家族も終わる。感想&解説。ネタバレあり。是枝裕和監督「万引き家族」
何かと騒がれてしまっている是枝和弘監督「万引き家族」ですが、本作品を通じてみえてくる事柄や、で是枝監督が描き続けてきた家族というものについて、一つの集大成として描かれた本作品を、ネタバレありで解説してみたいと思います。
誤解をうけることの多い本作品とはいえ、人間の業(ごう)を肯定するという点において、文学としてみても素晴らしいものでもありますので、感想も含めて述べていきたいと思います。
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万引き家族のあらすじ
本作品は、年金の不正受給による世間の動きに着想を得て、是枝監督によって作られました。
よく引き合いに出される事柄として、万引きを肯定する、といった非難もあびてしまっている「万引き家族」。
万引きはいけないことだと常々教えられてきた我々にとって、万引きをしながら生活する家族というのは、それだけで嫌悪感すら抱く人も多いでしょう。
さて、まずは大まかすぎるあらすじを紹介します。
祖母の年金をたよりにしながら、足りない部分を万引きや低賃金の収入で過ごしている家族。
毎日、非合法すれすれで生きている家族には秘密があり、寄せ集めのようにしてつくられた家族が、とあるきっかけによってバラバラになっていく姿を描いた作品となっています。
この映画には、いくつもの社会問題がはらんでおり、複数の視点でみることができるというところも、脚本の面白さとなっています。
さて、本作品の見方のいくつかを紹介しながら、本作品のテーマに迫ってみたいと思います。
悪い家族か
もう、さっそくネタバレをしますので、ネタバレをしてほしくない方、まだ作品を見ていない方につきましては、お気をつけ頂きたいと思います。
では、これよりネタバレです。
この作品は、リリー・フランキー演じる柴田治という男から考える話と、祥太という男の子の話。
樹木希林という人間によってつくられている家族。
世間と家族。
何よりも、弱者の物語です。
さて、まずは、本作品の一番の問題点といえる万引きという行為から紐解いてみたいと思います。
万引きは、犯罪です。
これは、日本国に住むものとしては当然のことであり、それは絶対のものでしょう。
ですが、本当にそうでしょうか。
「万引き家族」は、まずそんなところから切り込んでいます。
リリー・フランキー演じる治という男は、工事現場で働く日雇い労働者です。
たびたび新人が辞めてしまうようなところで、リリー・フランキーはほかの労働者と仲良くするわけでもなく、適度に仕事を行っています。
彼は、決して教養がある人でもなければ、一方で、お金を儲けようということを考えている人でもありません。
ただ、家族と過ごして生きていたい人なのです。
仕事はあまりしたくないし、おそらく、仕事が長続きするような忍耐力があるタイプでもありません。
社会的には、不適合に属する人ではあります。
ただ、誰だって同じようになる可能性は、十分にある人です。
息子である祥太に、「スイミーって知ってる?」
ときかれて
「俺は、英語とかわかんないからよ。国語もダメなんだ」
と答えています。
彼は知識を習得しようとか、向上心とかそういったものはないのです。
向上心がないことが悪いことではありませんが、彼は、子供に教えられることは何一つない男なのです。
そんな彼が唯一教えられることは、万引きをはじめとした犯罪行為だけだったのです。
本作品は、貧困も描いています。
ですが、彼らの貧困の根底にあるのはお金の少なさにあるのではなく、そもそもの知識、社会でうまく生きていくことのできない心のありようにあるのです。
節約してどうにかする、とか、今あるものをつかって、という発想はでてこないのです。
それは、彼ら自身の問題ももちろんありますが、彼らは心が強い人間ではないこと、将来を考えさせられない状況にこそ問題があるためです。
その日食べるためのてっとりばやくて、おいしくて、日持ちするものは、カップラーメンなのです。
寄せ集めの家族
「万引き家族」の一番重要なポイントは、犯罪を行う家族ではなく、是枝監督が「そして、父になる」などでも描いてきた、家族とはどういう風にして成り立つのか、という点です。
