「古典名作入門 立場の異なる男たち/黒澤明「七人の侍」
世界のクロサワを代表する作品の一つといえば、「七人の侍」をあげない人はいないことでしょう。
3時間を20分にも及ぶ上映時間ながら、その長尺を感じさせないつくりは、何十年経っても古びることはありません。
そんな、歴史的傑作である「七人の侍」ですが、1954年の作品ということもあり、当然ながら白黒映画でもあります。
映画好きであれば必見とは思いますが、古い映画というものは、なかなか見る気が起きないものです。
「チャンバラ映画なんでしょう」とか「見なくてもだいたいわかる」といった声もあるかと思います。
しかし、その影響力は凄まじく、エンターテインメントとしても、人間の本質的に捕らえた作品としても、非常に意味のある傑作映画の一つとなっています。
スターウォーズで有名なジョージ・ルーカスも、黒澤明の影響を挙げていますし、大小の違いこそあれ影響を受けた作品が多く存在しているのは間違いありません。
とはいえ、古いから見る気が起きないという方々のため、「七人の侍」の解説と共に、その影響を受けた作品。そのままインスパイアされた作品なども取り上げつつ、古い映画への興味に繋げていけるよう、解説を行ってまいりたいと思います。
探す!
「七人の侍」は、綺麗な三部構成になっています。
第一部では、農民たちが野伏せり(野生化した武士と考えていただければわかりやすいと思います)によって、農作物を奪われている農民たちが描かれます。
収穫のときに野伏せりが来ることがわかったため、侍を雇って撃退することを思いついた農民たちは、侍を探しにいきます
この時代、身分の差は絶対です。
農民に侍が雇われるなんていうことは、侍のプライドが許しません。
さらに、たんなる農民ですから、褒賞らしいものがだせるはずもなく、ただ米を腹一杯食べさせることしかできないという中で、侍探しは難航します。
そんな中、侍を探している利吉たちは、自分のちょんまげを剃って坊さんに成りすまし、押し入り強盗につかまってしまった子供を助けた志村喬演じる島田勘兵衛と、偶然にも出会います。
志村喬といえば、黒澤明映画に多数出演し、一度みたら忘れられない容貌が特徴的な俳優です。
当ブログでも紹介しましたが、ガンで余命が少ないことがわかった男が、生きるとはどういうことかを示してくれる傑作映画「生きる」の主演や、本田猪四郎監督「ゴジラ」にも出演しています。
侍を探している利吉たちは、島田勘兵衛に会うまでの間、ひどい扱いを受けており、武士だからといって人格がしっかりしている人なんていないんだ、ということがわかってしまいます。
そのため、島田勘兵衛の印象はより強くなります。
さらに、その場面に居合わせた三船敏郎演じる菊千代。
若き侍である岡本勝四郎も現れて、島田勘兵衛に弟子入りを志願するなど、なかなか、村を助けて欲しいといいだせない演出は面白いです。
集う!
「この飯、おろそかには食わぬぞ」
と、言って島田勘兵衛は、白い米がこんもりと乗った碗を受け取ります。
農民にとってだせるのは米だけ。
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そして、自分たちは、米ではなく稗(ひえ)を食べて飢えをしのぐというところは、その立場的なものをしっかりと見せてくれるものとなっています。
仲間集めもまた面白く、個性派のメンバーが少しずつ集まります。
その実力を測るために、勝四郎に入り口で不意打ちを喰らわせようとしたり、2回目も同じように打ち込むのかと思いきや、すぐにそれを理解し「ご冗談を」を笑う人物。
圧倒的な強さで敵を切り伏せる剣客。
七人全員がそれぞれの魅力をもっていますが、そのグループ分けをすることで、よりわかりやすくなってくると思います。
キャラクターの中でもっとも重要な人物は、三船敏郎演じる菊千代です。
彼は、武士の家から家計図を盗んできたり、長すぎるぐらいの刀をもっていて、自分自身の力を極端に誇示する存在として登場します。
ただ、これは後にわかることですが、彼は、農民出身であり、侍に憧れをもつ存在として描かれます。
ひょうきんなキャラクターこそが、立場の異なる農民と、武士を結びつける存在になっていくのは、秀逸です。
また、勝四郎は若く、みんなから子供扱いされています。
ただ、その意気込みを買われて6人目として迎え入れられるのですが、基本的には子供扱いされることにはかわりありません。
これは、勝四郎以外は、合戦に参加した経験があり、何かを背負ってきた人物たちであるということでもあります。
島田勘兵衛は、自分の頭をなでながら言います。
「腕を磨く。そして戦に出て手柄を立てる。それから一国一城の主になる。しかしな、そう考えているうちにな。ほら、頭がこのように白くなる。そして、そのときには、親もなければ、身内もない」
侍同士の中でも、子供と大人という立場の違いが発生しているのです。
立場!
