シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

人生を振り返った時にみえること。クリント・イーストウッド監督「運び屋」

 

The Mule-Bone: A Comedy of Negro Life in Three Acts

  
クリント・イーストウッド監督といえば、「グラン・トリノ」や「許されざる者」といった名作に加え、様々な映画をとってきているハリウッドを代表する人物の一人です。
監督と主演による映画は「グラン・トリノ」で終了するかと思われていましたが、「運び屋」で久しぶりの復活を遂げたことから、本作品の魅力と、どのような見方をするとより面白いのかという点を含めて解説してみたいと思います。

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運び屋とは

クリント・イーストウッド演じる主人公の老人アールは、デイリリーという花を育てて生計を立てていた園芸家です。
デイリリーは、ユリの一種となっておりまして、文字通り一日(デイ)だけさくユリ(リリー)となっています。
 
たった一日だけ咲く花に魅せられたアールという老人は、数々の賞を受賞し、物語冒頭では、老人ばかりではあるものの、まるでアイドルの握手会のように多くの人に尊敬されていたりする人物です。
 
ですが、彼はインターネットなどの新しいものに対して嫌悪感をしめしており、その結果、時代に取り残されて花の販売不振につながって失業してしまいます。

仕事一筋で生きてきた彼が、孫娘の結婚式のために、麻薬の運び屋をはじめて、大金をいろいろな人のために使いながら麻薬を運んでいく、というのが物語の大枠となっています。

ゆかいな爺さんと、麻薬の運び屋という組み合わせの面白さもありますが、本作品は、表面だけみると、家族との関係を修復しようとする老人の話になっています。

家族の話

主人公であるアールは、仕事一筋だった男です。
とはいえ、この時代の仕事一筋の男というのは、仕事仲間と仕事をしたりするのが楽しかったり、自分のやりたいことをひたすらやり続けることに意識が集中しており、結果として、家族からはそっぽを向かれる運命にある世代といえるのではないでしょうか。
 
アールは、デイリリーの育成に関して全力を尽くしてしまった挙句、娘の結婚式にもでないで、家族の大切なイベントはことごとくすっぽかしてきていました。
ですが、人生も晩年を迎えて、彼は家族や、まわりに対しての贖罪をはじめるのです。

彼はことあるごとに家族に対しての話をし、麻薬捜査官として、アールを追っていたブラットリー・クーパー演じるベイツにアドバイスまでする始末です。
 
「家族のことも考えろ記念日は大切だ。忘れちゃいかん。女には大切だよ俺は記念日を忘れてばかりいたんだ。俺みたいになるんじゃないぞ。一番は家族でないと」
もっとも、家族をないがしろにしたからこそいえるセリフです。

ただ、この物語は、老人が家族への想いに気づいた、という話だけではありません。
うがった見方ではありますが、本作品は、クリント・イーストウッド監督そのものの半生としてみたほうが、より楽しむことができます。

クリント・イーストウッドという男

クリント・イーストウッド監督について、大まかな話をしてみたいと思います。

クリント・イーストウッド監督は、「ダーティー・ハリー」シリーズで主演を務め、ストーカー女性に追いつめられる人気DJの話を描いた「恐怖のメロディ」で監督デビューを果たしました。
 
多才であり、ほとんど撮り直しをすることをないという早撮りの監督、その多くが見終わったものに考えさせる、A級の映画という素晴らしい監督となっています。
というのは、表の話となっており、クリント・イーストウッドという人物は、非常に女性関係も幅広い人物としても知られています。
70歳を過ぎてなお子供つくってみたり、たびたびの離婚歴をもっている人物となっています。
年齢を重ねてなお精力的に活動するクリント・イーストウッドは、子供のかなりの人数おりまして、実は、本作「運び屋」において、12年間口をきかなかったという設定の娘役であるアイリスは、実の娘であるアリソン・イーストウッドだったりします。
 
