映画版「進撃の巨人」後編 エンドオブザワールドの果てに/進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンドオブザワールド
各所から非難の嵐にあっている「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンドオブザワールド」について、果たして町山智浩氏は何をしたかったのか。
どんな壁が我々に立ちふさがったのかを考察・解説していきたいと思います。
前編がある映画の後編を語る時点で、ネバタレをしないでいるわけにはいきません。
そのため、ネタバレが気になる方は、後編をみてから記事をみていただくか、もう映画を見るかどうか決めかねている人は、記事を見ても楽しめると思いますので、かまわずご覧いただければと思います。
前編の感想・考察についてもありますので、ご覧になっていない方は是非みてみてください。
前後編に分ける必要があったのか。
映画版「進撃の巨人」は、もともと前・後編にわけないで1本の映画として考えられたものだったということが言われており、急遽二本立てになったという話です。
裏事情は裏事情として、後編は後編なりの意義が必ずあるはずだと思いながら見にいきました。
まずは、そんな前提を留意しながら、後編のあらすじを完全ネタバレで語ります。
巨人化したためにエレンは、魔女裁判のごとく尋問を受けるのですが、鎧の巨人によってさらわれてしまいます。
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残った仲間達は、不発弾を爆弾がわりに壁を壊す作戦を実行するため、巨人が遠くで日向ぼっこしているのを横目に作戦を遂行。
エレンは、シキシマからこの世界の真実を教えられます。そして、仲間と合流したとき、エレンとシキシマは仲たがい。
壁を壊すために不発弾を設置しますが、超大型巨人の出現し爆発させることができません。
巨人になったシキシマが、不発弾を超大型巨人ごと爆発させて、壁が壊れされ、エレンとミカサは、壁の向こう側の世界をはじめてみる。
これが、後編のすべてです。
一応、スタッフロールのあとに意味ありげな台詞がありますが、それは後ほど解説してまいります。
前編は、壁の穴をふさぐ作戦が失敗するところで物語は終わっています。
物語のつくりから言えば、壁の修復はさっさと終えて、本当の敵は巨人ではなく、人間だ、という風になるぐらいのテンポが必要なところです。
ですが、実際は前編の話を伸ばしに伸ばして、世界観については言葉で説明して終わってしまったような印象を受けます。
各所で言われていますが、前編と後編にしないで一つにまとめれば、見所もあり、物語的に首をひねるところがあっても、圧倒的な映像表現によって納得できていたことでしょう。
映画の後半30分が、80分になったと思っていただければ、そう大きくはずさないと思います。
兄弟対決 エレンVSシキシマ
とはいえ、見所がなかったわけではありません。
それは、後編から新たにほのめかされたシキシマの設定と対決シーンです。
前編では、物語の謎を知っていそうだったピエール瀧演じるソウダが物語開始30分のところでいきなり死にます。
「お前の、兄さんは…」
という謎めいた言葉を残して。
映画を見たかたならなんとなくわかると思いますが、エレンの父親は巨人に対する実験を行っていたという節があります。
ソウダが、前編で「組織がくっついちまう」と訳知り顔で言っていたことから考えても、そのことは否定できない事実です。
そして、草薙剛は「うえの子には・・・」という台詞をぼそぼそ言っていたので、エレンに兄がいたこと。
そして、シキシマが巨人に変身できるということを考えれば、シキシマがエレンの兄と考えるのは難しくないと思います。
劇場で購入できるパンフレットでも、町山智浩氏の解説の一説がありますので引用します。
エレンとシキシマが兄弟かも(?)という設定ですけれども、これはエレンと対決する巨人をどうするか、という会議をしている頃から、兄と戦うというアイデアがありました。
BY 進撃の巨人 ATTACK ON TITAN パンフレットより
兄と考える決定的な証拠は残念ながらありません。
ただ、かなりのアイデアが出され、そして使われなかったようなので、その名残が
シキシマとエレンの関係を、兄弟に思わせてしまうのかもしれません。
前編で、巨人化したエレンと巨人たちの対決が圧倒的な迫力で描かれました。
後編では、巨人たちはほとんどでてこないで、知性のある巨人同士の戦いがメインとなります。
豪快に土ぼこりがあがり、巨人を操りながら戦いあう姿は、スクリーンということもあって、非常に迫力があります。