七人の侍は、異なる立場にある人たちが、一つの目的のために力を合わせ、理解しあっていくことが重要なテーマになっていると思われます。
そのため、繰り返し繰り返し、立場ゆえにわからないことがあり、それを理解しあっていくという場面が積み上げられます。
まずは、農民と武士。
さきほども書きましたが、士農工商がはっきりした日本において、農民が武士を雇うなんていうこと自体、そう軽々とできることではありません。
それは、いかに公平な人物である島田勘兵衛でも例外ではなかったはずです。
店で島田勘兵衛に野伏せり退治をお願いする利吉たち。しかし、その難しさから断られてしまいます。
店に居合わせた人たちが「死んじめえ。そのほうが楽だぜ」とはやしたてます。
その言動に勘兵衛は
「貴様らにはこの百姓の気持ちがわからぬのか!」
「へん。わかってねぇのはおまえさんたちよ」
「なに!」
「わかってたら、助けてやればいいじゃねぇか」
言い負かされます。
そう、島田勘兵衛をもってしても、何かしらの理由をつけて、苦しんでいる人たちの気持ちをわかろうとしていなかったのです。
助けられるのに助けようとしていない自分に気づき、「この飯、おろそかには食わぬぞ」と告げるのは、自戒する意味も含まれた言葉と思われます。
それゆえに、その白いご飯が、より価値があるように見え、事実、その当時の米がどのような意味をもっていたかを伺い知ることができるようになっているのです。
また、いざ七人の仲間と村に行き、さらにその立場の違いがわかります。
農民たちに稽古をしているときに、菊千代が農民が持つには不自然な槍を見つけます。
「やい、これはどこからもってきたものだ」
問い詰めると、落ち武者を殺して手に入れたものだということがわかるのです。
島田勘兵衛たちをはじめ、雰囲気が悪くなり、協力できないといった雰囲気になりかけますが、
「落ち武者になって、竹槍で追われた者でなければこの気持ちはわからん」
と島田勘兵衛は、他の侍をいさめます。
これは、合戦に参加し、苦渋を舐めたことのある侍の立場です。
たしかに、助けようとした農民たちは、一方で、自分たちのために武士を殺していたわけですから、そんな都合のいいことが許されていいはずもありません。
ただ、そこで菊千代が
「一体、百姓をなんだと思ってたんだ? 神様だとでも思ってたのか。百姓くらい悪い生き物はいねぇんだぜ! そんなけち臭いやつをつくったのは誰だ。お前たちだぜ」
と怒鳴ります。
「貴様、百姓の生まれだな」
と、島田勘兵衛は菊千代の出自を看破します。
落ち武者を殺したのも農民ならば、農民をそうしてしまったのもまた武士。
菊千代は、農民の気持ちを侍たちに伝えることができる存在として、非常に重要なキャラクターです。
そのことを受けて、翌日。
6つ丸。三角。「た」という文字が書かれた旗がつくられます。
これは、異なる立場のものたちが一つの旗に集うという象徴となっています。
このようにして、立場が違うもの同士が理解しあうというところも、七人の侍を見る上での醍醐味だと思います。
ちなみに、勝四郎と農民の娘志乃とのちょっとした恋愛模様もありますが、これもまた、身分違いの恋であり、悲恋という形で演出されてしまいます。
斬る!
三部目では、ついに野伏せりが襲来します。
その合戦の模様は、是非作品をみていただきたいと思いますが、見所をあげるとするのであれば、雨のシーンでしょう。
土砂降りの中で、馬は暴れるし、戦闘は錯綜して、乱戦の様相を呈していきます。
CGもなにもない時代で、これほど危険なシーンを撮っていたと思うと、それだけでハラハラします。
いつまでもいつまでも、馬が暴れるのが余計にその心理を引き立てるあたり、演出のうまさが際立ちます。
西部劇などでは、空っ風が吹き荒れる中戦闘が行われたりはしますが、雨の中での戦闘というのは存在しなかったようです。
それを、雨の中に墨汁を混ぜて、より迫力のある雨のシーンが撮影されたことも、当時の映画業界では驚きとともに迎えられたそうです。
また、菊千代が、「刀一本じゃ、5人も斬ればいいほうだ」といって、地面に刀をさしていきます。
こういう実践的な場面をいれることで、合戦がより生々しくなりますし、こういったシーンは、色々な映画でもインスパイアされているところだと思われます。
ガン=カタでおなじみ、リベリオンでも、銃の弾倉を事前に置いておくくシーンなどは、このあたりからきているのではないでしょうか。
また、竹やりをもたされたといっても、農民たちはあくまで農民。
そんな農民たちが、色々な作戦を駆使して、野伏せりの集団を倒していく姿は、見ていて熱くなること請け合いです。
最後は、7人の中で誰が残るのか。
そして、合戦のあと、農民たちは苗を植えながら豊穣の秋を願う。
その農民の姿には、戦いの面影などありません。
結局、それぞれの立場での物語であることが最後の台詞でわかるのです。
七人の、影響。
さて、続いて「七人の侍」によってどのような影響があったのかをざっくりと説明してまいります。
まずはずせないのが「荒野の七人」でしょう。
一応、リメイクという形の体裁をとっていることもあり、話の筋はほとんど同じです。
