シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

幼児期の虐待の恐ろしさ。映画「ジェニーの記憶」

ジェニーの記憶 (字幕版)

 

子供への虐待について取り沙汰されることが多くなってきた昨今ですが、この手の問題は、はるか昔からあったはずです。

そんな恐ろしい事実が明るみになってきた背景には、時代の流れや発言しやすい社会が生まれてきたという状況が存在します。

日本では劇場未公開作品ではありましたが、今一度、問題に向き合うことができる映画「ジェニーの記憶」を紹介していきたいと思います。

被害者のほうにも落ち度がある、とか、なぜもっと早く言わなかったのか、という残酷な意見をもつ人もいるとは思いますが、本作品によって、被害者たちの状況がわかるようになるかもしれません。

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ジェニファー・フォックス

本作品は、監督であるジェニファー・フォックスの実体験に基づいて作られた作品となっています。

ジェニファー・フォックス監督自体は、作中でも触れられているようにドキュメンタリー映像作家としての実績をもち、実際に講師も行っている人物とのことです。

もともと、実績のある人物が、ある意味告発として制作のしたのが本作品となっているのです。


ある日、母親から子供の時にかいた文章を読まれたことで彼女の見て見ぬふりをしてきた記憶が呼び起こされていきます。


学校の授業で書いた文章には、年上の男性との関係が描かれており、その内容は明らかに、性的な犯罪が行われていたことを示唆していたことがわかったため、母親が驚いたのです。


ジェニー(ジェニファー)は、年上の人とは付き合っていたけれど、内緒にしていたから母親は驚いているんだ、という風に考えています。


「ジェニーの記憶」は、前述したように、たんに幼いころの虐待を告白するだけではなく、被害者がどうして自分を被害者だと思っていなかったか、ということにも切り込んでいきます。

 

美しい物語

「まずは、この美しい出来事から物語を始めよう」


本作品では、二つの時間をいったりきたりします。

一つは、現在の世界で、ジェニーが自分の記憶を探していくパートです。

そして、もう一つが、ジェニーの記憶の中の世界です。


物語のはじめ、ジェニーは、乗馬の先生と、ビルというランニングの先生の二人との美しい愛の物語として、記憶を語ります。

美しい女性の先生には夫がいますが、離婚して独り身になっているビルという男と不倫関係にあります。


記憶の中でジェニーは、その二人の関係の中に入っていき、特別な関係に自分が酔いしれていた、ということを告白しているのです。

現実の醜さ

それだけであれば、少女が背伸びして、大人の世界で失恋した、という話に収まるところですが、母親や、乗馬クラブで一緒に過ごした人物たちの証言と食い違うことに気づきます。


「母さん、記憶をたどらせて」

「いいえ、記憶を暴き出すのよ」


ジェニーの中の記憶では、当時の自分は大人びていて、余裕があって、先生たちの大人の世界に背のびしていくのに十分だったと考えていました。

ですが、当時の写真を見ると、明らかに幼い自分がそこにいます。


彼女の中では当時の回想シーンがあるのですが、自分が考えていたよりもずっと年齢が低かったことで、なんと、記憶の映像がまた幼かったころの自分で再現されなおすのです。

記憶のあいまいさ

「ジェニーの記憶」の面白いところは、再現映像の部分を、新たな事実が判明すると、その記憶を塗り替えていって映像化する点と、自分の記憶の中に人たちにジェニーがインタビューするという形式であることも斬新です。


事実がわかっていくたびに、彼女の記憶の中の人物は少しずつ態度を変えていきます。


そして、美しい記憶として改ざんすることで、自分自身が被害者だと思わないように、心を守るために偽装していた、ということに気が付いていくのです。


なぜ、そんなことをしたのか。

ジェニーは、記憶の中の自分になぜそんな物語を書いたのかを聞きます。

「今までの私には、書くべき体験がなかった」

 

