正しいアメ車の譲り方/クリント・イーストウッド「グラン・トリノ」
クリント・イーストウッド監督といえば、俳優としても監督しても抜群の存在感と才能を発揮する人物です。
そのクリント・イーストウッドの最高傑作と呼び声の高い「グラン・トリノ」について、その魅力を語ってみたいと思います。
頑固ジジィ
物語は奥さんの葬儀から物語ははじまります。
そこのシーンだけで、主人公であるウォルト・コワルスキーが子供や孫たちから嫌われていることがわかります。
スポンザードリンク
?
孫たちは、葬式だというのにヘソをだした服をきていたり、ふざけている。
息子たちといえば、「親父は古いんだ」といって、さげすむ始末。
家族の中が、完全に終わっているのわかります。
また、新米の神父が、わかったようなことをいって「死はほろ苦い」というのです。
何もわかっていないやつらがいる中で、ウォルトはますます頑固ジジィになっているのがわかります。
盗まれそうになるグラントリノ
タイトルであるグラントリノは、1970年代を代表する車会社フォードのもっとも栄光を極めていたときの車です。
その後世界は、オイルショックによって、低燃費な車が求められ、以後フォードは衰退の一途をたどることになりますが、元フォードの自動車工であったウォルトは、そのもっともいい時代を生きていた人物となります。
彼は、妻をもち子供を育て、一戸建てにすみます。
劇中ででてくる家が、ほとんど同じような見た目なのは理由があって、当時は一戸だてをもつということが夢であり、それを安価に入手することができたのが、建売の家だったのです。
庭付き一戸建て、といういわゆるマイホームの形式をつくったのが、まさに、当時のアメリカだったのです。
アメリカは、休みの日にはバーベキューをするための芝生があって、妻と子供が暮らすそんなライフスタイルを提供しており、それが、現代でも続くアメリカが誇るものだったのです。
休日は、庭を手入れし、ビールを飲んで、自分の好きな車を磨く。
まさに、かつての理想的なアメリカの生活をしているのがウォルトなのです。
時代はかわる。
ウォルトの隣にモン族の家族が引っ越ししてきます。
モン族とは、劇中でも説明されますが、ベトナム戦争の際にアメリカに加担したことで、政治難民となってアメリカに逃れてきたラオスにいた山岳民族です。
ウォルトが住んでいるのはデトロイトですが、当時は、アメリカ人の中でも白人が住んでいた場所です。
ですが、GMやクライスラーの破綻によって町は荒廃し、地価が安くなったことで白人以外の人間が多く入っているのです。
その中で、ただひとりアメリカ人としての誇りを保っているのが、ウォルトなのです。
しかし、隣に引越ししてきたモン族の少年タオが、悪い仲間にいわれて、彼の宝物である、グラン・トリノを盗もうとするところから、アメリカの社会事情や、同じアメリカ人であっても理解できない日常がわかっていくのです。
受け継ぐ人々
家族に嫌われているウォルトですが、彼と関わることでアメリカの精神を受け継ぐ人物たちがいます。
一人は、モン族の少年タオ。
彼は、頭こそいいものの、何をすればいいのかわからず、下手をすれば、チンピラとして生きていくしかないという絶望をもっていました。
ですが、ウォルトと出会うことで、建設現場に仕事を紹介してもらったり、物事を教えてもらうことで、自分に自信をつけていくのです。
道具をもらい、教えてもらう。そうして、自分に子供にすらできなかったことを、ウォルトは白人でも黒人でもないタオに教えるのです。
また、27歳の若造である神父もまた彼と出会うことでかわっていきます。
コーラしか飲まなかった男が、一緒になってビールを飲むようになるところは、大変胸が熱くなります。
それは、お坊ちゃんだった神父が、同じ酒を飲むということで、単なる言葉ではなく、ちゃんと彼らの中に入っていくという姿勢を表しているためです。
戦争にいったことのない神父としての立場だけの若造や、アメリカのことなんてなんとも思っていない異国の民族。
その中で、偏見で人を決めるのがウォルト・コワルスキーなのかと、はじめは思ってしまうところですが、実態は異なります。
彼は差別主義者なのか
ウォルトは、たしかに人種差別的な言葉をつかいます。黒人に対しても、イタリア人に対しても。
