ネタバレあり。彼は飛べたのか。バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)
「レヴェナント:蘇りし者」も日本公開されようとしている中、二年連続でアカデミー賞をとるという快挙をなしとげたアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督。
そのイニャリトゥ監督の「バードマン あるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡)」について、イニャリトゥ監督する映画のおさらいとして解説してみたいと思います。
イニャリトゥ監督といえば、「21g」や、菊池凜子主演で撮影された「バベル」なんかが有名でしたが、いずれの映画も比較的暗い内容になっています。
ですが、「バードマン(あるいは、無知がもたらす予期せぬ奇跡」は、イニャリトゥ監督がコメディとして撮影したものですので、非常に楽しげに見ることができます。
ただ、見たことのある方であれば、その映像的な試みや、物語としての構造で、ふと考えてしまうところもあると思いますので、気になるところを考察してみたいと思います。
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バードマンはバッドマンなのか。
物語がはじまるとすぐに、パンツ一丁の男が空中で座禅をくんでいる姿が映ります。
主人公であるマイケル・キートン演じるリーガンは、かつて、バードマンという映画で一躍有名になった俳優、という設定です。
演じているマイケル・キートン自身もまた、ティム・バートン監督「バットマン」「バットマン・リターンズ」で主演していただけに、劇中の「バードマン」が「バットマン」を含んでいるのではないか、と考えてしまうのは、難しいことではありません。
俗にブロックバスター映画とよばれる大作映画で主演をつとめた俳優は、その役そのもの色がついてしまうことが多いです。
有名どころでいえば、スターウォーズでルーク・スカイウォーカー役を演じたマーク・ハミルや、レイア姫を演じたキャリー・フィッシャーは、役のイメージを払拭することができず、非常に苦労をしたという話もあります。
特に、ヒーローものには多く、スーパーマンを演じる俳優は、スーパーマンという色がつくことを恐れて、ある程度のヒットをすることが間違いないとされながらも、あえて役を断るという場合も多いそうです。
良くも悪くも、その人間の人生を左右してしまうのが、キャラクター性の強い大作映画ということになってしまうのです。
そのため、「バードマンあるいは(無知がもたらす予期せぬ奇跡」についても、バードマンという映画で名声を得ながら、そのバードマンというかつての役の影から脱出することのできない、男が過去の自分と決別する、というのがこの物語の大枠のテーマとなっています。
主人公は超能力者か?
これは見ていると気づくのですが、主人公は一人きりでいるとき、時々超能力をもっているとしか思えない行動をとります。
楽屋で浮いているのもそうですが、物を壊したり、自分の手元に何かをもってきたり、その姿は、人間ではないように思われます。
ですが、彼は、一人のときしかその能力を発揮できません。
劇中で何回か主人公が超能力をつかっている最中に、人がやってきてしまったりするのですが、他人が見ている場面では、主人公が普通に物をつかんで壊しているだけだったりします。
これは、一種の妄想です。
ただし、実は主人公はきっちりと妄想と現実の区別がついているのがポイントです。
現実と妄想の区別がつかなくなる映画で有名なところでいえば、ナタリーポートマン主演「ブラック・スワン」が比較的わかりやすいでしょうか。
ナタリーポートマン演じる主人公は、バレエで白鳥の湖を踊ることを夢見ていますが、人生経験の浅さから、演技に行き詰ってしまいます。
そのうちに、妄想と現実の区別がつかなくなりながらも、最後には、自分自身の妄想と実際の演技とが同期していく姿は、非常に面白く描かれています。
鏡の中の自分が鳥に変わっていくシーンなどが有名ですが、この手の映画では、自分との対話というがどのようにして描かれるのかがポイントです。
ブラック・スワンでは、ライバルとして現れたミラ・クニスのために、役がとられそうになっていくナタリーポートマンも見所ですが、そもそも、ライバルの女性がそもそも、ナタリーポートマンの妄想だったのではないか、という含みもあり、非常にミステリアスな物語となっています。