犯行の手口

しかし、記憶をたどっていくうちに、自分におきていたのが虐待であることがわかってきます。


でも、なぜ、そんなことをされていて自分は気づかなかったのか。


そんな相手側の手法も描かれています。

ジェニーの家は兄弟が多く、おねーさんである彼女は寂しい想いをしていたはずです。

そこに、自分の馬術の才能を認めてくれて、その心のうちもわかってくれる大人がいれば、そちらがわに心を寄せてしまうのは、13歳の少女では已む得ないことでしょう。


このように、絶対的な対象になってから、それを疑うことのできない子供たちに対して、悪事を働く、という事件を暴いた作品として有名なのは、「スポットライト 世紀のスクープ」でしょう。


イギリスの新聞社が暴いた、神父による子供たちへの性的虐待の実態と、それを隠蔽する教会という組織そのものの実態を告発する記者たちを描いた本作品でも、虐待された側が、なぜ告発しなかったのかが、わかるようになっています。

 

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「ジェニーの記憶」では、一人の人間に寄り添った形で、その実態が明らかになっていくのです。


「これは僕たちだけの秘密だ」


と子供が信用している大人に言われれば、それを覆すことはできないしょう。親子仲が悪くなっていたりする時期であればなおのことです。


「私の人生は私が決める」

そう思わせていく、というのが手口です。


「私たちは生きるための自分の物語を作っていく」

それが、虐待の記憶であったとしても、生きるために都合のいい物語をつくるしかない、人たちもいるのです。

今の自分につながっている

「ジェニーの記憶」では、虐待がどのようにして隠蔽されるのかもわかりますが、一方で、今現在の人たちにとっても、影響を与えていることも描きます。

黒人男性ともうすぐ結婚する予定のジェニーが物語当初から描かれるため、あまり疑問にもたずに作品を見ていくことになりますが、彼女の母親から、ジェニーの男性遍歴がひどいことが打ち明けられます。


そのため、母親は、娘の味方ではあると同時に、自分が気づいてあげられなかったという罪悪感もかかえる一方で、娘のことを理解できないでもいるのです。


「楽しんでいたの?」

「子供だったのよ。そんなわけないでしょ」

といわれても、男性遍歴をしっている母親からすれば、素直にうなずくことができないのです。

ですが、虐待の事実が、彼女の心をゆがませてしまっていたこともわかってきてしまいます。

次の被害者

ジェニーは、自分を虐待した人物に会いに行きます。

当初、ジェニーは、自分だけ納得すればいいと思っていますが、気づくのです。

自分と同じような被害者がいるんじゃないか、と。

自分だけが耐えていればいいと思っていた彼女は、その事実に気づいて動き出します。

昨今の、metoo運動もそうですが、誰かの行動や発言によって、今まで泣き寝入りしていた人たちの勇気を呼び起こすこともできるようになってきたのです。


過去のことをなかったことにして、今の栄光に酔いしれていたりするのは間違っている。

時代のせいとかにすることで、なかったことにしようとする人たちにも警告を発するようなつくりになっている点も、すさまじいです。

そして、事実を思い出せば思い出すほど、彼女が思っていたほど美しい物語ではなかったことも明るみになっていきます。

 

ラストの意味

本作品は、重たい話です。

ですが、その内容を淡々と描いています。

下手をすればグロテスクになってみたり、ひどく興味本位な内容になってしまうところを、どのような心理状態であったのかを含めて、丁寧に描いた作品となっています。

また、幼いころの記憶の自分との対立も含めて描いています。

「私は被害者じゃない。私はヒーローよ。傷ついたのは彼のほう」

そういって自分を擁護してみたりする精神性。


ジェニーは、自分を虐待した人物と、会って話をします。


ですが、彼は自分のことを覚えておらず、思い出したあとでさえ、しらを切りとおす始末です。


彼女が、トイレの中で、子供のころの彼女と座っているのは、よくもわるくも、彼女は自分の記憶と同じ立ち位置になった、ということを表しているのではないでしょうか。

自分が被害者だと思っていない少女のころの自分。

美しい記憶として隠していた自分。

その二人の彼女が、ともに同じ位置に座ることで終わるという興味深い終わりになっています。


以上、幼児期の虐待の恐ろしさ。映画「ジェニーの記憶」でした!

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