シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

悪臭ふんぷんたるレジスタンス  深作欣二『狼と豚と人間』

今回は深作欣二監督のギャング映画『狼と豚と人間』(1964年、95分)を取り上げます。

 

出演は高倉健(黒木次郎=次男)、三國連太郎(黒木市郎=長男)、北大路欣也(黒木三郎=三男)というそうそうたるメンツでございます。もう50年前の作品なんですね~。モノクロ映画ですよ。

 

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貧民街から抜け出せ!

先ほど挙げた三人は兄弟という役柄で、彼らは悪臭にまみれた貧民窟に生まれます。長男の市郎、続いて次郎と家族と故郷を捨てて、都会にでていきます。彼らはそれぞれ成功を手にするために危ない橋を渡ります。まっとうに生きる気などさらさらありません。市郎はヤクザ岩崎組の幹部に、次郎は金持ちの愛人のヒモとなります。

 

残された三郎は汚物にまみれながらも最期まで母を看取ります。葬式には長男、次男を呼ばず、チンピラ仲間と歌いながら、母親の遺骨を海に投げ捨てます。

 

親兄弟との縁は切れてしまいましたが三郎にはチンピラ仲間がいます。彼らと楽しく、気ままに、そしていつかでかいことをしてやろう、この汚い町を吹き飛ばしてやろうと考えています。

 

一方、次郎は次郎で、国外脱出を企み、兄の所属する岩崎組から大金を奪おうと相棒の水原と計画していた。

 

得られる金からすると微々たる額であることを隠しつつ、報酬をちらつかせ三郎を含めたチンピラたちを兵隊として使います。三郎は自分を捨てて逃げた次郎への激しい怒りがありますが、金に目がくらんだ仲間の説得もあり、しぶしぶ参加を決定します。

 

駅構内での麻薬取引の現場を強襲して、次郎たちは麻薬と現金を手にしますが、そこから、次郎、三郎、水原という三者三様の思惑による激しい仲間割れが巻き起こります。さらに、岩崎組で立場が危うくなりつつある市郎もその争いに加わり、三郎がアジトとしていた故郷の故郷の古い倉庫の中で最期の戦いの幕があがります。

 

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アジト攻防戦へ

市郎と次郎が貧民街から脱出し、なんとか自力で生き抜いてきたのに対し、三郎たちチンピラの描く「理想郷」的なお話は夢見がちで現実を知らない若者のの戯言ともいえますが、彼らを取り巻く環境を考えると、仕方ないことでもあります。というわけで、この映画を観るときには彼らがいかに現実社会に抵抗し、そして敗北するかという点に注目することになりますね。

 

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彼らは故郷にある古ぼけた倉庫を根城にしていて、その場所が三兄弟の運命が最期に交差する重要なスペースとなります。

 

話をオープニングに戻すと、冒頭、止め絵とナレーションにより、ダイジェストのような感覚でストーリーが説明されていきます。これは同じ深作監督の『恐喝こそわが人生』でも似たような手法が取られています。全体の雰囲気にしても、犯罪グループの成功と失敗を描くという内容が今作と重なりますね。

 

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さて、物語の中盤以降、麻薬取引現場から金品を奪ったあとは、前述した通り、ほとんどこのアジト(秘密基地的センチメンタリズムを誘います)が作品の舞台となるのですが、そこでの攻防に三兄弟の社会での立ち位置がしっかりと計算され、反映されています

 

三兄弟の運命を分かつ境界線

アジト攻防での画面構成について触れる前に、少し小ネタを。

 

この映画、至るところで匂い、悪臭について触れるシーンがでてきます。貧民=くさい、金持ち=くさくない、という単純明快な二元論に端を発する、この「匂い」。深作監督らはその匂いを画面上に立ちのぼらせようとなんと本当にゴミをじゃんじゃんロケ地に運びこんだそうです。当然、現場は悪臭の嵐。日本脳炎という恐ろしい病気が発生するだのしないだのの騒ぎになって、予防接種を受けつつ撮影していたと本人が述懐しています。

そこまで「演出」に拘っていたんですよ、深作監督は。

 

映画監督 深作欣二

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そしてアジト攻防戦。

 