巨人のデザインも非常に格好よく、アニメや漫画で描かれる巨人とは違い、ゴツゴツとして実に面白いデザインになっています。
その巨人が、巨大な鉄棒のようなものを道具にしてみたり、緻密なセットの中で行われる戦闘シーンはそれだけで見ものです。
また、巨人が壁を登るシーンなどは、それだけでかなりの予算を地味につかっているんじゃないかというのがわかったりで、目が離せないところです。
これは、実写映画ならではの迫力といえるでしょう。
特撮が好きな方は、物語などよりも、特撮的映像のおもしろさを見に行く、という点においては十分な勝ちがあるのではないでしょうか。
フード理論によると
さて、前回フード理論の説明をいたしましたが、一応、フード理論を意識したかのようなやり取りが後編でも行われています。
前編で、ジャガイモを踏んだ国村準演じるクバルが、実はラスボスだった、というフード理論での予想通りなものもありますし、
「誰だ、食べ物を粗末にするやつは」
とシキシマが怒るところは、ギャグテイストが入っているシーンも見ものです。
改めて、フード理論とは。
悪人は食べ物を粗末にする、という考えのもとに考えられるわけですが、今回、シキシマは、食欲の塊であるサシャに、リンゴを投げます。
あっさり受け取る、サシャ。
食べ物に貴賎はない、とばかりに食べるかと思いきや、サシャは食べませんでした。
これは、フード理論の応用ともいえる行為です。
悪人からの食べものは、たとえ食欲魔人であっても、食べたりはしない。
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単なる普通のキャラクターだったら、そりゃ、食べないわな、っていうので終わりますが、貧民出身で、常にハラペコという設定のサシャであれば、リンゴは誰からのものであっても食べたはずです。
ですが、そのサシャが、シキシマに向かってリンゴを投げ返すのです。
もっと象徴的に描かれてもいいところとは思いましたが、フード理論を応用した食べ物を通した気持ちのやり取りというのは、にやにやさせられること請け合いです。
大事なことだけシキシマは喋る。
シキシマがエレンと、白いシャツ(?)に着替えてシャンパンを飲むところで、世界のすべてが語られます。
そこで、進撃の巨人の世界が、未来の日本だったことが判明します。
前編のエントリーで、未来の日本かもしれません、と書いたわけですが、まぁ、当たっていたのですが、別にそれが物語りの根幹に関わっているかというとそうではないので、幾分期待はずれだった感じは否めません。
巨人化することは、一種のウイルスのようなものだったことがわかり、そのせいで、日本中、いや、世界中がその被害にあったことがわかります。
兵器として作られたものが暴走し、やがて、コンビニで女子高生が巨人になったり、外国人が巨人になったりと、物語の設定のはじまり、といえるべきものがわかります。
そして、壁が作られ、巨人の恐怖を利用して、人々を統治する人々が現れた。
それこそが、進撃の巨人の世界の現状だったのです。
シキシマは、その現状を打破するために、失楽園にでてくるルシファーの如く、レジスタンスの結成を宣言するのです。
「中の壁を壊す!」
その言い方は、「敵は本能寺にあり!」と叫ぶ明智光秀を感じさせるところです。
ですが、エレンへの説明不十分により、エレンはシキシマの意図をつかめず「多くの人が死ぬ。それは駄目だ!」と、兄弟対決に発展してしまうのは、兄と弟による見えるものの違いだったのかもしれません。
それまで、非常に知的だったはずのシキシマが、急におかしくなって大事なことをしゃべらなかったり、勘違いさせようとしていたとしか思えない言動であることを考えるなどは、拍子抜けで残念なところではあります。
エレンとミカサ
エレンに見捨てられた。
そして、シキシマによって大事なものを捨てろといわれたことで、エレンを遠ざけていたミカサですが、なぜかあっさり仲直りしています。
シキシマは、ミカサに無理やりキスをして、あっという間に心が離れてしまいます。
なぜ、シキシマをここまで愚鈍な悪人にしてしまったのかはわかりませんが、体制を転覆させようとするシキシマは、なぜか、主人公達に理解されないために、敵になってしまうというのは皮肉と以外の何者でもありません。
ミカサの心のよりどころとして、エレンにもらった赤いマフラーがあるのですが、それもずっとつけていた、だから、ずっと一緒だったよ、というほほえましい台詞がありますが、仲直りらしいエピソードもなかったので、そのあたりは割愛します。
最後に二人は、壁の向こう側を見ます。
そこには、廃墟となった東京の景色が広がっていて、アダムとイブが楽園から外にでる、ということを下敷きにした場面として、象徴的に描かれます。
ラストの台詞は一体なに?
