シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

誰だって孤独は辛い。ネットフリックス「二人のローマ教皇」

ローマ教皇史 (ちくま学芸文庫)

ネットフリックス資本・配信による良質な映画がでてきている昨今ですが、アカデミー賞ノミネートもされた本作品について、どんな作品なのかを含めて解説&感想を述べてみたいと思います。

本作品をまだ見ていない人で、見れる環境にある人については、「宗教色が強い映画はよくわからない」といった人もいるかとは思いますが、そのような先入観なしにみても面白い作品となっています。

スポンザードリンク

?

 

コンクラーベ

とはいえ、本作品は、キリスト教における最高の役職である教皇の物語となっておりますので、随所に知らないと入っていけないような事柄もありますので、そのあたりも含めて記述していきます。

まず、コンクラーベですが、これは、教皇が亡くなった後に行われる教皇選びの選挙だと思っていただければいいと思います。

ローマ教皇は、キリスト教における絶対的なスターであり、ロックスターを桁違いに大きくしたような存在と思っていただければ、その人気度も想像してもらえるのではないでしょうか。

 

本作品の面白さの一つとして、外部の人間がわからないようなことが細かく描かれているところも魅力です。

コンクラーベを知っている人は多いとは思います。

選挙の結果黒い煙がでればもう一度選挙を行い、白い煙がでれば教皇が決まった、とわかるのですが、その煙はどうやってだしているのかを映像にしていたりします。

また、選挙の仕方も現代の我々からみると非常に非合理であり、これは時間もかかるわけだ、と思わせるところですが、その伝統的なやり方を知ることができる、という点も面白いです。

二人の教皇

ロックスターは複数人いても問題ありませんが、キリスト教における最大の権力者が複数人いては困ります。

本作品は、「羊たちの沈黙」でハンニバル・レクター博士を演じたアンソニー・ホプキンズが、ベネディクト16世を演じ、「未来世紀ブラジル」で主演したジョナサン・プライスが次の教皇となるベルゴリオ枢機卿を演じています。


本作品は、タイトルからなんとなく考えてみると、教皇となった二人の友情物語なんだろう、と思うでしょうが、たんなるデコボコな二人の友情もの、というわけではなく、キリスト教の話だけではないもっと本質的な話をしている作品となっています。

 

ベルゴリオ枢機卿

ジョナサン・プライス演じるベルゴリオ枢機卿は、非常にフランクな人物です。

ブエノスアイレスで大勢の信者の前で、聖フランチェスコの話をします。

 

「教会をたてなおせ」と神からのお告げを聞いたフランチェスコが、建物を直したというエピソードを語るのですが、そのユーモア溢れる話は面白いです。

たとえ間違っていたとしても、神は見捨てないという愛を解きつつ、わかりやすい説法にするというところから、ベルゴリオ枢機卿の人柄がわかりますし、彼は、サッカー好きだったりして、他の聖職者とは異なり、世俗的な気持ちもよくわかる人です。

対して、アンソニーホプキンズ演じるベネディクト16世は、保守派の人間であり、ビートルズすら名前しか知らないといった方です。

 

赦しの物語

さて、内容的には、保守派の男と、進歩派の男が出会うことで、友情を深め、ベルゴリオ枢機卿教皇になる、というのが大筋ですので、大枠についてはこの際省いていきたいと思います。