三郎がかっさらってきた現金と薬をどこかへ隠してしまったことから全ては始まります。海外への高飛びの夢が潰えた次郎と相棒の水原は、三郎はじめチンピラたちを拷問してブツの在り処を吐き出させようとしますが、うまくいきません。この場面ではただのヤンチャ仲間かと思われていたチンピラ集団の意外な結束力が発揮されますが、それも昼夜を通して続けられる拷問の前にあえなく解消されてしまいます。

 

その後、チンピラが吐いた隠し場所を次郎がめぐるのですが、そのあいだに市郎らのヤクザ組織が、強盗犯人を次郎・水原たちであると突き止めるのです。

 

で、再び戦いの場がアジトを中心にして発生します。

 

次郎、水原、三郎(とチンピラたち)、市郎(と岩崎組)たちが対立することになるのです。アジトの中には次郎、水原、三郎が互いを牽制しあい、その外で市郎らが取り囲んでいるという構図です。

 

彼ら三兄弟は汚れた生まれ故郷なんて捨ててやると心に誓っていたのですが、映画の終盤ではみなその故郷にあるアジトに帰ってきてしまったわけです。そして、その中で次郎は三郎を救うために水原を撃ち殺します。

 

三郎はこれまで自分を捨て、年老いた母の世話を押しつけた市郎と次郎を憎悪していました。そんな次郎がこの極限状態においては自分を助けてくれたのです。腐っても兄弟、絆は深くつながれていたのです。

 

しかし、市郎は違います。一匹狼で生きてきた次郎と違い、今や組織の一員となった市郎はいまさら兄弟だからといって彼らの元に帰ることはできません。市郎は今や彼らに制裁を与える立場になったのです。その地位を捨てて、かつてともに過ごしたアジトに戻る決意が、市郎にはできなかったのです。

 

その「次郎・三郎」と「市郎」の対立が、このアジトでの銃撃シーンでは図式的に描写されています。

 

貧民窟内でのアジトの中に立てこもりヤクザ組織に抵抗する「次郎・三郎」、そして一瞬逡巡するものの決してアジトの中へは入らない「市郎」、アジトの入り口を境界線として、彼らは分断されているのです。ここでは精神(社会、組織への抵抗)と肉体(次郎らにはほぼ武器なし、ヤクザ組織はもちろんほ全員銃を持っている)の対立が、アジト(内面)とその周囲(外面)にそのまま一致しているわけです。

 

なんてわかりやすい構図なのでしょうか。

 

アジト周辺の場面が中盤以降延々と続いて、画面構成の起伏に乏しい、という感想もあるでしょうが、そんな不満も全ては、この兄弟たちの最期の「大喧嘩」に回収・昇華されていくのです。

 

もちろん物語は悲劇的な終末を迎え、とぼとぼと貧民窟を後にする、この戦いの勝者の「ある人物」の背中に、住民たちからネズミの死骸と石が投げつけられます。

 

一度振り向いたものの「ある人物」は再びとぼとぼと歩きだします。彼はもう二度とこの町に戻ってこないでしょう。

 

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で、「狼と豚と人間」って何を意味しているんだブー?

当然、三兄弟なんで、それぞれに動物が対応していると考えるのが自然です。

 

つまり、組織の中で生きていく「市郎=豚」、一人で生き抜こうとする「次郎=狼」、仲間と協力して生きていく「三郎=人間」。まあ映画を観終わったあとならそう考えるのが普通だと思います。

 

で、この構図をさらにひねってみると、「狼=一匹狼=抵抗者」、「豚=家畜」、「人間=一般人、争いに興味なし」という風に考えられそうです。つまり、勝敗は別にして、「抵抗するもの」、「抵抗しないもの」、「傍観するもの」、というわれわれ人間そのものの性質を言い表しているともいえるのです。さて、あなたはどのタイプでしょうか…。

 

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というわけで今回は『狼と豚と人間』を取り上げました。

 

タイトルが三兄弟の関係性をあらわしているという特徴や、アジト攻防に関する構図の設定、そしてナレーションを使った描写の省略から、やや図式的な内容であり、映画的なストーリー展開に面白みに欠けるというご意見もあるようなのですが、まあいいじゃないですか。運命から逃げ出そうとした三兄弟の、最期にしてもっとも壮絶な兄弟喧嘩が観られるのですから。

 

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