犯罪映画!貴方の隣の瀧とリリー/白石和彌監督 映画「凶悪」
実際の事件を元にした映画というものは、映画界に数多く存在します。
有名どころでいえば、緒形拳主演の「復讐するは我にあり」は、あまりに知られた作品ではないでしょうか。
西口彰事件をもとに作られた小説「復讐するは我にあり」の映画化であり、カトリック信者であった男が、大学教授になりすましたりしながら、逃避行する様を描いた作品となっています。
一人の男の狂気が名優である緒形拳によって形作られる様は、今村昌平監督の手腕ともあいまって強烈な印象を残します。
話に聞くところによれば、愛犬家殺人事件を基にして作られた「冷たい熱帯魚」でおなじみ、あの園子温監督は、スタッフに必ず「復讐するは我にあり」を見せるということでも有名なようです。
また、実際の犯罪をもとに作品を作るということで言えば、元祖としてあげられるのがノンフィクションノベルというジャンルをも作った、トルーマン・カポーティの「冷血」などは、欠かせない作品だと思います。
あの、名優であるフィリップ・シーモア・ホフマンが明らかにオカマ喋りをする映画「カポーティ」でトルーマン・カポーティを演じる姿はすばらしく、また、劇中でも、犯罪者を描くことで犯罪者もトルーマン自身も傷ついてく姿は、ノンフィクションノベルという形で物語を作っていく人間自身の矛盾や、葛藤そのものが現れた良作となっています。
と書き連ねていくときりがないので、その中でも、2013年に公開され話題になった日本映画「凶悪」について、語ってみたいと思います。
上申書殺人事件
監督は、『ロストインパラダイス・イン・トーキョー』で知名度を上げた白石和彌監督です。
もとの事件は、2005年に雑誌「新潮45」(映画では、明潮24という名称)に掲載された、死刑囚による殺人事件の首謀者告発にはじまる一連の事件を描いた「凶悪ーある死刑囚の告発ー」がもとになっています。
映画の内容も当然ながら、設定等が変更された部分はありますが概ね同様の内容となっています。
ピエール瀧演じる須藤純次は、3件の殺人事件にかかわり死刑判決を受けますが、自分と共に事件に関わった首謀者である「先生」と呼ばれる人物が、社会でのうのうと生きていることに憤りを感じ、雑誌社に事件の告白を行います。
その告白を受けたのが、山田孝之演じる藤井修一です。
はじめこそ乗り気ではなかった彼でしたが、やがて、ピエール瀧演じる須藤に引き込まれていくかのように、事件を追っていく中で事件の真相にたどり着き、やがて、リリー・フランキー演じる木村孝雄を表舞台に引っ張り出すことに成功する、という物語です。
配役の妙
正直なことを言えば、この映画に残虐性を期待してはいけません。
たしかに、死体を処理する場面などがでてきますし、殺人シーンもでてきますが、グロテスクなものを期待すると拍子抜けすることになります。
そのため、生理的に受け付けないような残虐性を期待するのであれば、冒頭でもあげた「冷たい熱帯魚」を見たほうが、リアルで生々しく、それでいて漫画的に描かれるので満足できると思います。
この物語で恐ろしいのは、主に二人。
ピエール瀧といえば、テクノバンド「電気グルーヴ」のメンバーであり、基本的に楽器を弾くことが出来ないため、担当楽器が「TAKI(もはや楽器ですらない)」という驚くべき存在です。
また、「アナと雪の女王」の吹き替えでは、奇妙な存在感を放つ雪だるま「オルフ」の声をあて声優としても大成功、俳優としても数々の作品に登場しており、バラエティからドラマまで何でもこなしています。
もともとの多彩な才能を見事に開花させ、一説にはサブカル界の中で、もっとも(世間的に)出世した男と呼ばれるまでになった人物です。
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さらに、人間的にも大変にやさしく真面目であるということと、演じてきた作品からしても、今回における凶悪な犯人を演じるなんていうのは、異色といわざるえません。
また、身体も大きく顔も大きいことから、ひとたび悪い役を演じると、凄まじくはまってしまったのが、今回の須藤純次なのです。
映画「凶悪」では、なんと日本アカデミー賞優秀主演男優賞を受賞し、そのほかにも賞を受賞しています。
須藤は、劇中で「ブッコむぞ!」とか「ブッコみますか!?」というのが口癖です。
この口癖は、劇中の中でニュアンスを変えながら使用されます。