「そして、父になる」では、病院の乳児取り違えによって、血のつながらない息子を育ててしまった福山雅治演じる男が、自分の過去と向き合いながら、家族として必要なことは血なのか、絆(積み上げていったもの)なのかを問うた作品となっています。
「万引き家族」では、血のつながりもなく、よせ集まってできただけのものとなっています。
信代の母親である樹木希林演じる初枝。
初枝の元旦那の孫である、亜紀。
パチンコ屋で放置されていたのを連れてきた祥太。
同じく、虐待をされていた少女じゅり。
彼らは、いわばほぼ他人同士です。
ですが、一つの家で暮らし、お互いに、口が悪いながらも楽しそうに暮らしています。
作中ででてくるのですが、「スイミー」というものをみなさん覚えておりますでしょうか。
国語の教科書にも載っている作品で、小さな魚たちが集まって大きな魚のようにみせることで、自分達を食べようとするマグロから身を守るという物語です。
「万引き家族」は、弱い人間が集まって、なんとか世間で泳ぐ人たちの物語です。
過去に問題をもっている夫婦。虐待されていた子供たち。家族を奪われた祖母に、劣等感を感じている娘。
彼らは、弱くもろい存在なのです。
そんな彼らが、生きるためにしたことは、社会的には、許されない犯罪行為だったというだけなのです。
家族の中は無法
物語の冒頭で、リリー・フランキー演じる治と、祥太は華麗な連携プレイで万引きを行います。
「店員がいなくなるまで待つのがコツなんだ」
ジェスチャーをつかったり、店員の視線をふさいだり、音を立てたり、注意をひきながら、盗みを働きます。
犯罪は許されないことは前提ではありますが、彼が万引きしているものは、実はたいしたものではありません。
カップラーメンやシャンプーといった日用品です。
決して、宝石を盗もうとか、店に大きすぎる損害を与えようとするものではありません(もちろん、店からすれば利益率を下げる酷いことですが)
祥太は安藤サクラ演じる信代に、万引きが悪いことじゃないのかとききます。
「つぶれなければいいんじゃない」
もちろん、よくありません。
「お店のものは、まだ誰のものでもないからいいんだって」
よくありませんが、彼らには、万引きが必要なのです。
そうしなければ、祖母の年金に頼る彼らは生活することができないのです。
彼らも働いていますが、その時々で暮らせる程度しか稼ぐことのできない彼らには、少量の犯罪を行うことを正当化せざるえないのです。
なんらかの福祉を受ければいいのではないか、という考えもありますが、残念ながら彼らは無法の人間となっているため、それができません。
彼らが助けられない理由について
彼ら家族の成り立ちが既に犯罪です。
人を殺したことで公の場で活動しずらくなった治と信代。
子供を二人も連れ去ってきて、育てていること。
万引きをしたり、置き引きをしたりして金銭を稼いでいる時点で、彼らは法の中にはいません。
法律のナカの保護を受けるという発想がないし、できないのです。
しかし、そんな中、11歳になる祥太は、大人になっていってしまうのです。
成長と終わりの物語
さて、そろそろ本質の一つに迫ってみたいと思います。
「万引き家族」は、祥太の成長の物語によって、終わりはじめる家族の物語です。
家族というのは、世間とは違います。
家族の常識は、世間の非常識ということはよくあるものです。
「万引き家族」では、
「学校にいくやつは、家で勉強できないやつがいくんでしょ」
ということで、息子は学校にいかないことについて疑問を抱いていません。
万引きをすることも、前述の通り「店のものは誰のものでもないからいい」といわれると、そんなものかと思ってしまうのです。
物心ついたときに、当然と思ったことを疑うのは難しいのですが、成長するに従って人間は常識を見につけていってしまいます。
突然、ゆり(後に、りん)という妹ができて、彼は困惑します。
当初は反発している祥太ですが、やがて「お兄ちゃん」と呼ばれて、慕われるようになるにつれて、成長していきます。
妹であるりんと、駄菓子やで万引きをするのですが、柄本明演じる店のおじさんに言われます。
「妹には、これ(万引き)、やらせるなよ」
