芸術における才能とは? 北野武『監督・ばんざい!』/『アキレスと亀』
ニャロ目でございます。
今回は北野武監督の13本目『監督・ばんざい!』(2007、104分)と14本目の『アキレスと亀』(2008年、119分)を取り上げたいと思います。
珍妙なコメディ映画である『監督・ばんざい!』、芸術に生涯を捧げたものの、ついぞ振り向かれることのない男の半生を描いた『アキレスと亀』。『TAKESHIS`』とあわせて芸術家三部作ともいえる、この一連の作品は北野映画のなかでどのようにとらえることができるのでしょうか。
『監督・ばんざい!』
この作品はビートたけしが映画監督のキタノ・タケシに扮し、映画製作に四苦八苦する様子を北野武が監督するという多層構造になっています。
暴力映画を封印したキタノはまだ手を出してないあらゆるジャンルの作品を作ろうとしますがどれもなかなかうまくいきません。
映画はその作りかけの映画が数本流されるのですが、その中の一作、『コールタールの力道山』は物語の構成を直してきちんと100分くらいの映画にしたらどうなったのか、反『3丁目のなんたら』的映画として観てみたい気持ちもあります。
映画は途中から『約束の日』という劇中劇がメインとなって進行していきます。
それまではナレーションが入り、キタノが映画製作に煩悶する内容となっていますが、ここから虚と実が入り混じってきて、映画製作の話なのか何だかよくわからない感じでベタなギャグの散りばめられたストーリーが展開されます。正直、なかなか評価に苦しむというか、これまでの武映画に慣れた視聴者にしてみると困惑してしまいますね。
この映画全体がフェリーニの『8 1/2』を元ネタにしているのは明らかですが、それよりもっと悪ふざけしてます。
ベタなギャグを使って細かくパートをつなぎあわせていく武映画といえば、前作『TAKESHIS`』の他に『みんな~やってるか!』がありますが、本作はこの二作を混ぜ合わせたような印象もあります。
ラストは悩める監督に対する医者の「壊れてますね」という一言で終わるわけですが、これは(おそらくは)視聴者が理解に苦しむことを明らかに想定して作っていることがわかります。その上で、監督自ら壊れていることを自白するのです。前作から続く、多層的な物語構造を逆手にとったオチというわけですね。
『アキレスと亀』
そして『アキレスと亀』ですが、前作『監督・ばんざい!』のラストで「壊れている」といわれた北野監督が芸術とそれに翻弄される人間を真正面から「再び」描いた作品です。前回で映画で今回は絵画というわけですね。
そして、前作のラストで壊れていることを自ら認めていましたが、今作では娘が(おそらく薬の影響か何かで)死んだあとも死体を利用してアート作品を作ろうとする、悲しくもおぞましいシーンで妻が「狂っている」と言い放ちます。
つまり、どちらの作品も芸術にとりつかれておかしくなってしまった状況を描写しているわけです。
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しかしながら、前作では「(映画も監督も)壊れている」ことを自覚しつつ、次作『アキレスと亀』では芸術家(もどき)の半生を丁寧に(映画的に)描いているという、まあ映画をまたいだ「ボケとツッコミ」なんでしょうね。そう考えると、この二作品の関係性がわかりやすくなると思います。
この映画の主人公・真知寿は子供のころから絵が好きで、成功者の父や画商、画家などに褒められ、何不自由なく(独学で)絵に取り組みます。しかし、父の事業が失敗し、自殺したことから人々が離れていき、真知寿の生活が一変します。
母親(直接血はつながっていないようですが)も自殺してしまうのですが、真知寿はその死に顔を絵に描きます。
この母親の絵が映画内で写されるシーンがあるのですが、このカットはなかなか見どころです。非常に不気味であり、真知寿の人生に芸術と死がまとわりついているのが明示されます(真知寿―マチスなんて名前は芸術かぶれの成金である父親の意向でしょうし、又三という絵が好きな奇妙な男との出会いと別れの描写もすごく印象的です)。
その後、青年時代にも芸術を生きがいにする仲間と出会いますが、ここでも事故や自殺で死ぬ者もでます。結婚し、子供が生まれても彼はろくに働かず芸術を追求しますが、父親に絵を(騙して)買わせていた画商の息子(彼もまた画商になっていた)に親子二代で翻弄されることとなります。
曰く、絵の勉強をしろ、普通ではいけない、狂気が足りない、などなど。
真知寿は愚直な人間なのでそのアドバイスに素直に従いますが、その度に(色んな方面から)駄目だしをされ、絵はほとんど売れません。
彼は絵に全てを捧げますが、その絵が評価されるされないに関しての知識には乏しかったのです。
娘が売春した稼いだ金も絵の具代としてせびる真知寿。
さらに、死んだその娘の顔でさえも表現に使用するさまは妻ならずとも「狂っている」といいたくなります。
少年時代に母親が死んだときも、娘が死んだときも(手法は異なりますが)芸術に変換してしまう、彼が変わっていないことをあらわしています。その変化のなさが悲しい印象を与える場面でもありますが。
真知寿はほとんど喜怒哀楽を表情にあらわしません。全てを芸術に捧げているのです。しかし、残念ながら彼には周囲を納得させるだけの力がなかった。ただそれだけなのです。
芸術における「才能」とはなにか―『アキレスと亀』、タイトルの意味
というわけで前述した通り、この二本はどちらも芸術に挑み、そして美しくも敗北した芸術家の様を描いているという共通点があります。
『監督・ばんざい!』の映画監督であるキタノはすでにある程度の名声を得ています。
そして新境地を開拓するために過去作品を参考に新作を作ろうとします。
『アキレスと亀』の真知寿は絵画が好きでたまらないのですがいっこうに売れる気配がありません。他人のアドバイスに従い、迷走しつつ、追い込まれていきます。
どちらも他人からの評価に非常に苦しんでいる様子が描写されています。
その苦悩は、『TAKESHIS`』では劇中映画の最後の「爆発」で、『アキレスと亀』では「炎上」で視覚的に収斂します。
北野監督は『アキレスと亀』の映像特典で興味深いことを語っていますので要約してみます。
「『アキレスと亀』というのはゼノンのパラドックスの一種で、いわば屁理屈。芸術に関しても例えヘタな絵でも、コンセプトアートですなんて屁理屈をつけられると納得してしまうことがある。絵画の世界にもパラドックスが存在する」
この言葉をまともに、額面どおりに受け取ると、芸術を志向することと評価や才能は別であるということを意味しています。
『アキレスと亀』は芸術に心を捧げながらも評価は得られないという、表現を志したことをある人たちならば非常に「にくいところ」を突いている作品です。真知寿とその唯一の理解者である妻の苦悩が、哀しくも笑えるのは私たちが当人ではないからなのです。
それでも、真知寿はわれわれには「真の芸術家」にしかみえません。
彼には絵の才能や世渡りの才能がなかったかもしれませんが、芸術を求め、悩み続ける才能はあったのです。
そして、その生き様はわれわれにはまさにアーティストとして「描写」されたわけです。
『TAKESHIS`』の売れない役者、『監督・ばんざい!』の悩める監督、『アキレスと亀』の才能のない画家。
この北野三部作において彼ら(の才能のなさ)を描いた北野武は表現者として新たな視点を獲得し、『アウトレイジ』以降につながるエンタメ性(=売れる、というわかりやすい才能)を希求していくことになるのです。
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というわけで今回は北野作品まとめて二本取り上げてみました。これで北野武作品は最新作『龍三と七人の子分たち』を除き全てをレビューしました。
北野映画ランキングも作っていますので、興味があったら見てみてください!