しかし、それは、ウォルトという人物が単なる偏屈な頑固ジジィというわけではなく、どの民族に対しても同じような態度をとっていて、さらに、ちゃんと相手に対して敬意を払う人物だということが、あとでわかってきます。
交流によって変わっていったという面ももちろんあるでしょうが、それ以上に、気持ちをうまく伝えることが苦手な人物なのです。
それをわかりやすく、対比する出来事として、モン族の少女スーが付き合っている彼氏とのエピソードがあります。
スーの彼氏は、エミネムのようなラッパー風の格好をしています。
スーは、黒人に絡まれます。
白人の彼氏は、身体がでかくて勝てないとみるやへらへらしながら「へい、兄弟」と声をかけますが、黒人の3人組は「てめぇ、なんて兄弟じゃねぇ」と怒るのです。
相手の文化的なものや立場を考えず、格好だけ黒人の格好をして、相手の言葉をたんに真似ているだけなのです。だから、彼らは、ますます怒ったのです。
そのあとのシーンで、ウォルトはタオ少年に、イタリア人の床屋の親父とのやり取りをみせます。
一度みただけだと、単に口の悪いじいさんと店員のやり取りなのですが、彼らが長年付き合いのある友人であることがわかると、ウォルトの台詞というのは、仲がいいから可能な軽口であることがわかるのです。
だから、タオが「イタ公、調子はどうだ」といったら、ウォルトが困ったように「おいおい、そんな言い方はないだろう。こんにちは。お時間があれば、髪をきってもらっていいですか、と言うんだ」、と諭されるのです。
そのシーンはギャグとしてやっているシーンなのですが、その中で、ウォルトが自分や、他人との立場をわかっていて、単なる粗暴で頑固なジジィではないことがはっきりわかるのです。
イタリアの親父とは長年の付き合いであることからも、彼がだんだんとかわっていったわけではなく、もとからそういう親父だった、ということがわかるのです。
ビールと人柄
ウォルトが飲んでいるのは、ブルーリボンと呼ばれるビールです。
日本でよく売られているビールと異なり、労働者が好んで飲むとされる薄いビールです。
日本でいうところの、沖縄のオリオンビールや、中国方面でいうところのチンタオビールがそれにあたるでしょう。
薄いビールを飲む利点は、アルコールが低いので長い時間飲める、ということに尽きます。ウォルトが労働者であり、特別な人物ではない、という意味もあると思われます。
さらにいうと、映画のラストのほうでウォルトは、懺悔します。
そこでの懺悔は、本当にたわいないものです。
「妻がいるにも関わらず、妻以外の人間と一度だけキスをしてしまいました」
もっとすごい懺悔を期待していた神父は、それだけ?と聞いてきます。
ウォルトは、特別な人物ではなく、妻を愛し、国を愛している一般人なのです。
ただ、その彼をかえてしまったことが、朝鮮戦争への出兵だったのです。
そこでの出来事により、どうしてウォルトが子供たちと、どう付き合えばよかったのかわからなくなり、家族不和の原因がわかる、ということになります。
反戦映画というほどではないにしても、この映画は、戦争という出来事が、一般的なアメリカの男の家庭に亀裂を与えてしまったことを示してもいるのです。
ダーティー・ハリーではじまり。
クリント・イーストウッドといえば、ダーティーハリーです。
死を撒き散らす警察官。
そのダーティ・ハリーであったクリント・イーストウッドは、グラン・トリノの最後では、非暴力による決着をつけます。
具体的に彼がどのような方法をとったのかは説明しませんが、暴力によって暴力を解決する、という手段が意味をなさないことをこの映画では伝えています。
暴力を暴力で返そうと主張する少年に対して「頭をひやせ」というウォルトは、未来に繋げるための方法を考えるのです。
この物語は、自分のもっている魂のようなものを受け継ぐのは、血のつながりだけではない、ということを教えてくれるのです。
それは、白人でも黒人でもない隣に引越ししてきた人物かもしれないし、戦争のことなどしらない人物かもしれない。
その精神性が伝えられていく、という物語がグラン・トリノなのです。
クリント・イーストウッドは、映画をみたあとに必ず、何か想いが残る監督となっておりますので、まずはグラン・トリノをみて、クリント・イーストウッドのつくりだす世界をみてみるのも、面白いかもしれません。
以上、正しいアメ車の譲り方/クリント・イーストウッド「グラン・トリノ」でした!