原色のボディ・性をむきだして 神代辰巳『一条さゆり・濡れた欲情』
ニャロ目でありやす。
今回は神代辰巳監督作品『一条さゆり・濡れた欲情』(1962、69分)を取り上げたいと思います。
神代辰巳、そして一条さゆり
このブログでははじめて神代監督を取り上げるので、軽く紹介してみます。
かみしろ、じゃありませんよ。くましろ、と読みます(自分は最初勘違いしてました)。
神代監督は1927年生まれ。
日活において、ロマンポルノの名作を次々と発表します。
田中登らとともにその強い作家性でロマンポルノをただの「エロ映画」にとどまらせず、時代性を取り込んだ作品作りに注目が集まりました。
その後続出する、ポルノ映画から一般映画へ進出した映画監督(石井隆、相米慎二、中原俊など)のはしりともいわれています。
『四畳半襖の裏張り』『赫い髪の女』『恋人たちは濡れた』などの作品を監督しています。
そして今作で本人役として登場するのが一条さゆり。
彼女は1929年生まれ。つまり神代監督と同世代。
夫と死別、子供もいた彼女はストリッパーとしてデビュー。
小説のモデルとなったり、テレビ番組にも出演し人気に火がつきます。
公然猥褻罪で何度も検挙されています。
今回取り上げた映画でも、引退興行中に猥褻物陳列罪で捕まっている場面があります。
体は視線で作られる
映画はいきなり猥歌から始まります。
冒頭からインパクトありありで、観るものを引きつけます。
物語は一条さゆり(本人役)と、ストリッパー(伊佐山ひろ子)、ストリッパーのヒモたちを中心にして作られています。
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映画全体図としてはこんなかんじです。
中心に存在しているのが一条さゆりであり、彼女のまわりを縁取るように、あるいはあくまで影のような佇まいであるさゆりに対し原色の肉体を有し反骨心むき出しで存在するのがストリッパー、そのストリッパーの原色の肉体にまとわりつく男たちの視線を実体化したかのような彼女のヒモたち。
実録風でもあり、思いっきり作り物感のある場面もあったり、虚実入り混じる、それこそストリップ小屋の白昼夢感を連想させます。
それはカメラの視点でも同じことです。
例えばストリッパーがヒモと並んで歩くシーン。
まるで誰かが覗き見しているかのような映像になる。
または終盤、一条さゆりが引退公演を行っている一方で、ストリッパーと新しいヒモがジェットコースターでセックスするシーン。
こちらは後ろの座席に人が乗っていながら、地上で注目されながらも、火照った体は動きをやめない。その様子を上空からあっけらかんと撮っている。
さゆりが暗闇で、ストリッパーが太陽の光にさらされながら、性をむき出しにする。
あらゆる視線を受け止める体。
カメラは建物の隙間から覗く視線でもあり、上空から見下ろす鳥のような視線でもある。
暗闇で、または白日の下で彼女たちの原色の体は視線により形作られていく。
視線がなければ、猥褻という概念は存在しないのです。
『仁義なき戦い』と『一条さゆり・濡れた欲情』
『仁義なき戦い』の脚本家である笠原和夫はこの映画を参考に原稿をすすめたといわれています。
では具体的にどういう部分が彼の心を捉えたのでしょうか。
これは私の推測ですが、この二本の映画の共通点を考えてみました。
1,セリフのやりとり
この映画ではストリッパーとヒモたちが関西弁で会話します
ガチなのかどうなのかよくわからない部分も含めて、まあ勢いがあります。
勢いといえば前述した冒頭の猥歌も重要な役割を担っています。
劇中でストリッパーも口ずさんだりします。
方言に注目する、その重要性を笠原は改めて感じたのかもしれません。
それが「広島弁のシェイクスピア」とも呼ばれる『仁義なき戦い』の脚本につながっていったのではないでしょうか。
2,実録風の物語
虚実いりまじった実録風の映像が続きます。
一条さゆりの人生をもう一人の主人公の視線で具体化しているのです。
ただ、タイトルに『一条さゆり』と銘打っているのに真正面からの主人公ではないし、『仁義なき戦い』の広能も彼はどちらかというと「仁義ある」戦いをしていたともいえます。
その内容と実体の微妙な乖離というかねじれの有様が、それこそ「実録風」ということもできます。
また、決まりきった始点と終点が存在せず、ある期間のある人々を端的に切りとったともいえる作品の構成も影響を与えていると思われます。
全編をつらぬく反権力
一条さゆりは引退公演中に警察に逮捕されます。
最終公演に参加したストリッパーもまた捕まりますが、反骨心溢れる彼女はいつも使っている(というかその時々のヒモに運ばせている)道具入れの箱に逃げ込んで警察から逃れようとします。
警察の視線から、自分の体を透明にしようとたくらんだわけです。
しかし、そうそううまくいかず警察署に連行されます。
署内に入る前、せめてもの抵抗ということでストリッパーは全裸になります。
この体が猥褻というなら好きなだけみろ!
という気概を感じます。
このように、反権力のシンボルとして時代の視線にさらされてしまった一条さゆりを、彼女そのものでなく、彼女に嫉妬する若いストリッパーの体を使い描き出すことで神代監督の作家性が発揮されているわけですね。
虚実いりまじっているのは一条さゆり自身でもあり、この映画でもある。
様々な視線に耐えうる、映画の「猥雑さ」がこの作品では感じられます。
映画ってそういうものだよなーと観ていて妙に感心しました。
観てない方はぜひ何とかして観て下さい!