シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

「進撃の巨人エンドオブザワールド」を見る前に/進撃の巨人 ATTACK ON TITAN

【チラシ付き、映画パンフレット】進撃の巨人 ATTACK ON TITAN  実写版 前編

  

前回、1万2千文字にわたる感想・考察を述べたわけですが、9月19日に公開が迫った「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンドオブザワールド」の予習として、ネタバレを存分にしながら解説や、後編がどうなるのかということを妄想していこうと思っています。

公開してしまえば、全然違っていました、ということにもなるとは思いますが、余興と思っていただければと思います。


また、ネタバレを極力避けて復習したい方は、前エントリーをご覧いただければ、エンドオブザワールドを見る前に思い出すことができると思います。

 

予習なんていいから、エンドオブザワールド本編のネタバレを知りたい、という方は以下のエントリーをご覧ください。

 

 

本エントリーでは、エンドオブザワールドを見る前に、改めてストーリーの気になる点や、キャラクター、そして映画にある象徴性について述べていきたいと思います。

あくまで、前後編の前編の話になりますから、本質的なネタバレはないですが、気になる方は気をつけてください。

 

ピエール瀧について

 

原作にはないオリジナルキャラクターとしてピエール瀧演じるソウダが、エレンたちを導くものとして存在しています。


原作にも似たような人はでてきますが、ソウダの場合は、エレンの母親との関係や、巨人化したエレンをみて、「このままじゃ組織がくっついちまう、助け出すんだ」とか、知ったようなことを言っているので、物語の根幹を知る一人となる重要なキャラクターと思われます。


壁を破られたとき、巨人に対して何も対応することができなかったため、自信をなくしたソウダは、アルコール中毒状態になってしまっています。

 

しかし、いつの間にか壁補修作戦に参加していて、アルコール依存の影響は感じさせず、しまいには「この門をくぐるもの、一切の希望を捨てよ」と、意味ありげな台詞を吐く始末です。


パンフレット等にも書いてありましたが、監督である樋口真嗣は49歳。その他メインスタッフは、おしなべていい年齢の人たちです。

そのため、今の若い人たちの気持ちが汲み取れないというところで悩んだそうです。

ピエール瀧演じるソウダは、おそらく、若者たちの気持ちを汲み取り、導こうとする大人たちの代表として、後編では描かれるのではないかと思います。

 

フード理論によると

 

イキナリですが、フード理論とは、お菓子研究家の福田里香さんが提唱した理論で、「悪人というのは、食べ物を粗末にする」という基本理念のもと、次々と物語で登場する悪人達の本質を暴いていくというものです。

もとは、ライムスター宇多丸の番組で、福田里香先生が登場したときにでてきた話が盛り上がって形作られたものだそうですが、この理論を駆使することによって、たしかに、その通りだよなぁ、ということがあるので参考になります。


食べ物を粗末にするものは悪人で、食べ物を粗末にする人間は必ず報いを受ける。

 

というのは、生理的にも納得できそうです。食べ物を粗末にする人と一緒にいたいと思う人は、そう多くないでしょう。

 

 

さて、フード理論の詳しい内容は、著作を参考にしていただくとして、フード理論を駆使してわかるのが、国村準演じるクバルの存在です。

 

映画内では、憲兵団の主管と呼ばれる立場であり、なんだかえらそうな人です。


この人が、アルミンがサシャにあげたじゃがいもを踏みつぶします。

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これを見た瞬間、さきほどのフード理論がフラッシュバックし、間違いなく悪い奴だとわかるのです。

 

余談ですが、よい映画というのは、その世界の中にキャラクターがたしかに生きているということが納得できるものがいい映画と言われています。

そんな人物はたしかにいない。でも、映画の中の、その世界にはたしかに生きていると感じさせるもの。

国村準は、ベテランなだけあって、進撃の巨人の世界にあっても、まったく違和感なく演じています。

「心臓を捧げよ!」という台詞も、国村準以外の人が言っていたら、慣れるまで違和感をぬぐえなかったかもしれません。

象徴の使い方


映画評論家である町山智浩氏が参画しているだけあって、映画の象徴性というのがかなり強い作品なのが、映画版の「進撃の巨人ATTACK ON TITAN」です。

 

シキシマがりんごを見せびらかせて、ミカサに食べさせるシーンについては、前エントリーで書いたとおりです。

 

また、ミカサが冒頭では、真っ白な服を着て登場するのも象徴となっています。

穢れなき存在として強調させるために、冒頭では真っ白な服に身をまとい、巨人に襲われた後は、制服があるせいとはいえ、白い色は身につけず、黒っぽい格好になっているのは、彼女自身の純真さが汚されたことの象徴でしょう。


ただし、立体機動の燃料がなくなって心が折れかけたときに、エレンからもらった赤いマフラーをもっていること、これがぼろぼろになりながらも彼女の手にあるということが、彼女のもつエレンへの気持ちそのものの象徴になっていることも印象的です。


また、冒頭で描かれる不発弾。

 

これもまた、壁の中でかわりもの扱いされ、どうにも居場所を見つけられないエレンそのものの象徴にもなっていると思われます。

おそらく、後編では、爆発できなかった不発弾が爆発する、っていうところは入れてくれるでしょう。もし、そうであれば、それは、エレン自身の抑圧されていたものの爆発を象徴になるものと思われます。

 

もう一人の悪魔、ヒアナ。

 

