なぜ心に疑いを持つのか。国村隼主演「哭声/コクソン」解説&感想
人間とは何を信じて生きればいいのか。
自分が見えるものは本当に正しいものなのか。
「哭声/コクソン」は、人間の弱さを浮き彫りにした衝撃作です。
本作品は、宗教的な観念も含めて考えなければ、よくわからないパニックホラーものになってしまいかねない作品でもあり、解釈の余地のある作品ですので、一つの見方としての真実を語ってみたいと思います。
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常識がゆがむ
本作品は、警察官であるジョングが事件を追っていく中で、常識側にいると思っていた人物が、いつの間にか非常識に踏み込んでいく恐怖を描いています。
町に現れた国村隼演じる謎の日本人が、山の中で目を真っ赤にしながら鹿を食べた、という噂が広がっているのですが、ジョングは、そんな話しをする同僚を怒ります。
「今の話は、誰からきいた? まったく、バカの相手はしてられないな。検査で幻覚キノコの反応がでたんだ」
この時点では、主人公は常識側の人間です。
ですが、いたって普通の人たちが半狂乱になってとりみだし、自分に襲い掛かってきたりする中で、彼の世界観はかわっていってしまいます。
「僕が言っていたのは冗談ですよ」
「いや、どう考えてもお前が正しい。キノコが原因なはずがない」
現場に急行しなければならないのにお母さんのつくった朝食を食べてしまうような主人公は、やがて、その違和感の中に取り込まれていってしまいます。
娘の異変
主人公の娘がまたよくできた子供だったりします。
この作品はギャグも多くて楽しめるのもいいところです。
洗濯をしている奥さんをみて、興奮した(?)主人公が車の中で奥さんとことに及んでいるところを娘に見られてしまいます。
ショックを受けた主人公は、娘にトラウマを与えないように言い訳をしようとしますが、「何回もみているから、知っているよ。気にしないで」と逆にフォローされてしまいます。
だめな親のことをわかったうえで、子供として慕ってくれる、ある意味よくできすぎた娘なのです。
ですが、国村隼と出会ってしまったことで、彼女はどんどんおかしくなっていってしまいます。
親孝行だった娘は、汚い言葉をつかうようになります。
娘の様子がおかしくなったことに心配した主人公は、娘のノートをこっそりみると、正気を疑うような絵が描かれていました。
もしかしたら、娘が乱暴されたかもしれないと思った主人公は、寝ている娘の身体を確認して、アザを見つけて驚愕します。
目を覚ました娘が叫びます。
「夜中に娘のスカートをめくって、何してんだよ。何かいえ、このヘンタイやろう。くそったれ!」
ある意味、主人公がやっていることも言い訳ができないような気もしますが、娘が自分の知らない人間になってしまったことに絶望する主人公の様子は痛々しいほどです。
「祈祷師を呼ぶよ」
母親に言われて、彼は了承します。
余談ですが、思春期の子供をもつ親にとって何よりも恐ろしいのは、子供が反抗期を迎えて、自分が理解できなくなる瞬間でしょう。
そういった映画の代表格といえば、やはり、「エクソシスト」があげられるでしょう。
キリスト教の倫理感が根強いころのアメリカにおいて、悪魔にとりつかれた娘が、卑猥な言葉を吐いたり、ベッドの上でゲロを人に吐き掛けたりする様は、悪魔そのものといえます。
頼れるものがなくなったとき
この映画の面白くもあり、恐ろしいところは、常識をもっていた主人公が、ついには祈祷師という限りなくうさんくさいものに助けを求めるところです。
映画「エクソシスト」もまた、同じように医者の診断を受けながら、結局、病状は悪化し、悪魔払いに頼むという流れとなっています。当時は、医療の信頼性が怪しい時代でもありましたので、それの警告という意味もあったとは思います。
娘のために大枚をはたいて、祈祷士に頼っていく姿は、人の落ちていくさまをみるような恐ろしさがあります。
やがて、すべてを頼れなくなった主人公は、実力行使によって、怪しいと思われる人物、国村隼演じる謎の日本人を襲うことを考えるようになるのです。
どっちが、悪だ。
映画をみていると、どっちが悪で、どっちが正義かなんて考えかわからなくなります。
国村隼を殺そうとする主人公たちは、国村隼を犯人だと思い込んでいます。
ただし、証拠があるわけでもなんでもありません。
国村隼がかっている犬は殺すし、物は壊すわで酷いものです。
謎の日本人が犯人だという決めつける同僚を怒っていたはずの主人公は、すでにいません。
信じるものは救われるのか。