本作品での魅力は、キリスト教における本質をよく描いているところです。

キリスト教の基本にあるのは赦しです。

告解と呼ばれる、罪を告白するということがどういうことなのか、ということを描いているところが本作の見どころです。

教皇にしても、ベルゴリオ枢機卿にしても、一般信者からすればはるか雲の上の人物であり、悩みとかないだろうと思ってしまうのが人情だと思います。


しかし、教皇となったベネディクト16世ですら、ベルゴリオ枢機卿に告解を行うのです。

最高の地位にある人物ですらそうなのです。

ちなみに、ベネディクト16世が在位しているときには、キリスト教における非常に根深い問題が露出したときでもあります。

関連映画

作中でも話題にでますが、聖職者による児童への虐待が問題となりました。

このあたりの詳しい内容については、アカデミー賞をとった「スポットライト 世紀のスクープ」をご覧いただければと思います。

 

cinematoblog.hatenablog.com

聖職者としての自分の立場を利用し、明らかに立場の弱い信徒たちを手籠めにした神父が、罰せられることなくほかの教会に次々と異動になるだけ、という事実が発覚した事件となっています。

 

「二人のローマ教皇」では、その神父の異動について許可したのは、ベネディクト16世だったということがわかり、本人もそのことに気づくことができなかった罪悪感をもって告白をするのです。

また、若いころは聞こえていた神の声が、今は聞こえないとベネディクト16世は言います。

「神の存在を感じないし。声も聞こえない。神を信じ祈ってきたが、沈黙だ!」

神がなぜ自分を助けてくれないのか。

なぜ、声をかけてくれないのか。

そういった問題については、マーティン・スコセッシ監督による「サイレンス 沈黙」を見れば、大きく理解度が増すところです。


宗教弾圧を受け、壮絶な死を重ねながらも信仰をやめない人たちと、それを見て苦悩する神父(パーデレ)が、神がなぜ沈黙するのかに気づく物語となっています。

 

cinematoblog.hatenablog.com

「二人のローマ教皇」の中でも、そのあたりの解答が示されているといってもいいでしょう。

少なくとも、彼らは、神の声を聞き、身近に神の存在を感じていた人たちなのです。

神おち

神が何を考えているのかはわかりはしませんが、神の啓示については、様々な形で示されています。


グレゴリオ枢機卿は、神父になりたかったものの、神の声がきこえないことから、一般信徒のまま終えるつもりでいました。

特に恋人と出会って、結婚を決めたことで、その思いをあきらめようとしたところで、ふと教会に立ち寄ります。


そこには、たまたま神父がいて、懺悔していけというのです。

その神父は言います。

「君の祈りは届いた。私は病人なんだ。がんを患っている。白血病だ。告解を聞くようお告げがあったんだ。待ちくたびれていたら君が現れた。きっと神が私たちを導いたんだ。神はすべてお見通しだ」

このセリフだけ聞くと、なんてオカルトじみた話だと思うかもしれませんが、神の意図としか思えないと当人たちは思っている出来事によって、様々な啓示をもたらしてくれることも描いています。

 

でも、そんな人たちでも迷うし後悔します。

そして、先ほども書いた通り、どんなに人は偉くなったとしても、悩み苦しみ、誰かに赦しを与えてほしいと思っている。

 

二人の教皇はお互いに赦しを与えます。

本作品はキリスト教の本質的な物語であると同時に、人というのがいかに一人では生きていけないかを教えてくれるものであり、人生にまわりみちといったものがないことを教えてくれる作品となっています。

彼らは、聖書の言葉や現象を用いて人々を導いていきますが、その言葉が彼らが迷ったときにも、その言葉はそのまま返ってきます。

どんな過ちがあったとしても、神は赦しを与えてくれる。

冒頭の、グレゴリオ枢機卿の言葉が再び蘇ります。

「どんなに長い旅路も最初に一歩からすべてが始まります。失敗から素晴らしい旅がはじまることもある。だから、道に迷っていても、心配しなくていいのです。神は、見捨てません」


動画配信が爆発的に広がっている昨今において、自分は古いほうの人間ですので、ついついオールドメディアのことも気になってしまうのですが、それでも、ネットフリックスのような配信サービスの資本で、このような作品がでてくるのは、たいしたものだな、と思ってしまったりするのです。

以上、誰だって孤独はつらい。ネットフリックス「二人のローマ教皇」でした!

 

スポンサードリンク