高畑勲監督遺作「かぐや姫の物語」
「ホーホケキョ となりの山田くん」から14年。高畑勲監督による「かぐや姫の物語」は、興行的にふるうものではありませんでしたが、一度は見ておく映画としてオススメしたいと思います。
また、数々の良作を作り、多くのクリエイターの影響を与えた高畑勲監督の最後の作品となっています。
竹取物語は授業でならったし、今更みるようなこともない、という人も多いかと思いますが、今だからこそ見えてくるものがあります。
かぐや姫の葛藤も含めて、考えてみたいと思います。
スポンザードリンク
?
むかしむかし、あるところに
「竹取物語」といえば、平安初期に書かれたという作者不詳の作品であり、日本最古の物語とも言われるものです。
あらすじは、みなさんも知ってのとおり、竹の中に女の子を見つけた竹取の翁が育てたかぐや姫は、男たちに求婚され、月にかえっていく、というストーリーです。
物語の大筋自体は、かわりません。
ですが、高畠勲監督の手に寄って、かぐや姫という人物に血肉がかよっているのが本作品の、一番の特徴となっています。
かぐや姫の幼少期や、どのような思いだったかがわかるエピソードが追加されることによって、今まで知っていた物語とは、まったく異なる印象になります。
竹取の老夫婦のもとでかぐや姫は育ちます。
冒頭の狂気をとりあげるのであれば、年齢こそわかりませんが、かなりの年齢であるはずの翁の妻が、かぐや姫をだきながら、近所の人に乳をもらいにいくシーン。
とつぜん、胸がはってかぐや姫に乳をあげるシーンは、驚愕です。
大きくなったかぐや姫は、近所の子供達と一緒に遊び、野山を駆け巡るようになります。
本作品の中で、もっとも、かぐや姫が幸せだった時期といえるでしょう。
ですが、彼女の運命は、そこからゆるやかに降下していきます。
平安時代を舞台にしており、その時代の女性の幸せというのは、非常に限定的だったのです。
竹取の翁の罪
「これは、天がワシに与えたに違いない」
竹をとっているときに、翁はかぐや姫を見つけます。そして、自分のかなり強引な解釈のもと、彼女を育て始めるのです。
竹薮の中で、金をみつけたり服をみつけたりするにつけて、「高貴な姫君にしなければならない」
と思い込んで、都に屋敷を購入し、相談もしないままにかぐや姫をつれて英才教育を施そうとしはじめるのです。
かぐや姫は、翁たちに借りもありますし、大きく逆らうようなことはしません。
本当は、育った山で暮らしたいとおもっていたのに、許されないまま彼女は少しずつ抑圧されていきます。
そして、彼女は初潮をむかえ、髪結いの儀式をきっかけとして、社会の不条理や、自分自身の存在について考えていくようになるのです。
不適合な姫君
御簾の中で、座るかぐや姫。
「これって、私のお祝いなんだよね」
と、言う彼女をよそに、大人たちは、彼女が大人になったことを祝う髪結いの儀式にもかかわらず、飲めや唄えやのどんちゃん騒ぎです。
そこに、かぐや姫という人間そのものは無視されています。
当時の世界であれば、あたりまえ、ですんだことかもしれませんが、山で育ち、高い知性をもった彼女は、そんな常識を受け入れることができないのです。
彼女は、悲しみと怒りの中で、十二単をぬぎさりながら走りさるシーンは見所の一つです。
ちなみに、そのあたりのシーンは、すべて水彩画で描かれている、というのは狂気といわざるえないでしょう。
春が来て
炭をつくっている男性に教えられ、彼女は四季を知ります。
わらべ歌として唄っていた彼女ではありますが、冬になって、春がくるのを待つというのを知らなかったのです。
それまで、手習いなどを不真面目にやっていた彼女は、もくもくと貴族の女性になるための日々をこなします。
春を迎えるための準備として、彼女はじっと耐えるのです。
なんでも器用にこなす女性ですので、あっという間に卓越してしまったに違いありませんが、高貴なる姫君としての教育にいそしみます。
春がきて、桜の花をみにいき、彼女は喜び、そして絶望します。
ぶつかった子供や、その親の反応をみて気づくのです。
自分は、そちら側の人間ではないのだ、と。
男尊女卑の世界
かぐや姫の美しさを知った人々は、一目見ようと屋敷におしかけ、しまいには、5人の公達(きんだち)に目をつけられてしまいます。
『かぐや姫の物語』中間報告会見の席で言われたことだそうですが、平安時代に現代の子を放り込んだら、彼女はどう反応するだろうか、と高畑監督は考えていたようです。
竹取物語の中では、かぐや姫の内面がわからないこともあって、無理難題をふっかけて相手を困らせたり、月に帰ってしまう無責任な人と思われるかもしれません。
ですが、「かぐや姫の物語」におけるかぐや姫は、現代的な感性をもった女性なのです。
眉毛を抜いて、おはぐろ(歯を黒くぬる)にされそうになった彼女は
「まゆげがなかったら、汗が流れてしまうわ。歯が黒かったら、笑うこともできない」
「高貴な姫君は、汗が流れるようなこともしませんし、歯をみせてゲラゲラ笑うようなこともいたしません」
かぐや姫(現代人的感性)の人間の目をとおして、かぐや姫の世界に入り込み、自分にひきつけて楽しむのが、本作品をより楽しむためのポイントです。
