「境界線」をテーマに名作を読み解く 相米慎二監督『お引越し』
ニャロ目でございやす。
今回は『台風クラブ』に続いて、相米慎二監督の『お引越し』(1993年、124分)をとりあげたいと思います。
最近、レンタルでもDVDの取り扱いが始まった(?)ようですので、観賞しやすくなりましたね。
漆場家の人々
・漆場レンコ(田畑智子) 一人娘。小学6年生。
・漆場ケンイチ(中井貴一) 父親。
これは家族の物語
父ケンイチ、母ナズナ、一人娘のレンコの三人家族。
別居のためケンイチが「お引越し」をしたことから、レンコの心は揺れ始める。
父親、母親、付き合っている様だがその行く末に不安を抱える両親の友人二人、クラスメイトのミノル、親が離婚しているサリー、レンコを取り巻く周囲との関係を通して、小学六年生の成長を描きます。
カメラの巧みさ
映画の冒頭から、カメラの動きが巧みなことに気づくと思います。
レンコが移動するときも、人物をほぼ中心に据え、見事なカメラ移動のスピードを見せます。かといってむやみやたらには迫力をつけるような動かし方ではないんですよね。
あくまで主役である人物を引き立たせるための写し方なんです。そのためにかなり、画面構成に凝ってるなーと感じました。非常に見やすく、物語世界に入っていきやすいですね。さすが相米監督です。
いたるところに現れる境界線
さきほども説明したとおり、基本的にこれは両親の離婚(予定)という難題に直面したレンコの心の揺れと成長を描いています。
舞台として、レンコの学校、レンコと母が住んでいる家、父親の引越し先、旅行先のお祭り、旅行先で出会った老人の家、などが登場します。それぞれ印象深いシーンがありますので幾つか取り上げて分析したいと思います。
今回は「境界線」をキーワードとしてこの映画を読み解いていきます!
ここでいう「境界線」とは自分と他人との差異をわかりやすく画面で表現することを意味しています。
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大人とレンコの境界線
まず家の居間には三角形のテーブルが置かれています。それぞれの辺に親子3人が座り食事をします。
それぞれお互いを見ることはできるが、真正面から向かい合っているわけではないという、家族の関係を象徴するなかなか印象的なシーンです。
それでもカメラはレンコを正面にとらえているので、彼女の表情が視聴者にはよく見えます。
照明もレンコの顔を明るく照らしてますので、彼女がこの映画で最も重要な主人公であることを示しています。
物語中、終業式の日にレンコが風呂場に立てこもるシーンがあります。
ミノルの勧めで父ケンイチの家に立てこもる予定だったレンコでしたが、予想外に母親の帰宅が早かったため、やむをえず実家の風呂場に逃げ込んだのです。
母ナズナからの連絡を受けて、ケンイチ、そして共通の友人二人がレンコを説得します。
それでもレンコは頑なに大人たちと顔を合わせることを拒否し続けます。レンコは両親の離婚を前提とする別居に納得していないのです(ナズナには一方的に約束事を押し付けられていますし)。
つまり風呂場の扉を境界線として、レンコと大人たちが向かい合ってるわけですね。
レンコがでてこないので、ナズナはケンイチとそれぞれの生活態度を巡って口論をしていましたが、レンコを風呂場から引きずり出すために素手でガラス戸を割ります。
レンコの引いた境界線を親であるナズナが認めず、無理やり乗り越えたのです。この段階ではまだナズナはレンコを一人前の人間、自らの庇護のもと以外では成長できない人間だと認識してるのです。
「閉じこもることによって自分の主張を認めさせる」つもりだったレンコの目論見は認められなかったわけですね。
風呂場前の廊下で互いに言い合うナズナとケンイチの場面ですが、ここで相米監督お得意の「縦の関係」「奥行きの関係」が表現されています。
廊下は手前から奥に向かってのびているので、カメラが、この父と母による口論で、主導権をとろうとする人物を静かに画面の中心にすえるために寄ったり、引いたりします。
手前にいる母が優勢の時は奥により、父がやり返すとカメラは引きます。
まさに、押し引きの関係をあらわしてますね。
で、そんな長回しを遮るように、レンコが「なんでうんだんや!」と叫び、ナズナがガラス戸を破ることで画面上の緊張関係が終わるわけです。
父とレンコの境界線
両親の不仲を解消しようとレンコが目論んだ琵琶湖旅行(レンコは自らホテルの予約を取り、電車のチケットも取ります。ナズナもまるで一人前のような行動をするレンコに呆れながらもついていきます)。
その旅行先でレンコと父、母との境界線が明確に表現されます。
まずは父とレンコの境界線。
ホテルから走って逃げ出したレンコ。ケンイチはすぐ追いつきます。
