人の数だけ真実がある。感想&解説「アイトーニャ 史上最大のスキャンダル」
オリンピック選手でありながら、ライバルである人物を襲わせたということで世界的な大スキャンダルに発展した「ナンシー・ケリガン襲撃事件」。
「アイトーニャ 史上最大のスキャンダル」が、はからずもそんな事件の中心人物となってしまった、トーニャ・ハーディングの人生を追った作品となっています。
この作品は、トーニャという主人公がメインではありますが、作品が描いているのはそれぞれのインタビューによって作られた事実の塊となっています。
どういうことかと気になるところと思いますが、本作品は「ナンシー・ケリガン襲撃事件」を知らなくても楽しめる作品となっておりますので、どんな話かを解説&感想を述べながら書いていきたいと思います。
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大真面な真実のインタビューに基づく
「これは大マジメな真実のインタビューに基づいている」
英語字幕では「based on iroy free,wildly contradictory,totally true interviews」
となっています。
相反し、激しく矛盾するけど、完全に真実のインタビューが基になっている、といったところでしょうか。
結論から言ってしまいますと、この作品は、よくある作品とは異なる作り方になっています。
よくある作品といえば、監督や脚本家が一つの事実を徹底的に調べ上げて、そこから映画として真実をつくりだしていく作品といえば何となくイメージがつくのではないでしょうか。
デヴィット・フィンチャー監督「ゾディアック」では、未解決事件であるゾディアック事件を人間ドラマを中心としながらも、事件の真実に迫ろうとした作品となっています。
複数の証言をたよりに真実をあぶりだしていくのが作品の手法ではありますが、「アイトーニャ」は、本当の真実というものは提示されていません。
だからこそ、冒頭の字幕の、矛盾しているけれど、あくまで、インタビューに基づいて映像・作品をつくっている、という前提で見なければ混乱してしまうことになるのです。
これはインタビュー
「全部でたらめよ。私は撃ってないわ」
突然、登場人物たちがカメラに向かって話しかけてくるときがあります。
慣れていない方は驚くかと思いますが、マーベルコミックでいうところの「デットプール」なんかは、積極的に第3の壁と呼ばれる観客側にむかって当たり前に声をかけてきます。
これは、あくまでインタビューに基づいたものであり、それぞれの登場人物の主張に従って作られているため、注釈としてのセリフが入ってくるのが面白いところです。
事実は事実としてたしかにあるのですが、その事実以外の部分はインタビューされる側の主張に従っているのです。
ナンシー・ケリガンが足を殴られたということは事実で変えることはできませんが、はじめから殴るつもりだったか、別のことをするつもりだったのかの途中経過は、彼らの証言を信じるしかないのです。
トーニャからすれば、襲撃事件など知る由もなかったでしょうが、別の人からすれば、知る機会は十分にあった、と考えても不思議ではないのです。
本作品でとられている手法が個別で楽しめる作品を紹介してみたいと思います。
類似作品
いうまでもなく、本作品は、芥川龍之介「藪の中」。この映画化である黒沢明監督「羅生門」を想起させざるえないものとなっています。
「羅生門」は、一人の男が殺され、高価な短刀が消失する、という事実をもとに、それぞれの登場人物が自分の見た状況を話す、という構成になっています。
しかし、それぞれが自分の都合のよいことをしゃべり、かたや勇ましく戦った、というものがいる一方で、女の取り合いで情けなく逃げたという話、しまいには、死んだはずの人間までがでてきて証言をはじめる、というとんでもない物語になっています。
真実はやぶの中でわからないわけですが、自分の都合の良いように人に話をしてしまう人間の業の深さをとらえた作品となっています。
「アイトーニャ」についても同様であり、自分にとって都合のいいことを言っているという点で、羅生門の形式をなぞっているところが面白いところです。
また、最近の作品であれば「ジェニーの記憶」が面白いです。
この作品は、複数の人物ではなく、虐待された過去のある女性が、自分の記憶が変貌していっているさまを読み解いていく物語になっています。
虐待をされた人間がなぜ告発しないのか。どういった心理状態や記憶の改ざんが行われてしまうのか、ということが、小さいころの主人公と今の主人公との対話や、当時の登場人物とのやり取りの中で浮き上がっていく構成は見事です。
誰の視点でみるのか。
「アイトーニャ」に戻りますが、本作品は見方によってはまるっきり違う物語としてとらえることができます。
主人公であるトーニャ・ハーディングからすれば、支配的な母親や恋人によって、スケートを強要され、それしかない状態にされたにも関わらず、そのスケートすらも奪われるという人生を描いています。