バードマンは、デビット・フィンチャー監督「ファイト・クラブ」の影響が非常に強いので、気になる方は、あわせてみると面白いかもしれません。
いずれも、自分の中の自分こそが一番の敵ということがわかる映画です。
その点、バードマンは、あきらかに主人公が、自分との対話を具現化したものとして描いているので、安心してみることができます。
「バードマン4をつくれば、おまえはまた有名になれる。お前は、こんなところでこうしている男じゃない」
と耳元で語りかけてくるのですが、これは、漫画とかでもよくある表現で、悪魔の自分と天使の自分がやってきて言い争いになる、みたいに考えるとすっと入ってくると思います。
この場合、バードマンは、先ほども書いたように、過去の役、輝かしい栄光にいた自分というものの象徴として、描かれているのです。
でも、ジャコ・ヴァン・ドルマルの映画でも、紹介しましたが、妄想と現実を分ける必要はまったくありません。特に映画の世界においては。
主人公の頭の中にはたしかに、バードマンがいて、そして、彼は自分の気持ち一つで物を壊したりすることのできる。
万能感が彼を満たしている。
ですが、これって子供の時分であれば、誰しも妄想することなのです。
そう、バードマンという過去の支配された主人公のリーガンは、ある意味において、非常に子供なのです。
娘との関係
映画評論家である町山智弘氏が映画無駄話の中で、イニャリトゥ監督は「娘とうまくいかない親との関係」を映画にしている、と言っていました。
バードマンにおいては、「小悪魔はなぜもてる?」や、「ヘルプ 心がつなぐストーリー」などでチャーミングな演技をしたエマ・ストーンが、娘として登場しています。
エマ・ストーン演じる娘サマンサこと、サムは、元薬物依存の女の子です。
この映画のラストについては、もう少し後に記述しますが、町山智弘氏のいうとおり、娘との関係というのもまた、主人公が過去のバードマンである時分との決着をつけるというテーマについで重要なものになっています。
薬物依存になった娘から、主人公はほとんど尊敬されていません。
ですが、アシスタントとして主人公の舞台を手伝っている、という時点で、父親に対してのなんらかの思いはあるものの、過去の捕らわれてしまっている父親を素直に尊敬できずにいる、というのが非常に大きなポイントになっています。
それが、ブロードウェイでは実力派の男がやってきて、娘と仲良くなっているところみてへこんでしまったりと、娘によって父親がどのような心理状況になってしまうか、というのも見ものです。
ストーリーと映像
さて、この映画を見てすぐに気づくことがあります。
それは、この映画はワンカット風に撮られている、ということです。
ワンカットではありません。
実際は、扉を開けて次の部屋に行く瞬間や、カメラが右から左に動いたとき、空を見上げている最中など、様々な場面でカットが変わっているのですが、普通の映画によくある場面の転換がありません。
気づくと時間が経過していたりするので、慣れないうちは意味がわからないと思いますが、見ているうちに、この映画がどのようなつもりでワンカットにしているのか、わかるようになってきます。
ワンカットにするとどのような効果があるのか。
大雑把に言えば、その世界に没入できる、というところです。
カットが変わる(場面が変わる。ベッドのシーンから切り替わって、朝日になる、みたいな場面転換といえばいいでしょうか)と、見ている側も一区切りがついてしまいます。
見ているこちら側も気持ちが切り替わりますし、キャラクターの心情もすこしは変わっているだろうと思うのです。
ですが、ワンカットでとっていると、まるで現実の世界の我々のように、気持ちは連続します。
そのため、バードマンをみていると息もつかせぬカメラ移動によって、息苦しいとすら感じます。
ワンカットでほぼ全編とる、というのは非常に珍しい、というのもありますが、主人公の忙しい心情をよく表しているとも思えます。
主人公は、バードマンだった自分のイメージを払拭しようと、レイモンド・カーヴァーの「愛について語るとき、我々が語ること」という短編小説を、舞台化します。
映画は、この劇の舞台裏で行われているドタバタを移しているのです。
劇場でのドタバタだと「今宵フィッツジェラルト劇場で」なんてのもあります。
バードマンでは、ワンカットで撮影されているため、劇場のバタバタしている感じを見ている側に想像させるようになっているのが面白いです。
次から次へと問題が起こり、着替えながら舞台に向かい、酒を飲んで、演技をする。
その一連のやり取りのめまぐるしさが、ワンカット風でとられているからこそ、見ている我々も、その場にいるような不思議な感覚になるところが面白く、ワンカット風ならではの効果をあげていると思われます。