彼らの価値観がこの言葉の中に集約されているところは見事といえるので、ぶっこむという言葉をどのようにつかっているかを注意深くみていただきたいと思います。
「今からぶっこんでやるからよ。黙ってろこの野郎」
リリーフランキー。
リリーさんもまた、サブカル界隈にとっては、重要人物でもあります。
音楽も作れば、絵本も書く、小説を書けば総計200万部を超えるベストセラーを放つ。マルチに活躍するのがリリーさんなのです。
絵本では、アニメにもなった「おでんくん」です。
東京タワーが見える場所でやっているおでん屋の中で、おでんの妖精たちの悲しくも愉快な話が展開します。おでんくんが巾着の中から主にもちをつかった道具をつかったりしつつ、色々な具と交流していく姿は、リリーさんが作っているとは思えないほのぼのさです。
また、200万部(最終的には文庫本も含めて260万部らしい)のベストセラー本「東京タワー ~オカンとボクと、時々、オトン」は、映画にもドラマにも舞台にもなりました。
テレビでも、ココリコミラクルなどの番組で出ていた頃から知っておりましたが、その活躍ぶりは凄まじいです。
ただ、後にプロインタビュアーの吉田豪さんが、サブカル男子は40歳を過ぎると欝になるという仮説を立ててインタビューした著作「サブカル・スーパースター欝伝」の中で、リリーさんがブレイクしたときに、かなりの欝症状になっていたという話もでていることから、必ずしも順風満帆ではなかったかもしれません。
ですが、いずれにしても、やさしい人柄と多彩な才能が、今回の凶悪においては、「先生」と呼ばれる、黒幕的な存在としてキャスティングされているのは、衝撃的といえるのです。
このプライベートでも仲がよく、井上陽水と共に麻雀仲間でもあるというこの二人が、まさかの凶悪な、しかも、実在の人物をもとにしたキャラクターを演じる、というだけでわくわくしてしまいます。
特にリリーさん演じる木村孝雄は、犯行を行っている最中は、ことごとく嬉しそうにしているのが印象的です。あまりに嬉しそうにしているので、さすがのピエール瀧も、若干引いている場面があるぐらいです。
悪のカリスマというのは、こういうところがあるのかもしれません。
作品の見所
さて、人物的なことはこのあたりにして、映画としての見所に入っていきます。
山田孝之演じる記者 藤井が、事件を追っていく中で、過去と未来の場面転換が見事に描かれます。
ホコリや汚れで曇ったガラスを拭き、奥を覗きこむと、いきなり、リリーさんがベルトでおっさんの首をしめている現場に遭遇します。
いきなり、過去に場面転換がされるシーンなのですが、みているこちら側が、いつの間にかその現場に居合わせたような錯覚すら覚える演出で見事です。
逆に、過去から未来の転換もまた巧みです。
ひたすらリリーさんやピエール瀧を主役としてつくられていたにも関わらず、突然、リリーさんを望遠カメラで捕らえる山田孝之に戻ることで、再び視点が現代にもどされる居心地の悪さは絶妙です。
特に、かなりの時間を、リリーさんとピエール瀧の犯行に割かれており、半ば共犯関係的に没入しかけているところを、無理やり現代にもどされることから、その居心地の悪さは一層強くなります。
食べ物から見える狂気
また、リリーさんとピエール瀧の二人が死体を隠蔽する際の、その無邪気さは、一般的な常識をもつものからすれば、理解の範疇を大きく超えると思います。
ですが、彼らがどういった心境であるかを、食べ物をつかってわかりやすく表現しているところが面白いです。
その一場面をいうと、遺体を焼却炉で処分するシーンがありますが、リリーさん演じる先生は、楽しそうにガソリンに火をつけます。
「肉の焼けるいい匂いがするぅ」
と、普通の感覚では考えられない台詞を言います。
以前、当ブログでも紹介した「おくりびと」では、変死体をみた主人公が嘔吐し、そのあとで、鶏の鍋を食べることができなかったシーンがあります。
物語が進むと、すっかり慣れてフライドチキンを食べたりするのですが、「凶悪」におけるリリーさんは、自らが殺した遺体が焼かれているのを見ながら、食欲すらわいてくる、ということで、その異常さを際立たせています。
「じいさんはここに存在しないことになっているんだ。それをさ、本当にこの世から消しちゃおうっていう話。純次くん、やってくれるかい」
「じゃ、うどんでも食いいきますか」
生臭い事柄を語っているはずなのに、彼らにとってはなんでもない話。