侍が西部のガンマンになり、7人のキャラクターが若干変更が加わっていたりしており、見事にアメリカ向けにつくられています。
毎年、麦の刈り入れ時期になると盗賊が現れてメキシコにある村を襲う中、村人たちが凄腕ガンマンを雇い、盗賊を倒すといった内容になっています。
まぁ、話の筋は本当に同じです。
また、スティーブ・マックィーンや、チャールズ・ブロンソンといった、もう超有名俳優が出演している点でも、見逃せないところでしょう。
また、少々マニアックなところでいけば、ウッチャンナンチャンの二人が主演した「七人のおたく」もまた、タイトルといい内容といい、7人の侍からインスパイアされたものであることは間違いありません。
「七人のおたく」は、フィリピン人女性の子供が誘拐されたのを、たまたまミリタリーおたくのナンチャン(南原清隆)が義侠心から助けることになり、おたくたちを集めて、子供を救出し、母親に届けようとする物語です。
「七人の」とつくと、やはり、個性的なキャラクターが集まって一つの物事を成し遂げるという、それだけで非常に物語が面白くなります。
ブルース・リーおたくであるウッチャン(内村光良)は、鍛えはいるものの、実践なんてしたことがありませんでしたが、子供を救うという思いで、長年鍛えた肉体で敵を倒すようになるなど、おたくが成長していく様を描いたものとしてもみることができます。
また、おたくの性も描いており、益岡徹演じるフィギアおたくが、敵の本拠地にどう攻め込むか決めるためにつくった急ごしらえのジオラマに対し、「きっちり、作ろう!」と本気を出してしまうさまなどは、おたくの悲しくも楽しい性といえると思います。
サムライセブン
実は、「七人の侍」を、ロボットSFものにしてしまったアニメも存在します。
「七人の侍」の公開50周年を記念して、アニメーション会社GONZOが総力をあげてつくりだしたのが、「サムライセブン」です。
巨大な機械の身体に改造したサムライたちが闘う、超未来世界。
そこでは機械文明と共に、なぜか米をつくる農耕社会が同時に営まれています。
超未来SFにしており、日本の武士というよりも、中国の少数民族をモデルにしたといわれている民族衣装に身をつつんだ人たちが活躍するという点や、キャラクターが追加されていたりする点を除けば、話の筋やキャラクターたちの動機づけが、「七人の侍」そのままに話が進んでいきます。
野伏せりたちが農民たちから米を奪う。それに耐えかねた農民が、侍を雇うというまで、全ては同じに作られています。
「サムれぇ、雇うだ。おらぁ、この目で見ただ。燃えてねぇ村は、サムライ雇ったところだけだった」
そのスケール感は、桁違いです。
26話というボリューム。
ゲーム画面かと思うようなフルデジタル・アニメーション。
サムライは、銀河鉄道999のセカイのように、身体を機械に変え、戦いのための兵器になっているありさま。
その巨大な体は、その世界感に慣れるまでは、笑えるぐらいです。
ただ、そういった設定にしてしまったために、戦闘機械の体になったサムライたちの悲劇や苦悩も描いているところが、アニメ版のおもしろいところでもあります。
このセカイの中で、島田カンベエと出会い、7人のサムライたちによって、とんでもない規模になった野伏せりと戦いが行われるさまは、原作とは異なった面白さを与えてくれます。
そのため、「七人の侍」が好きな人で、アニメーションも好きな人であれば、一見の価値はあると思います。
影響を受けた、監督。
様々なところで影響を与えている黒澤明監督ですが、際立っているのは、スターウォーズで有名な、ジョージ・ルーカスでしょう。
特に、スターウォーズエピソード1については、当ブログの記事でも取り上げました。
一説には、七人の侍にでてくる野伏せりのボスの姿をもとにして、ダース・ベーダーのデザインが作られた、という話もあるそうです。
エピソード4の内容もまた、隠しとりでの三悪人の影響と共に、七人の侍の影響も多分に受けていると思われます。
また、またまた当ブログでも紹介した、アレクサンダー・ペイン監督もまた、黒澤明多大な影響を受けていると公言しています。
世界のクロサワ
「七人の侍」は、黒澤明の代表作であると同時に、エンターテインメントの基本となる要素がこれでもかと詰め込まれています。
見るたびに発見がある映画だとは思いますが、その影響がどんな形で他の作品に影響を与えているかを考えると、古い映画という先入観を捨ててみることができると思います。
どうしても、古典とされるような映画は、敷居が高くなってしまいます。
ですが、名作と呼ばれるものは、それだけの理由があって存在しているのです。
とはいえ、冒頭でも書いたように、古い映画はとっつきづらい。
社会的背景も知っていなければならない場合もありますし、真似されたりしているせいで、当時は斬新だった方法も、すっかり手垢がついてしまって面白さを感じない場合もあるかもしれません。
ですが、見方がわかることによって、少しでも古典映画への間口が広がれば、映画の味方も変わり、より面白くみれる作品が増えるかもしれません。
以上「古典名作入門 立場の異なる男たち/黒澤明「七人の侍」でした!