祥太は何もいえず、出ていってしまいますが、自分のやっていることがうすうす悪いことだと思っていた彼は、妹であるりんに、そういったことをやらせるわけにはいかないとはっきりと自覚するのです。
この作品は、万引き等の犯罪について、弱者が生きていくための手段としてみせている一方で、やってはいけないことである、ということも示し、且つ、それをあえて見過ごしてあげる大人がいる、ということもみせています。
ツイッター等で話題にもあがっていましたが、とんかつ屋さんが、お金のない人は事前に連絡をくれれば、無料でごはんを食べさせてあげますよ、という話しがありました。
柄本明演じる駄菓子やのご主人も、心境としてはそういうことなのだと思われます。
万引きは悪いことだけれど、それをせざる得ない子供たちを見過ごしてあげる、そんな大人も世間にはいるのです。
こういった人物をだすことで、「万引き家族」は、懐の深い映画になっているのです。
崩壊のはじまり
さて、「万引き家族」の物語が動くポイントは、主に2つです。
樹木希林が演じる初枝の死と、祥太の補導です。
初枝は母性あふれる人であり、精神が不安定な亜紀のよき理解者であり、家族に場所やお金を提供する人物です。
全員で海にいき、その様子を眺める樹木希林の表情のアップは凄まじい迫力です。
撮影的には、これが初日だったそうですが、演出の力といわざるえません。
入れ歯をとったりしながらの撮影だったそうで、死相がはっきりわかるような、充足感と、死が近づいているということが感じ取れる描写となっております。
初枝が死ぬことで、年金の不正受給となっていき、彼らの家族は少しずつ狂っていきます。
「ばあさんは、はじめからいなかった。俺達は5人家族だ」
と、子供達に強制させることで、祥太という息子は、違和感を強くさせていきます。
二つ目のポイントは、祥太の成長による補導です。
みんなで海にいっているときに、祥太は、亜紀の胸元を凝視します。
いきなり、祥太視点にカメラがきりかわるので驚くところなのですが、はっきりと祥太が家族に対して向けるのとは違う視点だということがわかります。
それに気づいた、リリー・フランキーが祥太の股間をつかんだりしながら言います。
「おっぱい好きか。男ってのはな、誰だってそうなるんだ。」
家族に対してはならないはずです。
寄せ集めの家族が機能していたのは、そこに成長がなかったためなのです。
祥太が亜紀が好き、というわけではなく、性的に成長しはじめることで、家族と思っていたものが、家族ではなかったことに気づいていき、その結果、わざと万引きで捕まることで、世間に家族がさらされることになるのです。
また、リリー・フランキー演じる治が、内面的には子供であり、父親になりきれない中、子供のほうが先に成長してまう、というところでもあります。
外国映画でいえば、「アイ・アム・サム」は、障害をもつ父親が、娘に知能でぬかされてしまう、という物語を思い出すところです。
性のない家族
もう少しだけ、彼らの家族が成り立っていた理由について考えてみます。
「いつ、してるの?」
亜紀は、寝転がりながらリリー・フランキー演じる治にききます。
柴田一家には自分の部屋というのがありません。
つまり、プライベートというのはほとんど存在しないので、夫婦の営みとか、そういうものも難しいのです。
「俺らはよ、ここでつながってんだ」
自分の胸をさしていうリリーさん。
「お金でしょ」
日本映画独特の、エロティシズムが感じられる場面なのですが、リリーさんも、松岡茉優演じる亜紀も、そういう雰囲気がありません。
是枝監督は、リリー・フランキー演じる柴田治というキャラクターについて、女性経験の少ない男としています。
彼は遊び人ではなく、純情な男なのです。
亜紀という女性もまた、女子高生の格好をしてお客に見せるサービスでお金を稼いでいるのですが、性に開放的というわけでは決してありません。
この家族には性的なものはなく、そうであるがゆえに、機能していたのです。
ちなみに、亜紀という子は、性的なビジネスでお金を稼いでいるというのは、祥太との対比として描かれているのが印象的です。
祥太は性に目覚めることで家族の違和感を感じますが、亜紀は、性に目覚めた後で彼ら家族の加わったことで、さやかという妹と同じ名前をつかい、成長しない世界で生きています。
