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シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

静けさの波に乗る   北野武『あの夏、いちばん静かな海。』

こんばんは、ニャロ目です。


今日は北野武第三回監督作品『あの夏、いちばん静かな海。』(1991年、101分)を取り上げたいと思います。

 

物語

聾唖者の茂(真木蔵人)と恋人で同じく聾唖者の貴子(大島弘子)。ゴミ回収の仕事中に壊れたサーフボードを拾った茂は、それを直して見様見真似で練習を始める。

 

周りの知り合いやサーフ経験者たちは、彼の行動を最初は嘲笑していたが、仕事を休みがちになってまで練習に打ち込む姿に見方を変えはじめる。


サーフショップの店長に勧められ、大会に出場する茂。その腕前は入賞するほどまでに成長していた。


いつものように茂の練習風景を眺めようと海岸へ向かう貴子。


しかし、そこには浜に打ち上げられたサーフボードしかなかった。


全てを察知した貴子はボードに茂との思い出の写真を貼り、海に流すのだった。

 

映像

海に生きがいを見出し、海に命を奪われる青年・茂と恋人・貴子の生活を静かに描く今作。その叙情的なストーリーで、北野武の非フィルム・ノワール的作品の中でも非常に人気が高い。

 

この項ではその映像に注目してみる。


処女作『その男、凶暴につき』でもそうだったが北野作品には歩くシーンが多い。それが映画に不思議なテンポを与え、心地よいリズムが生まれる。


今作でも、サーフボードを抱えもって二人が歩くシーンが随所に挿入される。

 

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茂や貴子は物語中全く喋らない。
そのため、歩くシーンにおいて二人の心境がどのようなものなのか考える時間・余裕が生まれ、視聴者は物語に引き込まれる。

 

今作はサーフィンにとりつかれた青年の話なので、当然海のシーンが多い。


物語のラスト、曇天模様の下の海で、彼は命を落とす。
しかし、北野は海を不必要に残酷なものというふうには描いていない。


ただ、そこに存在し、人々を受け入れる青い海。


茂は、その波との関わりの中に楽しさを見出し、その深奥に手招かれたのだった。


サーフボードに二人の思い出の写真を貼り、海に流す貴子。


その行動はボードを失ってしまい、どこかで漂っている茂を想うがためなのだ。

 

対象を俯瞰する視点から捉え、余計な装飾を映像に加えない。
今作は、その北野武流の映像哲学が最も発揮されている作品といえるだろう。


演技

物語中、しゃべることのない二人。
この難しい設定を北野武はどのように活かしたのか。

 

まず、コミュニケーションの問題がある。


サーフィンの経験者たちに馬鹿にされる茂。
言葉で教えを請えないため、ひたすら独学で練習する。


そのひたむきさに周囲が感化され、彼らのほうからコミュニケーションをとってきて、手助けしてくれる。
茂も初心者にウェットスーツをあげたり、一緒に大会に出場するなど、趣味を中心としたつながりが発生する。


話すこともできず、一見無愛想にも見える茂は、まったくの他人だった者たちともサーフィンを通じてコミュニケーションが図れるようになるのだ。

 

後に監督することとなる『HANA-BI』では口数の少ない元刑事と、ラストに一言だけ喋る病身の妻というキャラクターを創出している北野武


すでに今作で全く喋らないカップルで物語を作るという手法を使っていたため、『HANA-BI』ではラストシーンに妻の印象的なセリフをいれることで差別化を図ったようにも思える。


また、主人公の同僚が彼のかわりによく喋るため、全体的に視聴者に親切ではあるが若干説明的な印象も受ける。

 

今作の二人はお互いに表情を読み取って、意思の疎通を図る。当然、視聴者も彼らの心情を表情や身振り手振りから読み取る必要がある(行き違いから茂と喧嘩した貴子が一筋の涙を流すシーンが特に印象的だ)。


それが作品観賞の妨げにならないのは、北野武のすばらしい力量のおかげである。

 

波に消えた茂。
漂うサーフボード。


この悲しみを表現するためにはやはり静けさが必要なのだ


例えば、このシーンで茂を永遠に失ったことに気づいた貴子が泣く、という選択肢もあったと思うが、それはやっぱり説明的で美しくない。

 

そもそも喧嘩の時に貴子を一度泣かしているため、この場面では泣かせずに、その後の貴子の行動を淡々と描くことにより、彼女の深い悲しみ・喪失感を表現している。

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脚本

映画作りにおいて、北野武は脚本を重要視していない。


その場で紙にセリフを書いて役者に渡したり、そもそも簡単なスケッチのような台本しかない場合もあるそうだ。


頭の中で作り上げた印象的な何枚かの絵を、どのようにつなげたら辻褄があうか考えるのが、自分の映画作りの基本だと公言している。


たしかに今作も、あらすじにしてしまえば数行に収まるような内容だ。脚本それ自体を重要視していないことがよくわかる。


しかし、そのようなことが可能なのも前述した通り、こだわりの強い画面作り、いわば作家性が強い監督であるからなのだ。

 

仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫は、試写会で『あの夏、いちばん静かな海。』を観たときにあまりのつまらなさに驚いたと記している(しかし、その後評価を変え、作家性の強い作品を次々と発表する北野武を賞賛し、自分の脚本術はもう古いのかもしれないとも書き残してはいるが)。


笠原は脚本執筆のために資料を読み漁り、取材も丹念に行ったうえ、それらを何度か整理したのち、頭がおかしくなるくらい集中して脚本を執筆するという。

 

もちろん北野武笠原和夫のどちらが正しい脚本の書き方なのかは簡単に答えは出ないし、どちらも正しいといえる。


映像美で魅せる作風ならばシナリオを追うことを重要視しないだろうし、映画を娯楽作品だと考えるなら笠原のように練りに練った脚本のほうが観客をひきつけるのだろう。

 

ただ、北野武は映画監督のキャリアをつみあげるにしたがって、より娯楽作品へと傾きつつ、説明の多い作風に変化しつつあるように思える(それは武映画が、一般的に難解で観客に不親切、だという批判を受け入れてのことかもしれない)。

 

笠原和夫の脚本術に関してはブログでも以前触れたが、後日、改めて特集し直して映画における脚本の役割を考えていきたいと思う。

映画はやくざなり

映画はやくざなり

 

 

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