「姫は、宝物」
公達たちが、有名な宝物になぞらえてかぐや姫をどのように大切にするかを伝えます。
ですが、彼らはかぐや姫を、人間ではなく、モノとしてしかみていないことに気づきます。
翁もそうです。
「姫の幸せを」
といいながら、彼は、かぐや姫という人間をみることなく、平安時代の一般的な(と思っているだけの)女性の幸せを、押し付けてくるのです。
かぐや姫の罪
「かぐや姫の罪と罰」というのが、キャッチフレーズとして言われていました。
この作品におけるかぐや姫の罪というのは、地球にあこがれてしまったこと、です。
月の住人だったかぐや姫は、他の住人がそうであるように、悟ったような顔をして、感情の起伏があまりない、天上の人であるはずでした。
仏教的な思想のもとにつくられた天上人と思われますが、彼女は、願ってしまったのです。地球で野山をかけめぐり、虫や、獣がいる、世界でともに生きたいと。
ですが、巨大すぎる才能は身をほろぼします。
かぐや姫のために宝物を手に入れようとした公達が、破産し、廃人となり、命を落とすにいたって、かぐや姫は、自分のしていることに気づくのです。
「私が殺してしまった」
そのようなことはありません、と言われても、彼女はそう思うことはできません。
自分の都合のために、無理難題を言ったあげく、純朴にも、それを真に受けて人生をだいなしにする人たち。
野山を一緒になって遊んだ、捨丸という男もまた、彼女のために殴られて酷い目に会います。
自分のまわりの人たちが不幸になっていく。
そんな罰を彼女は耐えられないのです。
そして、ミカドがやってきます。
大きすぎる勘違いを胸に。
仏教的にみえる月の使者
月からの迎えにきたものたちは、一体何者でしょうか。
月の住人、と一言で片付けるにはあまりにもったいないところです。
彼らは、色素が薄く、仏教における菩薩のようなデザインがなされている人物もいました。
彼らはあまり感情の起伏がないようです。
天井の衣をかけられるとすべての記憶を失ってしまう、というのに、彼らは容赦なくかけてしまいます。
推測ではありますが、彼らは、文字通り天上人ではないでしょうか。
仏教における六道は、天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の6つを意味します。
その中でも、天道の人たちは、苦しみも少なく、長寿であること。ただ、仏教上では、煩悩からは開放されておらず、仏に出会うこともない、とされています。
月の中で、かぐや姫は、煩悩を抱いたのではないでしょうか。それは、地球に降り立って、野山をかけめぐったり、四季の中で感情を感じたいという願い。それを煩悩や、罪と決め付けるのはあまりに辛いことではあります。
ですが、その願いこそが、彼女の犯した罪であると同時に、様々な人を不幸になった事実によって、彼女は罰を受けることになったのです。
彼女は何者か。
「かぐや姫の物語」は、竹取物語の大筋を使いながらも、かぐや姫という人物に現代的な感性を与えたことで、まったく違った物語になっているところが非常に面白い作品でした。
ストーリーだけ見れば、誰しもが知っている物語です。
今の時代にあえて竹取物語をつくるわけだから、「月なんか、帰えらねぇぜ」と怒り、捨丸と逃げ続けるということもできたはずです。
ですが、それは、あくまで夢のような世界での話しにとどめています。
我々は、流れの中からぬけだすことはできません。
おかしいな、と思っていても、それを口にすることもできず、社会という大きすぎる合意にさからうことは困難なのです。
かぐや姫は、時々、夢を見ます。
貝あわせの貝を割ったとき、捨丸と再会したとき。
たんなる夢と片付けることもできますが、かぐや姫は時間を超越した存在でもあったのかもしれないと思うのです。
映画「メッセージ」の中にでてくる宇宙人は、時間という概念が人間と異なって描かれています。
時間の流れは決まっていて、その中で彼らは生きている。
かぐや姫とはすこし異なる部分はありますが、彼女にとって、夢としてのできごとは決して夢ではなく、ありえたかもしれない可能性としてみることもできるのではないでしょうか。
捨丸という男と逃げ続ける世界。
または、ずっと村にいて山から山へと歩いていった世界。
捨丸は確かに妻子がいるかもしれませんが、
「俺がおぶって逃げてやる」という捨丸に、かぐや姫は
「自分の足で歩く」
と言います。
彼女は、誰かに守られる人ではなく、誰かと一緒に生きる人になりたかったはずです。
巨大な流れの中で、ミカドに見初められて、あまりに酷い現実に「帰りたい」と思ってしまったかぐや姫は、結果として、どうしようもできないままに月に帰ります。
物語そのものはかわらないのに、演出によって、物語は、自立したい女性が翻弄されながら、帰らざるえなくなってしまう不遇の物語としてよむことができるようになるのです。
きっと、今日も、かぐや姫は地球を見上げてながら、唄うのかもしれない。
「まーわれ、まーわれ、まーわーれよ。水車まわれー。まわって、お日さん呼んでこい」
以上、「宝物じゃない! スタジオジブリ かぐや姫の物語」でした!!