過去の人になったかと思われたトーニャ・ハーディングは、ボクシングをしてみたり、のちに別の人生を歩んでいたりします。
これは、さんざんスケート界のスターとして持ち上げておいて、いらなくなったら叩き落すという世間に対しての皮肉を述べたようにも思えますし、そんなこと関係なく、私はトーニャである、という主張にもみえるところがメインのストーリーラインと考えていいのではないでしょうか。
一方で、旦那からすれば、自分がセカイから嫌われているという自覚をもちながらも、一方的に悪者にされるのはたまらない、といった感じで話をしていきます。
それぞれが、自分の都合の中で生きているのですが、見え方が一番異なるのは、母親と娘の関係を描いた部分です。
私はトーニャの母親
いきなり驚かされるのは、トーニャの母親の存在感ではないでしょうか。
「トーニャは、4人目の夫との、5人目の子」
とインタビューで答え、映像の中ではスケートリンクでぷかぷかとたばこを吸います。
注意されても、こっそり吸うわ、と答えるとんでもない母親です。
一見すると、トーニャに対してとんでもなく厳しい母親に思えますが、裏返すとトーニャに対してもっとも深い愛情を抱いている人物でもあります。
たしかに、トーニャに対してナイフを投げつけてしまったりする場面もありますが、考えてもみれば、彼女が語る話(映像)には、トーニャしかでてこないのです。
もちろん、トーニャに対してのインタビューに基づいているから、ということもありますが、ほかの子供の存在が一切でてこないのです。
稼いだお金はトーニャのスケートのためにつかっていますし、贅沢らしい贅沢をしているようには見えません。
母親であるラヴォナは、トーニャが怒ったときほど力を発揮することを知っていることから、彼女をなんとか奮起させようとします。
仲たがいした後も、観客にお金を渡してまで、トーニャに罵詈雑言をぶつけさえます。
トーニャが怒りによって集中力を発揮するということを知っていることが前提でなければ、たんに娘の足を引っ張ろうとする毒親にしか思えないでしょう。
ラヴォナにはラヴォナなりに愛情の示し方があり、トーニャはその愛情に気づいている様子はありません。
彼女の欠点
トーニャは、アメリカ人女性で初めてトリプルアクセルと決めた人物ですが、彼女の評価は高いものではありませんでした。
順位を競うものであれば、結果を示すことで力を示すことができたでしょうが、フィギュアスケートについては、そうもいきません。
審査員がいてそれぞれの判断に基づいて点数が付けられてしまうのです。
特に、彼女は芸術点が低く、トーニャは怒りのあまり審査員ににじりよるシーンもありました。
「オフレコなんだが、君は私たちのイメージではない。完璧なアメリカの家族ではない」
と、言われてしまいます。
どういうことかといいますと、オリンピックの代表であったり、スポーツをする人間というのは、特にかつての時代であれば、そのイメージというのは非常に重要です。
アメリカを代表するスポーツ選手が、アメリカのもっているイメージとかけ離れていては、それは困ると考える人たちがいるのです。
そのため、彼女は、技術が優れていても、何をしても、審査員からはそっぽを向かれるのです。
その事実を知った彼女は、母親にところへ会いに行きます。
母親と娘
母は娘の人生を支配する、というのは有名なところでありまして、この母親だったからこそ、トーニャは選手として力を発揮することができ、この母親だからこそ、最後の最後で高い点数にたどり着けない、という矛盾を抱えます。
アメリカ的な家庭を欲して、母親に会いにいったトーニャ。
しかし、母親であるラヴォナは、アメリカの家族の、普通の母親のように愛してはくれません。
「私をスケートの天才だと洗脳した。少しでも私を愛していたの」
「私は、お菓子ではなく、あんたにメダルをあげたんだ。私も自分みたいなママがほしかった」
「ママは、怪物よ」
「何をいまさら」
このやり取りこそが、トーニャの求める母親と、ラヴォナが演じている母親との決定的な差です。
いわゆる完璧なアメリカの家族における母親は、優しくて、つらい時には慰めてくれる存在でしょう。
ですが、ラヴォナはそんな母親ではありません。
娘に嫌われてでも、娘に成功してほしいと願っている母親なのです。
このすれ違いこそが、本作品を決定的に面白くしている部分といえるでしょう。
本作品は映像的にも音楽的にも面白いです。
随所にかかる音楽のよさと、映像的には、スケートのシーンのダイナミックさ。
いったい、どうやって撮影しているのかと思うシーンの数々は、一見の価値があります。
スケートのことや、トーニャ・ハーディングのことなどまったく知らなくてもその面白さで楽しむことができる作品が「アイトーニャ 史上最大のスキャンダル」となっています。
後半は、事件そのものの話を中心に語られていきますが、一人の人間の人生が、好きなように語られていく方式は面白いので、ぜひ、何度か見直していただきたいと思います。
以上、人の数だけ真実がある。感想&解説「アイトーニャ 史上最大のスキャンダル」でした!