水辺に降りたレンコに対し、ケンイチは少し高い場所からレンコを見下ろします。
この段差が、レンコとケンイチの境界線です。
話をしているうちにケンイチは境界線をこえてレンコと同じ場所にたちますが、すかさず彼女はこれまでケンイチのいた場所に移動します。
つまり、境界線をこえてきたとしてもレンコは決して同じ場所に立とうとしないのです。
次にケンイチは再び段差を飛び越えてレンコと同じ空間に立ちます。対してレンコは父に対し、背を向けます。視線を合わせようとしないのです。
そして、画面の手前まできたレンコは画面の奥に向かって走り出し(奥行きの強調)、父をこえて、どこかへ行ってしまうのです。
母とレンコの境界線1
謎の老人と夜の花火大会にでかけたレンコは母ナズナに見つかります。
橋の欄干を境界線にしてナズナはレンコを見下ろしながら対話しようとします。
これまでの非を認め、レンコに謝るのです。
レンコは「はやくおとなになるから」と母に答え、腹痛にうずくまります(初潮→大人への変化をあらわしていると思われます)。
まだ段差や距離はありますが、境界線を軸に向かい合う雰囲気がでてきます。少しずつ親子の関係が変化してくるわけですね。
「おとなになるから」というのはもちろん対等の関係として自分の意見を聞いてもらいたいという自分の願望と、これから発生するレンコ自身のイベントを予告しております。
そしてレンコは母を置き去りにして、走り出すのです。
レンコとレンコの境界線
その後、レンコは夜の山をさまよいます。至る所に火や水など、原始的かつ心象風景的な世界が広がります。
やがてたどり着いた琵琶湖で、かつての親子3人での幸せだった光景を幻視します。
祭りで使う山車が炎に包まれ、幻の父と母も湖に沈みます(映画の最初のほうに、引越しででたゴミを燃やすシーンがでてくるのですが、そこで家族写真が燃えるのをレンコが嫌がるシーンがあります。思い出が燃やされてなくなってしまう、わけですね)。
レンコは過去の自分が一人湖の中に取り残されているのを見つけます。
湖を境界線として、過去と現在、幻と現実、子供のころの自分と変化しつつある自分との対比が描かれているわけです。
レンコは親を見失った過去のレンコを抱きしめます。
過去との交流と決別ですね。
そしてレンコは琵琶湖のかなたに向かって「おめでとうございまーす!」と何度も叫ぶのです。
この自然の中でのさまよいと、その後につづく湖のシーンは子供から大人予備軍への変身、いわば通過儀礼を表現しております。
まあ、琵琶湖での祭りというのが非日常的世界につながる担保として機能しているともいえますね。
母とレンコの境界線2
いつのまにか明け方になっており、気づくとナズナがレンコのすぐそばまできていました。
ナズナとレンコは顔を見合わせますが、その足元には水が流れており、二人のいる場所を分断しています(水による境界線)。
しかしながら、ナズナとレンコはこの場面ではこれまでの「一方は閉ざし、一方が開けようとする関係」や「段差のある関係」から「対等の関係」に変化したとも受け取れます。
そして、ナズナとレンコは電車で地元まで帰るのです。
この琵琶湖での旅行で、「境界線」の持つ意味の変化(拒絶、断絶→それぞれの尊重、認め合いへ)と、レンコ自身の成長が描かれたわけですね。
そしてエンドロールへ
長回しによるエンドロールでは、小学生のレンコがいつの間にか中学生の制服姿に変わります。
まさに少女の成長・変化をわかりやすく表現したすばらしいエンドロールだと思います。
あるテーマが描かれ、物語がきちんと完結した、と納得させるいい演出です。
『お引越し』と『新世紀エヴァンゲリオン』
余談すぎる話ですが、精神世界のような自然をさまよったあと、琵琶湖で「おめでとうございまーす!」と叫ぶ一連のシーンは、庵野秀明監督『新世紀エヴァンゲリオン』のTVシリーズのラスト2話に影響を与えているといわれます。
まあ確かに「おめでとう!」とみんなに祝福されてますね(笑)。
たとえば今回、私が「境界線」として取り上げた部分も、エヴァでいう「ATフィールド」にも置き換えることが可能なのかもしれません。
庵野監督は自己/他者の関係性を戯画的に描いたともいえます。どちらの作品も家族との関係が物語上で大きな意味を持ってますしね。
引越しが終わって
というわけでざっくりと相米監督『お引越し』を振り返りましたが、いかがだったでしょうか?
主演の田畑智子の演技や、それを引き出す相米監督の演出力、カメラワークなど非常に完成度の高い、美しい作品です。
印象に残ったシーンとして、ケンイチが家族関係の破綻をなわとび(大波小波)に例える部分や、レンコが出会った老人が息子の居場所を指し示すシーン、学校でミノルに慰められるシーン、サリーとスーパーで出会うシーンなど、いい場面・構図がたくさんありますので、まだ観てない方はぜひぜひご覧ください!
相米監督レビュー