仕事のために家庭を放り投げて被害を被った実の娘に、同じような役をやらせるのですから、クリント・イーストウッド監督も罪な人です。

クリント・イーストウッド監督もまた、映画という花(デイリリー)をつくったという点では、同じではないでしょうか。

イーストウッド自身の贖罪か

「もう積極的に役は探さない。いまの映画の役は、みんな若い役者向けに書かれているから」
 
wikipediaより孫引き

 と本人が言っていたにも関わらず、「運び屋」にでたというのは、まさに自分についての映画だと思ったからではないでしょうか。

「運び屋」は、実際に起こった事件をもとに作られていますが、デイリリーという花に対して、職人的に作りづづけていた主人公と、クリント・イーストウッドの映画に対する情熱を重ねてみるのは容易といえるでしょう。

ただ、その結果家族を捨てることになった。
 
もちろん、そんな人生を振り返るようになった天才芸術家が改めて人生を振り返るという話は、90歳には届かないものの、老齢期の主人公を演じることは、まさにクリント・イーストウッド本人をおいてできるものではありません。

さんざん苦労して、手にしたお金で周りの人を幸せにしていく。
しかし、逆に言えばそれはお金の話です。
妻の最期を看取って、葬式を済ませることができた、というところで本作品は美談のようにして終わりますが、そこは最高の皮肉が聞いたラストになっているのが見ものです。
 

変わりゆく老人

ラストについての見解を述べる前に、本作品が、麻薬を運ぶ中で、時代に取り残された老人が、変化していくというところも含めてつくられているのは面白いところです。
 
「違反切符をきられることなく走り続けられたのは、このトラックのおかげだ」
といっていたトラック。
ボロボロのFORD社のトラックというところが、アメリカ愛を感じるところです。
 
先ほども記載した通り、主人公のアールはかなりの頑固ジジィです。
インターネットが発展しているのを、
「インターネットはくだらん」
と一蹴します。
 
もし、彼がインターネットを柔軟につかえる人物であれば、もっと家族とも仲良く過ごせたことでしょう。
彼は、自分自身がすべてを失い、家族との薄いつながりを保っていた孫娘のために、已むに已まれずマフィアからの麻薬の運び屋になっていく中で、結果として、変化していくのです。
彼は長距離を運転するため、あっさりと古いトラックを捨てて新しいトラックを買いますし、女性のライダーをみて男と間違えたりしながらも、わりと受け入れたりしています。
黒人がのっている車がパンクをしているのをみて助けてあげたりしながら「ニグロを助けるなんてな」と独り言を言って注意されたりしながら、訂正していったりします。
もともと、彼は人がいいのですが、年をとったことで彼はいい意味でかわっていくのです。
 
この映画は、何歳になったとしてもかわっていけるということを示してくれている点でもいい映画となっています。
 
ちなみに、デイリリーという花はたった一日で咲き終えてしまう花ですが、何度も花が咲くという特徴をもつ多年草の花となっていることから、主人公のアールと重ねてみることもできるのではないでしょうか。
 

ラストについて

さて、物語の最後のシーンについて解説してみたいと思います。
300キロを超す麻薬を運んで捕まったアールは、法廷であっさり罪を認めます。
まわりは、不思議に思いますが、そのあたりこそが、本作品における皮肉であり、創作する人間の巨大なエゴを肯定した内容になっているところです。

「家族が一番だ」といっていたアール。
ですが、物語のラストでは、彼は刑務所に入れられてしまいます。

そこで、彼がやっていたのは、自分がもっとも情熱を注いでいたデイリリーの世話でした。
 
いい話としてみるのもいいのですが、結局、アールという男は、デイリリー(イーストウッドでいえば創作)に時間をささげたかったのです。
でも、家族だって手に入れたい。
「できるだけ面会にいく」
と泣きながら娘は言います。
彼は、刑務所の中ではありますが、デイリリーをこころゆくまで育て、そして、家族は勝手に会いに来てくれる。
まさに、最高の環境を手に入れて終わった、という物語となっています。
 
裁判で、やむえず運び屋をやったんだ、といえばもしかしたら、家族と過ごすこともできたかもしれません。
そうすれば、老人はいつまでも家族と一緒に暮らせました、という物語に変更することも可能だったはずです。
でも、それをそうしなかったのは、まさに創作するものの皮肉を込めた会心作となっているからに他ならないのではないでしょうか。
 
原題であるThe muleは、がんこものといった意味があるとのことで、結局、頑固ものは最後まで頑固だったということなのです。

以上、人生を振り返ったときにみえること。クリント・イーストウッド監督「運び屋」でした!
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