その感覚の違いが、食べ物を通して我々にも伝わってきます。
身近な殺人者
二人の動機はいたって単純です。
ピエール瀧演じる藤井は、仲間のため。
リリー・フランキー演じる「先生」こと木村孝雄は、金のために人を殺します。
ものの本によると、「人間の多くは、仲間の利益のために人を殺す」というのがあった気がしますが、木村は、自分の利益のためだったら、他人がどうなろうが知ったことではない、ということがありありと伝わるキャラクターなのです。
「どうしようもない老人が次々と現れる。それを次から次へと殺すだけで金が溢れてくる。まるで油田だよ」
人間の命なんてなんとも思っていないのが台詞の端々から伝わってきます。
また、保険金のために、自分の親を売るように木村は言います。
「保険金かけてやっちゃおうよ」
「でも、何も悪いことしてませんし」
「善悪どうでもいい。時計質屋に預けると思って。任せてくださいよ」
と、物のやり取りのように、人の命をやり取りする悪魔のような存在として描かれています。
ただ、それに応じてしまう普通の人たちがいるというのも、暗に示されているのが恐ろしいところです。
自分が家族のために家族を売っているのだとしたら、別の家族もまた自分を売っているかもしれない、という構図が成り立つのです。
孤独な殺人者
須藤は、劇中で非常に人間不信で孤独な男として描かれています。
周りには、部下がいて自分の手足として働いているのに人を信じることができない。
そのために、先生が「ボクはね、純次君を本当の弟のように思っているんだ」といった台詞に喜んでしまい「一生、先生についていきます」といった言葉を重ね、盲目的に木村についていきます。
須藤にとっては、お金ではなく、先生という人物こそが一番大事なのです。
そして、仲間を信じられないために、裏切られたと思い込んだら、もう何もわからなくなってしまうのです。
そういったことを考えると、少なくとも劇中において、なぜ須藤が先生を告発しようとしたのか、その一端が垣間見えるかもしれません。
また、木村にいたっては、いたってビジネスライクに殺人を行います。
そのため、彼の家は立派ですが、ごくごく平凡な一軒家であり、その娘もまた、須藤の娘たちと違って、非常に普通です。
その一見普通である人間なのに、当たり前に生活して、でも、殺人といった行為によってお金を得る。
そんな人物こそが、我々にとってもっとも恐れるべき存在として描いています。
落ちていく記者
この作品は三部構成になっており、一部は、須藤と面会しながら山田孝之演じる主人公が事件を追っていく姿を描きます。
二部目は、先生と須藤との犯行が描かれます。
三部目では、事件が明るみにでると共に、主人公が自身の正義と、その裏側で挫折していく物語を描いています。
映画「ゾディアック」なんかも迷宮入りした事件を新聞記者が調べていく中で、どんどん後戻りできなくなり、人生が破壊されていく男を描いていることから、事件を追うことで、新聞記者自身の身に降りかかってくるというのは、作品を成立させるという意味だけではなく、ノンフィクション作品おいて向き合わなければならない事実でもあるのでしょう。
「凶悪」では、主人公が痴呆になってしまっている母親と妻、仕事などで身動きが取れない状態を描きます。
ですが、そのあたりはさらっと流して頂いて、二部目における、リリー・フランキーとピエール瀧の演技、異常性をみるためだけでも、「凶悪」を見る価値があると思います。
凶悪が恐ろしいのは、これが実際にあった事件をもとにしたものであること。
そして、この犯人のような考えの人たちは、決して自分たちの世界から遠く離れた場所にいるわけではない、ということが暗に示されていることです。
主人公である山田孝之が、まるで牢獄にいるような演出をしているのは、そういったことも現していると考えられます。
三部目の山田孝之は、無精ひげをはやし、見た目は犯罪者そのものになっていることからもそのことが推測されます。
この映画を見ることで、自分がいる世界が、薄皮一枚剥いだだけで、血が噴出してくるようなセカイであるかもしれない、と考えさせられる作品になっていて、近年少なくなりつつあった日本映画における、社会派映画復活に一石を投じることになったのかも、しれません。
以上、『犯罪映画!貴方の隣の瀧とリリー/白石和彌監督映画「凶悪」』でした!
当記事で紹介した別記事です。