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シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

相米慎二、かく語りき。 『セーラー服と機関銃 完璧版』(1982年)

今回は本編公開の翌年に公開された薬師丸ひろ子主演の『セーラー服と機関銃 完璧版』について語りたいと思います。

四代目は女子高生

『完璧版』とは編集の段階で切り落とされた部分を追加したディレクターズカット版です。本編が予想外の大ヒットを記録したため、監督の本来の構想を実現した形で公開されました。

何の変哲もない一介の女子高生が父親の死をきっかけに薬を巡る裏組織の争いに巻き込まれていくという、やくざ映画風味のアイドル映画です。

配給を担当したのが任侠/やくざ映画でおなじみの東映だというのが面白いところです。

センセーショナルHIROKO

1970年代のやくざ映画隆盛の時期が過ぎ、新たな映画産業の担い手として角川春樹が70年代後半に登場、次々と大作映画(『人間の証明』、『野生の証明』など)を製作します。

80年代に入り、角川映画は路線を変更し、制作費を抑えたアイドル映画を発表していきブームを巻き起こします。

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そのブームの火付け役が本作『セーラー服と機関銃』で主演をつとめた薬師丸ひろ子です。

異例のヒットとなった本作で薬師丸は一躍スターダムにのし上がります。

まさにセンセーショナルなスター誕生です。

アイドル女優として、その魅力的な目と声で大ブレイクした薬師丸はその後も『探偵物語』、『里見八犬伝』 や『Wの悲劇』に主演します。

1970年代が任侠/やくざ映画の時代だとすれば、1980年代はアイドル/アイドル映画の時代だったのです。

相米慎二の演出術 

監督を担当した相米慎二長回しや極端な遠景などで有名な映画監督で、本作でも彼の演出は冴え渡っております。

一見すると、女優の顔のアップに執着しない相米監督の作風はアイドル映画と相性が悪いのではないかと思われるのですが、その独特な演出術は主演女優を現実の世界から切り離し、まさしく偶像としてスクリーンに描写し、結果的にアイドルとしての価値を引き上げて作品にまとめることに成功します。

 

彼の演出ではよく「奥行き」を意識した構図が出現します。

父親の死後に薬師丸(と同級生三人組)と渡瀬恒彦がはじめてすれ違うシーンや、悪徳警官に刺され傷を負った酒井敏也が薬師丸に抱きしめられた後、チャイムがなりドアを開けるシーンなどなど、むやみにカメラを動かさずとも画面内では「物語」が進行しているのです。

cinematoblog.hatenablog.com

これは70年代に一世を風靡した深作欣二の振り回すようなカメラの世界観づくりとは全く違いますよね。

さらには縦の意識。

敵対するやくざ組織(表向きは一般企業)の大きなビルを訪問した際に、自分たちの組事務所の屋上が小さく見下ろすことになります。これが後に、薬師丸と渡瀬でやくざを廃業したあとの屋上で物を燃やす長回しのシーンに繋がっていきます。また、別のやくざ組織に単身乗り込んだ薬師丸がクレーンで吊り下げられ上下させられるシーンも縦の動きが印象的です。

そして、謎の女・まゆみとの会話中にでんぐり返ししつつ部屋の中を移動する場面では、カメラが巧妙にテーブルやソファなどの家具を回り込みながら撮影されています。

また、二人がカフェで会話している場面を横移動で外から捉えるような「歩きながらの覗き見」といえるようなカットもあります。

このように、縦・横・奥行き、さらには長回しによる「立ち止まり」など縦横無尽にカメラを駆使する相米ワールド。

これによって映画が単調なペースを脱出するだけではなく、唯一無二の特異性を手に入れることができます。同じような場面を毎回似たような構図で映し出しても観客は退屈するばかりなのです。

それを例えば深作欣二だったら手ぶれを含めた荒々しい映像で、大林宣彦であれば独特のCGなどで回避していくのです。

そのような様々な「退屈な映像から脱出するための技法」は「作家性」として受け止められ、フォロワーを生み出します。さきほどあげたような相米の演出にしてもそうですが、本家を超えられるような才能は彼の没後15年ほど経過してもなかなかでてきません。

cinematoblog.hatenablog.com

 

相米慎二はこう言った。

相米監督の映画を観るたびに、彼が1990年代の札幌のある講演会で発したといわれる言葉を思い出さずにはいられません。

簡単に要約してみます。

「テレビは観るものに次々と情報を投げかけるが、決してエモーショナルのものは与えない。すなわち、観るものにとってはテレビの映像は次々忘却されていくためのものである。対して映画は観客にエモーションを与えるためにある。すなわち忘却されないような、心に刻まれるような感覚をおぼえなければ映画を観る意味がない」

さらにテレビと映画の違いについて、

「テレビに囲まれて育った世代が映画を観れば、テレビと映画の楽しみ方はそれぞれ異なることに気付くはず。テレビを観るように映画を観ていては本当の面白さに気付かないだろう。映画を楽しむためにはある程度の視聴本数と、映画の持つリズムと映画の発する空気をうまく読み取る力が必要で、それがなければ映画なんてのはただ流れていくつまらないものにしかならないのではないか」

と語っています。

 

映画を観るためにはリテラシーが必要で、テレビと同じように楽しむことは出来ないだろうといっているわけです。

ところが現状の映画はどうでしょうか。テレビでやったドラマやアニメを単に映画化して劇場で流しているというケースが多いと感じないでしょうか。

つまり、つまらなく感じないように相米が苦心して演出したような、アート映画ともいえるような作品は受け入れられなくなっているのです。

そう考えるとやりすぎともいえる相米演出が炸裂した『セーラー服と機関銃』が大ヒットを記録したのは今考えても素晴らしいことだと思います。

 

ただ単に映像に凝ったような映画や、セリフが少なくて何だか小難しい映画が素晴らしいとか、テレビより映画が優れているとかいっているわけではありません。

媒体により表現方法の違いは多々あり、テレビにはテレビの、映画には映画の役割があるのです。

テレビが日常生活と密接に結びついているものだとすれば、映画は非日常の世界観。観客にひと時の非日常を体験させる装置なのです。

そしてその非日常の世界観を、相米はこれまた日常には存在しようもない神秘性を持つ薬師丸ひろ子を使って作り上げました。

彼女が「カイカン」と呟く度に観客は非日常の弾丸で撃ち抜かれ、忘却を拒むような映像体験をすることとなるのです。

 

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