ブログでも紹介した「バードマン(あるいは、無知がもたらす予期せぬ奇跡)のイニャリトゥ監督がメガホンをとっています。
また、バードマンのときと撮影監督が同じエマニュエル・ルベツキということもあり、その映像やカメラワークの凄まじさと、ほぼレオナルド・ディカプリオの一人芝居が大半を占めながらも、イニャリトゥ監督の深いテーマがこめられています。
撮影で言えば、言うまでもないのですが、バードマンの際には突出していたのが長回しです。
バードマンのように映画一本をほぼワンカットで撮影してしまうという離れ業は行われていませんが、インディアンに襲われるシーンは、ほぼワンカットで撮影されており、
バードマンの手法で見られた、劇場でのドタバタっぷりが、戦場で同じようにしてみることができる、という点では目を見張るばかりです。
また、インディアンに襲われるシーンで思い出されたのは、プライベート・ライアンです。
プライベートライアンは、物語のほとんど最初に行われるノルマンディー上陸作戦という戦闘シーンが有名です。
気づいたときには人が死に、そのあまりに理不尽な死に様は、見ている人間が戦場にいるような臨場感を味わうことができます。
レヴェナントでも、次々と人が死に、泥臭い戦いの中で、次々とカメラが撮影する人物がバトンタッチされていく様は、自分がその場にいるような感覚になります。
あまりに動きがいいので、具合が悪くなりかけたぐらいです。
クマに襲われる
レオナルド・ディカプリオ演じる主人公ヒュー・グラスは、突然クマに襲われます。
突然襲い掛かってくる母熊。
あっという間の出来事と、熊の迫力は一見の価値があります。
よだれをたらしながらディカプリオの顔に鼻を近づける姿。
非常にリアリティがある熊の動きと、なんとかして生き延びようとするディカプリオの気迫。
日本におけるツキノワグマと比べると、圧倒的な差があるグリズリー。
作中でも「良くクマを退治できたな」とほめられるほどです。
北海道のエゾヒグマなどと近いといわれており、スティーブン・スピルバーグの「ジョーズ」のヒットを受けて、「グリズリー」という映画がつくられたことからも、グリズリーがいかに人間にとって脅威的な存在かがわかるというものです。

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その後、瀕死の重傷を負ったディカプリオは、冒頭でも紹介したとおり、足手まといになるためメンバーからおいてきぼりを喰らいます。
もう死ぬだろうと思われたため、隊のキャプテンである男が「死を見届けて、埋葬したものには一人100ドルだす」
と告げ、息子を含む三人が残ります。
しかし、トム・ハーディ演じる男は、ディカプリオが助からないことはわかっているので、さっさと本隊に戻りたいと思っているのです。
そこで、
「取引しよう。俺が楽に殺してやる。まばたきが合図だ。まばたきをしたら殺してやる」
というのです。
目をあけているディカプリオが、どれだけ長い時間まばたきを我慢することができるというのか。
もはや、殺すつもりしかない取引が始まるのです。
甦ったディカプリオの演技
アカデミー主演男優賞を受賞したという演技がすごいというのは想像がつくと思いますが、具体的にどのようなところがすごかったのか、いくつかあげてみたいと思います。
生魚を生で食べる。
重症のディカプリオは這いずりながらも、一人で生き延びねばならなくなります。
そこで、川で魚を捕るのですが、当然火なんて満足につかえません。
流れている冷たい川を石で囲い、魚をおびき寄せたディカプリオが、魚を手でもったかと思うと、そのまま口に魚をもっていって、かじります。
是非映像でその瞬間を見ていただきたのですが、その淀みのない動きは、演技とはいえそう簡単にでできるものではありません。
また、ディカプリオは、実生活においては菜食主義者です。
ですが、劇中では、殺されたバッファローの生肉をわしずかみにして食べるシーンがあるのです。一度は吐き出すものの、生きるため、演技のため、食べつづけるシーンは、狂気すら感じます。
吹雪から身を守るため、死んだ馬の腹を切り裂き、その中に全裸で入る、というシーンには、もう役者魂を感じずにはいられません。
演技というよりは、普通の人間が嫌がることをどこまでできるのか、という過酷に挑戦する人間を見るという意味でも、レヴェナントは見る価値があると思います。
劇中において主人公はなぜ、そんな瀕死の重症になってまで生き延びようとするのでしょうか。
普通だったら、自ら死を望んでも不思議ではありません。
冬山の中、クマに襲われ、喉を食い破られ、仲間もいない。
それには、主人公の奥さんに原因があるのです。
息が続く限り、戦い続けろ
主人公の目的がわかると、この作品のストーリーはまた違ってみえてきます。
理由は省きますが、ディカプリオ演じるヒュー・グラスは、インディアンだった奥さんを守ることができなかった、という罪悪感をかかえています。
その罪悪感をかかえるあまりに、息子にずっと「お前のそばにずっといる」と言って生きていたのです。
ですが、息子が殺されたことで、グラスは息子と一緒にいることができなくなります。
そこで彼は死を選びません。
なぜならば、おそらく奥さんに言われたのです。
「息が続く限り、戦い続けろ」
これは、インディアンの伝承や歌の類なのかもしれませんが、劇中で何度もそのフレーズが繰り返されるのです。
