沖縄を舞台にしたヤクザ映画はだいたい傑作という説を唱え隊。
ヤクザ映画in沖縄
今回は沖縄を舞台にしたヤクザ映画をまとめてご紹介したいと思います。
やくざといえば網走刑務所、なんてイメージを持つ方もいらっしゃるかもしれません。
確かに高倉健主演の『網走番外地』シリーズもありますし、北海道の閉ざされた雰囲気がやくざ映画の印象とマッチするのもわかります(架空の北海道の漁村を舞台にした『北海の暴れ竜』なんて映画もあります)。
ですがここで私は「やくざは沖縄でこそ輝く」という説を提唱したいと思います。
いささか参考にした映画の数が少ない感じはしますがめげずに論を展開していきます。
ヤクザがやってきた~ナハナハナハ~
本稿でとりあげるやくざ映画は五本。
・『博徒外人部隊』(1971年)、深作欣二監督、鶴田浩二主演
・『沖縄やくざ戦争』(1976年)、中島貞夫監督、松方弘樹主演
・『沖縄10年戦争』(1978年)、松尾昭典監督、松方弘樹主演
・『3-4x10月』(1990年)、北野武監督、小野昌彦主演
どれも本ブログで感想を書いておりますので、気になる方はご覧下さい。うん、全て傑作。
スポンサードリンク
?
というわけでこの五本は、本土から沖縄へ向かうもの、もともと沖縄に住んでいるものに分けられます。
・本土→沖縄(『博徒外人部隊』、『3-4x10月』(ただし登場するやくざは現地人)、『ソナチネ』)
・もともと沖縄(『沖縄やくざ戦争』、『沖縄10年戦争』)
沖縄のやくざ組織が本州を侵略するという映画は聞いたことがないので、沖縄が絡んだ映画は必然的に沖縄が舞台になります。
「異界」としての沖縄
ここで沖縄の歴史を映画に絡めて非常に簡単に振り返ってみたいと思います。
1945年 沖縄戦が展開され多数の民間人・軍人が死亡・負傷する(『沖縄10年戦争』冒頭で描写される)。アメリカの統治下におかれる。
1972年 日本に返還される。(『博徒外人部隊』では返還直前の沖縄で自分たちの縄張りを確保しようとする)
1975年 沖縄国際海洋博覧会が開催される。(『沖縄10年戦争』、『沖縄やくざ戦争』ではこの利権を巡り沖縄やくざに加えて本土やくざも絡んでくる)
というわけで時期的なこともあり、『博徒外人部隊』、『沖縄やくざ戦争』、『沖縄10年戦争』は返還前後の混乱期が物語の舞台となっています。特に「沖縄」をタイトルに冠する二本の映画は、本土復帰に伴う本州のやくざ組織の侵略に、大同団結して立ち向かうという話です(しかしその団結は表面的なものですぐに崩壊します)。
『博徒外人部隊』では本州で行き場を失ったやくざたちの「新天地」としての沖縄。
『沖縄やくざ戦争』、『沖縄10年戦争』では「戦争」という言葉も含まれているように再び「戦場」としての沖縄が描かれるわけですね。
一方、時を隔てて90年代に作られた二つの北野映画では沖縄はむしろ「リゾート地」として描写されている側面があります。
『3-4x10月』では本州のやくざとイザコザを起した主人公が先輩の命令で武器を調達しに「お使い」に行きます。そこでビートたけし演じる沖縄やくざと知り合ってしばらく非日常的体験をします。
『ソナチネ』においても幹部からの指示で沖縄に飛んだたけし演じるやくざが現地で抗争に巻き込まれ、逃亡しつかの間の休暇を過ごしながら死に場所を見つけるという話です。
両方の作品とも沖縄の持つ歴史性とは直接関わってきませんが、それでも「沖縄」でなければこのような「異界」の雰囲気は発生しなかったでしょう。やはり「北海道」ではいけなかったのです。
この五つの作品では全て「沖縄」という土地は「中心と周縁」でいえば「周縁」として描写されます。本土、そしてアメリカあっての土地なのです。それは観光事業が沖縄県の最大の産業となっていることからみても現代においても変化していません。