進撃の巨人をみていて、巨人に肩入れしてしまいたくなるシーンがあります。


本当であれば、劇中のキャラクターたちのように憎むべき巨人、絶対倒すぞーという気分になるのが本当なのでしょうが、おそらく、意図的に巨人に対して応援ないしは、よくやったとほめてやりたくなる場面です。

 

いちゃいちゃするカップルを食ってしまうシーンもそうですが、一番は、ヒアナがエレンに言い寄るシーンでしょう。


ミカサをシキシマにとられたと思ったエレンは、巨人たちがいつ来るともわからない臨戦態勢にも関わらず、大声で叫ぼうとします。

 

「また巨人を呼ぶ気?」


と、失意のエレンに近寄ります。

場所を移動すると、その先では、カップルが戦いの前にいちゃいちゃしているところに出くわします。

 

いつ死ぬかもしれないという状況の中で、男女のカップルが行為に及んでしまうのは本能としてやむえないことです。

ちょっと露骨に描かれてしまって、気まずい気分になるのですが、その行為をみたヒアナが、スイッチが入ってしまいエレンに言い寄るのです。


「子供の父親になって」


それまで、可能性すら考えていなかったのですが、ヒアナが子持ちだということが発覚します(劇中のエレンはそういえばそうだったねとあっさりでした)。

しかも、エレンの手を自分の胸に当てさせて。


ミカサをとられ、いつ死ぬともわからない中、目の前では別のカップルが行為に及んでいる。

この状態で、なし崩し的にヒアナに関係を迫られるのです。


シキシマ以外にも、悪魔(メフィストフェレス)がいた! と思わされるシーンです。

 

ここで唇をヒアナに奪われれば、真面目なエレンは彼女に対してなんらかの責任を負うことになる。


ずるい。

 

けど、その状況にあるエレンは、半分思考停止状態で、絶体絶命。どうしたら、エレンはヒアナとの関係を保ちながら、闘うことができるのか。それは無理なのか。

 

そんなとき、巨人の目がぎょろりとエレンたちに向くのです。

 

このときばかりは、巨人を褒めたくなりましたね。

 

巨人はたしかに、人類を捕食する存在ですが、それ自体が悪いものではないのです。原作者の諌山創もまた、巨人を恐ろしいものとして描かないで欲しいというのは、何度も監督に伝えたそうです。

 

巨人は、そこに食料があるから食べる。
そういうものだということです。

 

だから、巨人に対して肩入れしてしまっても別にいいのです。


これからミカサのことや巨人との戦いがあるのに、なし崩し的にヒアナに足をひっぱられるというのを回避したという点で、このときばかりは、よくやったと思ってしまいましたね。

っというよりは、これは定番です。男女がそういうことをいざするというタイミングで、怪物がでてきて邪魔をする。

 

これが、ホラー映画の意識をしっかり継いでいるのがわかるシーンでもあります。

 

これは、恋愛映画とかじゃなく、恋愛は添え物なんだ、ということが判るところです。

まぁ、本当に添え物的ですね。

 

赤ちゃん巨人

 

シナリオ的に違和感を感じる人が多いと思われるところがあります。


それは、闇夜にまぎれて、壁の補修に必要な火薬をとりにいこうと主人公たちが廃墟の中を進むシーンです。


ミーティングの時に、石原さとみ演じるハンジが

「巨人達は音に敏感だ。叫ぶぐらいだったら、舌をかめ!!」

ときつく注意をします。この世界がどれほど厳しいものかわかるところです。


ましてや、新米とはいえ、主人公達は戦闘訓練を受けたもの達。

 

にも関わらず、ヒアナとエレンは、二人して隊を離れて行動します。

どうしてだよ、と思うところですが、さきほどの、ヒアナが子持ちだったという事実を考えると、突飛な行動ともいえなくなります。


「赤ちゃんの泣き声がしたの。逃げ遅れた人かも」


そういってヒアナが建物の奥に入っていき、エレンもそれに続く。

壁が壊されてから数年経っているのに、赤ん坊が生きているはずがないのですが、なぜ彼らが進んでいくのか。

 

それは、罪悪感です。


ヒアナは、子供の養育費のために戦地へ行った。

彼女は置いてきた子供に対してかなりの罪悪感を抱いているはずです。そして、置いてきた子供が一人とは限りません。壁が壊されたときにも、赤ん坊だった子供を置いていったかもしれない。そうでなければ、泣き声に過敏に反応するとは考えずらいからです。

 

では、エレンはなぜついていくのか。

それは、この時点では、赤ん坊を抱いたミカサが生きているのか、死んでいるのかわからなかったからです。

助けられなかった赤ん坊とミカサの存在が、「生き残りかもしれない」というヒアナの言葉で思い出され、罪悪感と共にありえない判断を下したのです。


その結果、赤子の巨人というとんでもないオリジナル巨人に出くわすということになるのですが、すべては彼らの罪悪感が試された結果といえるでしょう。

 

後編を楽しむために


っととりとめもなく、書いてまいりましたが、象徴性というものがかなりつよい映画になっています。

ミルトンの失楽園をはじめ、キリスト教をベースにした物語構成が強いものになっていることは、町山智浩氏の影響が大きいでしょう。

 

映画は象徴性を考えなくても面白く見ることができますが、象徴性がみえるとより物語は理解しやすくなりますし、余計なことを考えることができます。

 

そのため、後編をみるときには、どういう象徴になっているのか、ということを考えてみていくと、より楽しめるかも、知れません。

 

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 エンドオブザワールドをみた感想・考察もありますので、興味のある方は是非どうぞ。

cinematoblog.hatenablog.com

 

 

 

 

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