物語の最後に
「驚いたな。第二実験区画から2名が脱出。予想外だよ。これだから面白い」
という台詞が、スタッフロールが終わったあとに流れます。
多くの人が、これで台無しだ、と酷評を裏付けるようなものとして書いているのを見かけますが、あっているかどうかは別として、私はこれは、続編の伏線ではなく、エレンたちが特別な存在ではない、ということを強調したいのではないかと考えました。
これを説明するためには、2007年にテレビ放送が開始され、映画もつくられた今石洋之監督「天元突破グレンラガン」を語ることで、理解を早めることができると思います。
「天元突破グレンラガン」は、エヴァンゲリオンで有名なアニメーション会社GAINAXによって作られたSFファンタジーロボットアニメです。
ガンメンと呼ばれるロボットにのる獣人たちが地上にいるため、地下で生活をする人々。
そこに、二人の男が地上に出て、世の中を変えていくというのが大まかな物語となっています。
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グレンラガンでは、タレ目で昔の兄貴分の象徴のような存在のカミナが、主人公である自信のない男の子シモンを唆して、どんどん無茶なことをやってのけるところが痛快です。
「地上に、天井はねえんだぞっ!」
といって、物語の冒頭で人々をたきつけます。
地下で獣人(実際は、獣人たちが起こす地震)におびえて暮らす人々を、カミナは散々ののしりますが、生まれてから一度も太陽をみたことがなく、天井に囲まれて暮らす人々の姿は、まさに壁の中で暮らす「進撃の巨人」の人々と重なります。
ただ、「天元突破グレンラガン」で違うのは、主人公は特別な存在として描かれてはいるのですが、それは多くの同じような人間たちもまた存在していたおかげだ、ということも繰り返し描かれていることです。
どういうことかといいますと、主人公たち以外にも同じように地上に出て闘った人たちはいた。
でも、そのほとんどは死んでしまって名前も残らないのです。
主人公達は地上で勝利しますが、さらに大きな敵が現れます。
それを倒すと、同じようにレジスタンス活動をしていた人間達がいたことがわかり、駆けつけてくれます。その中には、完全につぶされたレジスタンスもいたに違いありません。
さらに、そのあとには、別の星でも同じように戦っていた人たちが現れる。
自分達が成しとげたことは特別ではなく、同じような人たちが知らないところでも成し遂げていたこと。そして、自分達はたまたまうまくいったことの一つでしかない、ということがわかるのです。
自分達は確率の一つでしかない。
たまたまうまくいったから、生きている。でも、それ以上にうまくいかなくて死んでいった人たちもいる。
主人公のシモンがいることで、その駄目になった確率の一つにならなかったのが、主人公達のグループなのです。
最終回付近では、多くの無限とも思えるうまくいかなかった人たちのおかげで、主人公は、突破できなかったものをうちくずします。
今の話を留意していただいた上で、「進撃の巨人」の最後のシーンに戻ります。
「第二実験区画から脱出」
ということから、第一があったということがわかりますし、それ以上の実験区画があることも推定できます。
予想外とは言いながらも、それを面白がっていることから、他の実験区画でも逃げ出そうとした人間がいたのかもしれません。
エレンとミカサのように、たとえ壁の中で圧迫されて過ごしていたとしても、脱出する人間は必ずいる。それは、巨人の世界だろうが、どんな世界だろうが同じ。
自分達だって、その壁から外に飛び出すことができるんだ、ということを強調しようとした台詞が、謎の台詞の正体だったのだと思います。
町山智浩氏は、天元突破グレンラガンのアニメはみていないでしょうが、物語としてはよくある話の集合体でもあります。
町山智浩氏の映画論
町山智浩氏は、元気がないときは「ロッキー」「ショーシャンクの空に」をみたりするんだといいます。
それは、現実に我々の前に立ちふさがる壁を、どうすれば壊せるのかを見せてくれる存在だからです。
ロッキー・バルボアは、世界選手に名指しされて、絶対に負けると判っている試合でも、最後までKOされないことで、弱い人間でもどうやって闘えばいいのかを示してくれます。
また、ショーシャンクの空は、塀に囲まれた刑務所の中で、何か一つのことをこつこつやれば、必ず、突破口が開けるといったことを教えてくれる物語です。
町山先生が、進撃の巨人を通じて脚本にしようとしたのは、そういう現実の壁を打ち破れということなのだと、今までの町山智浩氏の映画批評からもわかります。
ただ、完成品をみた町山先生が「こんな風になったんだ」と驚いたということから、そうとう脚本と完成品の違いがあったのだと思います。
正直、進撃の巨人の後編は、出来がいいとはいえませんが、前編・後編を通してみたとき、町山先生がどういうシナリオにしていきたかったのか、その片鱗をみることができると思います。
たしかに賛否両論ある実写版「進撃の巨人」ですが、物語に込められたメッセージが少しでも、伝わりやすくなれば幸いです。
以上、「映画版「進撃の巨人」後編 エンドオブザワールドの果てに/進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンドオブザワールド」でした!!
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