この作品を理解するために必要なことは、人間は何を信じて生きるのか、というところです。
復活したキリストを見て、信徒たちが疑うシーンです。
ですが、キリストは「なぜ心に疑いをもつのか」と問いただします。
実際に肉や骨があるのに、なぜそれを信じないのか。
監督曰く、国村隼はイエス・キリストが韓国の山の中にやってきたら、という設定だそうです。
本物のキリストが目の前に現れたとき、人はそれを信じるでしょうか。
何をすれば彼が本物であると実感できるのでしょうか。
「お前は私を悪魔だと確信した。私が何者か。私が口でいくら言ったところで、お前の考えは変わらない」
そのやり取りは、ルカの福音書の一節そのものです。
「私に触れてみろ。幽霊には肉と骨がないが、お前がみるとおり、私には肉も骨もある」
人は常に試される。
さて、この映画は、神が人を試す映画になっています。
多くの人が例としてあげているマーティン・スコセッシ監督「沈黙 サイレンス」は、まさに、信仰心を試す映画です。
信仰心があるがゆえに次々と弾圧されて死んでいく日本人。
そんな中で、なぜ神は沈黙し続けるのか。
ここからは思いっきりネタバレしますのでご注意ください。
「コクソン」は、神のようなものが人間を試す物語です。
一応、物語の常識としての範囲の中では、健康食品に含まれているキノコに幻覚性があったために、集団でおかしい行動をとってしまい、殺人事件や不審死につながった、というのが一般的な話しとなります。
やがて、人々はお互いを疑いはじめ、その中で、娘に乱暴されたかもしれない、という親(主人公)の心理を利用されて、試練はつくりだされます。
「あの馬鹿、餌にくらいつきやがった」
と祈祷師が言います。
物語冒頭で、国村隼演じるキャラクターが、釣りをしている風景がうつります。
「なんでうちの娘がこんな目に」
「お前は、釣りをするときに、どの魚を釣ろうなんて思ってつりをするか?」
たまたま、餌に喰らいついてしまったものを釣り上げるに過ぎません。
主人公はそこで試され、神のような女性に引き止められるものの、結局は、忠告をきかないで最悪の終わりを迎えてしまうのです。
この物語は主観の物語
さて、この作品でたびたびでてくるカメラ。
国村隼の猟奇的な趣味のように思わせられるカメラですが、これは客観的な事実を表しているのではないでしょうか。
本作品は、主観によって捻じ曲げられていることが映像含めて多くでてきます。
人間の噂ももちろんその一つですし、鹿を生のまま食べる国村隼や、目を真っ赤にして悪魔のように見える国村隼などは、完全に主観です。
あくまで、そのキャラクターたちが、そのように見えていると思っているに過ぎないのです。
にも関わらず、人々は主観をたよりに間違いを犯していってしまう。
そんな主観で動く彼らに対して、祈祷師たちは、写真をとるのです。
写真にとられたものは、客観的な事実となるのです。
だからこそ彼らは、カメラをつかっているのではないでしょうか。
娘の父親の罪
状況が人々を疑わせ、やがて、その餌にくらいついた主人公が罪を犯す。
主人公は、神のような女性に言います。
「俺が何をした。どんな罪だ」
「お前の娘の父親は、他人を疑い殺そうとして、結局殺してしまった」
「あれは、俺の娘が。奴に苦しめられたからだ。なぜ罪になる。なぜ罪に」
この物語は主観的なものとなっており、場合に寄って矛盾した状況となっています。でも、それは、主観の物語だからです。
その中で、彼らは、何も証拠のないままに人々を疑い、ついには、人殺しをしてしまう。
神の試練は、失敗です。
ただ、主人公を擁護するのであれば、自分の子供を傷つけられたとしたら、親はどんなことでもしてしまう、ということです。
祈祷師に大枚を払ったりもできるし、人を殺すことさえいとわない。そんな罪な生き物なのです。
真面目で気弱な警察官である主人公は言います。
「すべて解決する。父さんが…」
コクソンという映画は、示唆に富んだ映画となっており、見方が難しい映画となっておりますが、視点を定めることでまた違ったみえかたになる映画となっております。
宗教に限らず、人は自分の信じたいものを信じます。
目の前にいるものが悪魔だと思えば悪魔に見えますし、胡散臭い噂話しが真実になるときもあれば、思い込みで人を殺すこともある。
それは、宗教であっても、子供の成長であったとしても同じです。
人間というものがよくわかる映画となっておりますので、気になったかたは何度か見返してみると新たな見方が生まれるかも、知れません。
以上、なぜ心に疑いを持つのか。国村隼主演「哭声/コクソン」解説&感想でした!