法の外
さて、何度も書いていますが、本作品は法律、法の外側で生きるしかなかった家族の、そして、法律に縛られてしまっている我々への警告の物語です。
暮らせないから、潰れない範囲で店から万引きをする。
このあたりの理由は別として、彼らは法律を犯すことで生活をします。
彼ら夫婦は、虐待する親から子供を連れ去ることで家族を増やします。
未成年者略取誘拐です。
ちなみに、このあたりは、映画「ゴーン・ベイビー・ゴーン」でもとりあげられていたりして、当ブログの記事でも紹介してますが、子供をもつ親が必ずしも親として適格かはわからないという話です。
虐待を受けていたじゅり。
母親のもとに戻ると、再び虐待を受けてしまいます。
彼女からすれば、柴田一家と暮らしていたほうが絶対に幸せだったでしょう。
また、祖母が死んだときの行動も印象的です。
息を引き取った初枝を見つけて、治は言います。
「葬儀とかどうする」
「そんなお金あるわけないでしょ」
とやり取りをしますが、すぐに「おばあちゃんと離れたくないよね」と信代は言います。
今の日本では、人が死ねばなんらかの形で埋葬する必要があります。
でも、どうでしょうか。
彼らは、おばあちゃんが好きで、おばあちゃんのおかげで一家が存続していたのです。
そんなおばあちゃんが死んだからって、火葬してしまえるでしょうか。
もちろん、それが社会(法律)的には正しいのですが、彼らの気持ちもまた本物でしょう。
それが、死体遺棄という罪になったとしても。
その気持ちを持つことが犯罪につながる矛盾。
彼らは、困っている人、弱っている人がいるから、法律とかそういうことを関係なしに、行動するのです。
お腹が減っている子がいるから、暖かい家で一緒にコロッケを食べる。
大好きなおばあちゃんと一緒にいたい。
家族でいたい。
法律的には許されないことです。
ですが、「万引き家族」が描くのは、その当たり前に対する疑問なのです。
安藤サクラ、泣く
「万引き家族」は多くの見所がありますが、パルム・ドール賞を受賞するにあたって世間で注目を浴びていたのは、安藤サクラの泣く姿です。
池脇千鶴演じる刑事が取調べでききます。
「(子供たち)二人は、あなたのこと、なんて呼んでたの?」
そうきかれて、安藤サクラは、小さく小さくつぶやきます。
「なんだろうね。なんだろうね」
彼らは家族でした。
でも、血もつながらないし、祥太もまたお父さんとか、お母さんとか言っていたわけではありません。
世間から、あなたたちは、どういう関係なの?ときかれても、安藤サクラは答えることができなかったのです。
何度も手で目をぬぐい、そのたびに、涙が溢れてくるその演技。
わけのわからない衝動の中で、言葉にできないままに涙をが溢れてくる様は、圧倒されます。
そして、父をやめる
この物語は、法の外側で生きる家族の話しであり、家族が終わる話でもあります。
世間に晒され、祥太は児童施設に引き取られます。
治は、刑務所に入っている安藤サクラを祥太と共にたずねます。
そこで言われたのは、家族を終わらせるという宣言でした。
「松戸のパチンコ屋。赤いビッツ。探そうと思えば探せるよ」
「それをいうために、祥太連れてこいっていったのか」
家族の解散宣言です。
ですが、同時に、安藤サクラ演じる信代は、祥太に対して選択肢を与えたのです。
血がつながらない家族か、血の繋がっている家族か。
「子は親を選べない」
というやり取りが劇中でもでてきます。
ですが、「万引き家族」の家族は、子が親を選べるのです。
治は、祥太に言います。
「おじさんに戻る」
父ちゃんと自分を言っていた治は、たんなるおじさんに戻るのです。
そして、バスで去っていく祥太を追いかけます。
「そして、父となる」で描かれた家族の関係。
「誰も知らない」もまた、法の外側で生きる子供達を描いた作品。
ある意味においての、集大成としての「万引き家族」は、世間に対する警告であると共に、家族関係も含めた中で意義深い作品となっております。
物語のラストまで見終えたとき、心に突き刺さるものがある映画となっておりますので、何度見ても発見があると思います。
以上、家族も終わる。感想&解説。ネタバレあり。是枝裕和監督「万引き家族」でした!