字幕等ではでてこなくなりますが、ディカプリオが物語の後半で歩いているときにも、頭の上で何度もその台詞が聞こえてくるのです。
息が続くのであれば、闘え。
彼は、息子のため、奥さんのため、戦い続けるしかない。
それは、結果として死ぬことができない亡霊のような男、レヴェナントの物語なのです。
そして、これは神の物語
この物語を通して、感じるとることができるのは、おそらく、神というものの存在かもしれません。
それは、大自然がもたらす恵みや、壮大な自然の風景を見ることでよりはっきりと意図を感じ取ることができます。
山々の間を、小さな粒のように、ディカプリオが歩く姿は、何度も映し出されます。
西部開拓時代のアメリカにおいて、死はいたって当たり前の存在です。
その西部開拓時代の理不尽な死をコメディとしてつくった作品で「荒野はつらいよ」という映画「テッド」の監督作品もありますが、とにもかくにも、開拓時代において、人の死は簡単に訪れてしまうのです。
特に、雪山であればなおのこと。
「神は与えもするが、奪いもする」
猟銃を頭につきつけて、トム・ハーディー演じるフィッツジェラルドが言い放ちます。
旧約聖書における神は、非常にきまぐれな存在です。
ヨブ記は、神を信じる敬虔な男ヨブが徹底的になまでに、酷い目にあう話です。
ヨブは妻や子供、富に恵まれていますが、悪魔が神と賭けをして、過酷な状況になれば、きっとヨブは神を裏切るだろう、といい、神がその賭けにのってしまうことからはじまる悲劇です。
その神の気まぐれ。
神は、凡人である人間が神が考える壮大なことを理解する必要などない、といったりするのですが、レヴェナントにおいては、この旧約聖書の神をベースに物語が進んでいるのは間違いありません。
フィッツジェラルドは、別のシーンで、焚き火を囲みながら若者であるブリンジャーに言います。
「俺の親父は、仲間が殺されて一人で荒野をさまよったとき、荒野の中で一本だけ立っている木にのぼって、神を見つけたと叫んだんだ」
フィッツジェラルドは嬉しそうに語ります。
「何を見つけたと思う。まるまると太ったリスだ。リスをみて神だといったんだ。そしれ、リスを殺して食った」
気が狂ったと思う人もいるかもしれませんが、フィッツジェラルドの父親は食料がなく、おそらく、大変な状況にあったのでしょう。その中で、自分に食料が与えられた。
その奇跡に、神を見つけたと思ったのは、不思議ではありません。
旧約聖書における神は、人々に、色々な形で富をもたらします。また、人間以外の動物は、自由にしていいというのが考え方の一つとして存在しているのです。
神はあらゆる形で現れる。それが、リスの姿となって、自らを差し出したと考えても、不思議ではないのです。
ディカプリオがバッファローを食べるシーンもそれと同じです。
彼一人では、バッファローをつかまえることができません。
ですが、オオカミに襲われているバッファローを見つけます。
そう、必ず、彼は食べ残しにありつけるのです。
そういった、ある意味都合のいいと思われるできごとはありますが、これはあくまで実話をもとにした物語ですので、その都合の良さそのものを、神の意図としてつくるというのは、自然なことと思われます。
物語のおわりに
これ以上記載すると、ネタバレになってしまいますので、残りの見所は是非映画をみていただきたいと思いますが、最後にラスト、主人公はどうなったのか、ということをある程度ぼかした上で、語ってみたいと思います。
先ほど、旧約聖書における神について関連性をかきました。
旧約聖書の神は復讐することを止めません。
この物語は2部構成になっていまして、1部目はディカプリオが死にかけの状態から復活して、仲間達のもとに戻るまでです。
その間、彼はインディアンにも狙われていて、回復をしながら、逃げていきます。その中で、原住民のインディアンよりも、自分と同じ白人のほうがより野蛮であるという姿を見ることにもなります。
2部目は、仲間のもとに戻ったあと、息子を殺した男を捕まえにいく物語になります。
そこで、彼は復讐をとげようとするのですが、物語のラストで再び妻が現れます。
そして、彼は見上げます。
これは映画を是非ご覧頂いてから戻ってきていただきたいのですが、その復讐の最中、彼はいったいどのような心境の変化があったのか。
それは、旧約聖書から新約聖書へと主人公の気持ちが変化したのではないでしょうか。
旧約聖書は復讐を認めます。
ですが、新約聖書は、赦しの世界です。
一人の男が土の中で甦り、やがて、復讐の果てに新約聖書的な世界にたどり着く、という非常に宗教的な見方もできる物語になっているのではないでしょうか。
そして、何よりも、圧倒的な自然の前に、いかに人間と言うのがちっぽけな存在であるか、がわかる作品となっています。
さらに、この作品を見ていて思うのは、過酷な自然環境と、自然がもたらす恵みそのものです。
ディカプリオは、時には草を食べ、死骸の骨にある肉片を食べ、魚を食べ、肉を食べる。
それができるのは、自然があるからです。
イニャリトゥ監督は、この作品で、自然環境について訴えたいという話もしているようです。
この映画の自然を見ると、環境破壊のいい悪いは別として、自然環境そのものの壮大な豊さを、圧倒的なスケール感じで受け取ることはできると思います。
現代人には失われてしまったものを取り戻すことにもつながるかもしれない作品ですので、是非ご覧いただければと思います。
以上、「ディカプリオアカデミー賞受賞作品/レヴェナント:甦えりし者」でした!
イニャリトゥ監督の作品は以下です。