息もつかせぬワンカット風の中、主人公が舞台を演じ、娘とのいざこざもあり、元妻との関係もありながら、どうやって、彼は時々語りかけてくるバードマンの影を振り払うのか、というのが、この映画の見所です。
ラスト彼は飛べたのか。
ここから先はネタバレになりますので、バードマンを純粋に見たい、という方は、見たあとに戻ってきていただけるとありがたいです。
さて、この映画を最後まで見終えたときに、どうしても、疑問に思わずにはいられない部分があります。
それは、主人公であるリーガンが、拳銃で自らの鼻を撃ち、入院したあとのことです。
これについては、映画をみた方であればもう問題ないと思います。
この物語は、記事の中でも散々書いたように、バードマンという過去の役から脱却できなかった男が、その役と決別する物語です。
そのため、拳銃で自らを撃ち、まるでバードマンのような顔になってしまった彼は、バードマンであった自分もまた、自分の一つであるとして、一体化したことがわかります。
彼は、50を過ぎてなお、頭の中で超能力をつかってしまう男です。
自尊心が強く、他人の評価を気にします。
エマ・ストーン演じる娘から「facebookもやっていないし、twitterもやっていない。あんたなんか、存在しないのと同じなのよ」
と言われてしまいます。
しかし、裸でニューヨーク・タイムスの前を歩くシーンがyoutubeに晒されて、動画の再生回数が伸びます
主人公は自分の汚点だとおもっていますが、実は娘は喜んでいます。
だって、娘の世代の人たちでは、ブロードウェイで人気になるより、youtubeで再生回数が伸びるほうが、はるかにすごいことなのですから。
でも、主人公は他人の評価も気にしますが、自分こそが一番傲慢なので、自分で自分を認めることができないのです。
ただ、映画の冒頭で、レイモンド・カーヴァーの言葉が流れていることを考え、そして、劇中の舞台を考えると、まさに、これは愛とはどういうものか、と考える物語になっているのです。
自己愛だけでは他人を傷つけるだけ。
他人が自分のことを認め、愛してくれることこそが大事なのです。
さて、問題のシーンです。
主人公は、自分の中のバードマンと決別した後、窓を開けて、飛び降ります。
飛び降りた姿は見えません。
そして、あとから病室に戻ってきたエマ・ストーンは、父親の姿が見えないことに驚き、窓の外に顔をだして、下を見ます。
情緒不安定になって突然、命を絶っても不思議はないからです。
でも、エマ・ストーンは、下を見たあとに、上を見上げ、そして、ふと笑うのです。
そこで、物語は終わってしまうのですが、読み違えると非常にもやもやしてしまいます。
そらを見上げたエマが見たものは
ここにきて、どうなったんだ、と。
主人公はやっぱり死んでいた、なんてこともないことはないでしょうが、この物語のテーマや、今までの映像をみていくと推測することが可能です。
これは、父と娘の物語でもあります。
それと同時に、どうしようもなく、主人公であるリーガンの主観的な物語です。
ワンカット風の中で、唯一、カットが切り替わるのが、銃で撃ったあとのシーンです。
海に打ち上げられたクラゲや、隕石の落下シーン等が映るシーン。それ以外は、基本ワンカット風で撮影されています。
何度も書きますが、主人公は妄想と現実をしっかりと区別しています。
批評家にけなされた後、彼はビルから飛び降りて、空に飛び立つというシーンがありました。
嫌になって自殺してしまったのかと思いましたが、彼はそんなことをしません。
であれば、途中から、病室の映像は彼の妄想、心の中になっていると考えるべきなのです。
彼は、自分自身がバードマンと一体化し、新たな自分に生まれ変わった。
そして、その万能感に満たされた彼は、空を飛ぶ妄想をみているのです。
でも、彼の妄想は、他人は入ってきたら止まってしまうはず。
にも関わらず、エマ・ストーンはやってきて、窓の外を見上げて笑う。
この映画は、父と娘の物語でもあります。
バードマンから脱却し、誇れる父になった彼は、娘に認められたと実感しているのです。
はじめて彼は、自分の妄想の中に、娘にも自分をわかってもらえた、愛してもらえたという実感をもてた。
自己愛の中で、自分の妄想の中で自分を愛していた男が、娘の愛を感じることができた。
だからこそ、病室の娘は、空を見上げて微笑んだのです。
飛んでいる父親をみているはずだと、主人公は、思ったに違いないのですから。
以上、「ネタバレあり。彼は飛べたのか。バードマン(あるいは、無知がもたらす予期せぬ奇跡)」でした!