ただその「周縁」の中でこそ、エネルギーとエネルギーがぶつかりあい、激しい抗争が巻き起こりやすいのも事実です。『沖縄やくざ戦争』で国頭(千葉真一)の激しいヤマトンチュへの怒り。それが作品を引っ張る源となっています。
『博徒外人部隊』では主人公郡司が、本州での10年の懲役の間に自然消滅してしまった恋人によく似ている娼婦を沖縄にて発見します。これは直接本筋に関係はしませんが、本州での未練を断ち切ったはずの郡司もこの女を、最後の抗争の前に抱きます。新天地を求めたはずなのに、過去が蘇ってしまう不思議な土地、沖縄。
『3-4x10月』ではより幻想的に沖縄は描写されます。
沖縄の組同士のいざこざに主人公たちは直接タッチしませんが、リアルな描写の多い東京篇と比べて、幻視、殺人、バードオブパラダイスなど夢と現実の狭間があいまいになるような画面が次々登場します。
たけし演じるやくざも何を考えているのかよくわかりませんし、そもそも主人公も表情に乏しく、その「もやもやとしたもの」と白/青に溢れた沖縄がマッチしています。再び東京に帰ってきた主人公たちは沖縄での時間は白昼夢だったのではないかと捉えても不思議はありません(この映画自体が幻想の産物という説も根強いですが…)。
そして『ソナチネ』。
これはよくよく考えてみれば表層は『博徒外人部隊』と似てるといえなくもありません。
主人公のたけしはやくざ稼業にほとほと嫌気がさしており、死に場所を探しているようです。親分からの命令で沖縄に飛ばされるのですがそれは最初から幹部連中に仕組まれていたわけで、たけしはそれに(薄々)感づいていながらも旅立ってしまうのです。
ここで、(親分に大したことは起きないからと派遣された)北海道での抗争では若い衆を死なせた、というたけしの言葉がでてくるのはなんとなく興味深いです。やはり「北海道」ではダメで「沖縄」のほうが映画として絵になるのでしょうか?
『博徒外人部隊』は大きな組織たちにより壊滅させられたわずかな人数のやくざたちが沖縄で一旗あげようとします。ただ、どう考えても10人足らずの人間で広大な土地を手にいれることはできないわけで、これも一種、死に場所を探しに行くとも捉えられます。
そしてこの両方の作品ではしばらく悠々自適な時間を過ごすものの、結局、「親分/もともと敵対していたやくざ組織」の画策により、主人公たちも敵側も全てが崩壊していきます。全てが無に帰るのです。そしてその全てが泡になる場所こそ、日本の中でも異界であり、隔絶された場所の「沖縄」である必要があったのです。
アジール、周縁、楽園、異界…映画のなかの沖縄
歴史性・幻想性という両側面から沖縄におけるやくざ映画の必然性について触れてみました。
『沖縄やくざ戦争』、『沖縄10年戦争』では、当時全国各地の抗争事件を「実録やくざ映画」としてエンタメ化しヒットを飛ばしていた東映が、広島も大阪も九州も全て使ってしまったということで苦肉の策で選んだ土地でもあります(これらの映画では第四次沖縄抗争という事件をモデルにしています)。つまり映画製作者側にとっても新天地であったわけです。
そんな感じで、歴史性そしてそれゆえの幻想性に溢れた沖縄は、「人間の中の異物」であるやくざを描くのに非常にあっているのではないかというのが自分としての感想です。そのために傑作も多い、はずです。
ぜひ皆さんも土地柄に注目してやくざ映画を観てみてください。
…さて、今度は北海道におけるやく映画についても調べなおしてみたいと思います。何か思いついたら再びコラムにしてみます!

周縁世界の豊穣と再生―沖縄の経験から、日常の意識化へ向けて (花園大学人権論集)
- 作者: 花園大学人権教育研究センター
- 出版社/メーカー: 批評社
- 発売日: 2005/03
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログを見る