格差とコメディ。感想&解説「パラサイト 半地下の家族」
アカデミー賞作品賞を、非英語作品ではじめて受賞した作品「パラサイト 半地下の家族」。
監督であるポン・ジュノは、「グエムル 漢江の怪物」で怪物相手に戦う家族を描き、「母なる証明」では、知的障害を持つ息子を守る母親を描いた、韓国を代表する人物の一人です。
貧困による格差を描いている、とされて知られる本作品ですが、そこに含まれる単なる貧困格差だけではない部分について、感想と解説を加えてみたいと思います。
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半地下に住む
主人公たち一家4人は、貧乏です。
タイトルの通り半地下の家に住み、全員が無職。
ピザ屋の箱づくりの内職で食いついないでおり、スマートフォンも無料WI-FIなしには、まともに扱えない状況です。
このWI-FIを探す、という行為によって家族の貧困さがわかる、共感できる、という点は非常に現代的な演出となっていて面白いです。
貧困の人々と、そうではない人々の差というのは、実はそんなに絶対的なものではなくなってきています。
お金持ちがもっているスマートフォンも、お金がない人がもっているスマートフォンも、同じものです。
手に入れるタイミングが遅いか早いか、程度の差でしかありません。
お金持ちだからといって、お金持ち専用のスマートフォンがあるわけではありません。現代においては、お金持ちであることと、そうでないものの物質的な差というのは、わかりづらくなっているのが実情でしょう。
しかし、貧富の差、というのは間違いなく存在していて、その格差はより広がっています。
「パラサイト 半地下の家族」では、その貧富の差を、映像で見せているところが革新的です。
金持ちは上、貧乏人は下
突然ですが、宮崎駿監督アニメで指摘される事柄で、「天空の城 ラピュタ」にしても、他作品にしても、下から上に上がっていく、という演出がとられています。
地下でポムじいさんに出会ったパズーは、天空にあるラピュタで決戦を迎えます。
「パラサイト 半地下の家族」では、金持ちは坂の上に住んでいて、主人公たちキム一家は、どこまでも地下におりていった半地下に住んでいるのです。
ビジュアル的にその差を見せるというところの面白さと、実は、キム一家が、なぜ貧乏であるかどうかという点は、わずかな差しかない、というところが、本作品では、たんなる貧困層を映し出した作品とは違うものになっています。
貧しいけれど楽しい一家
物語のさわりだけで考えると、少し勘違いしそうなところがあります。
いわゆる貧乏な人というのは、父親が甲斐性なしで、お金遣いがあらかったり、欲求に逆らえない節操のない人だから、というのがよくあるイメージではないでしょうか。
つまり、何か人間的な問題があるから、貧乏なのだ、というイメージです。
ですが、本作品をみていると、父ギテクは、子供たちにも好かれていますし、息子に演技指導をされているときも、父親らしい高圧的な態度をとることがありません。
一家の長ではあるでしょうが、偉ぶって家族に疎まれたりはしていないのです。
この家族は、本当に仲がいいのです。
では、キム一家と、丘の上に住む超金持ちであるパク氏とは、何が違うのでしょうか。
貧富の差は紙一重
息子であるギウは、何年も大学受験に失敗していましたが、能力的には抜群に高い青年です。
お金持ちであるパク氏の娘ダヘの家庭教師になったのはいいですが、圧倒的な人心掌握術をつかって、高校生であるダヘの気持ちを虜にしてしまいます。
たんなる詐欺師家族なのか、と思ったりするところですが、彼らは圧倒的な実力をもっていることがわかってきます。
ギジョンもまた、美大を目指しながらも落ち続け、書類偽造などの技術力については抜群です。
ソン・ガンホ演じるギテクもまた、運転手としての実力もあり、お金持ちを乗せて高級車にのっていても、違和感を感じさせません。
妻であるチュンスクもまた、元ハンマー投げの選手であり、家政婦としてパク一家にまぎれこんでも問題ない実力をもっています。
彼らは、能力がなくて貧乏なのではなく、能力があるのに貧乏な一家なのです。
「台湾カステラの店で失敗しなければ」
のちにでてくる人物も同じことをつぶやいていますが、ギテクは台湾カステラ屋を選びましたが、パク氏はITを選んだにすぎません。
そこも含めて商才なのだ、といってしまえばそれまでですが、だからといって、そこまで貧富の差がつくとは思えないのです。
寄生する家族
「金持ちだから、素直で純粋なんだ」
パク氏の家で、家族全員が酒盛りをしているときにそんな会話になります。
素直だから金持ちなのではなく、金持ちだから純粋だ、というのは納得のいくセリフではないでしょうか。
半地下に住んでいて、酔っ払いがトイレ代わりに路上に用を足してしまう人たちと、丘の上できれいで広い家で暮らすのでは、たしかに人間的な差がでてきてしまうのも、仕方のないことでしょう。
ただ、能力的には問題ないキム一家は、色々な手をつかってパク氏に取り入っていく姿は、わくわくさせられるところです。
物語の前半は、いかにして裕福な家族をだまして、入り込んでいくがメインになります。
そうして、家ごと乗っ取ってしまう話なのかと思いきや、彼らは、パク氏から高い給料をもらって、それで嬉しそうにしています。
「俺は、ダヘと結婚する。偽の両親を結婚式に呼ぶんだ」
と、ありえないようにも思える未来について語るのです。つまり、そこに、パク氏をのっとろうとする意識は感じられません。
どちらかというと、ジブリアニメ「借りぐらしのアリエッティ」のような雰囲気すら感じるところです。
金持ちの地下
「地下室に忘れ物をしたので、家に入れてください」
そんな、キム一家の状況が変わります。
コメディとスパイ映画のような面白さをもっていた本作品は、突然ホラーとサスペンス映画に変わります。
以前、パク氏の家政婦をやっていて、キム一家によって辞めさせられたムングァン。
彼女の欠点は、モモアレルギーである点と、ご飯を二人前食べること、と言われています。
意味の分からない設定だな、と思ってしまうところですが、しっかり伏線になっているところが面白かったです。
ここからネタバレ
ここからは、ネタバレになりますので、本作品をみてからご覧ください。
さて。
地下室には、ムングァンの夫グンゼがかくまわれていました。
彼女は、二人分食べていたのではなく、夫に食料を提供していたにすぎなかったのです。
借金取りに追われて、なんとか地下で隠れて生活していたグンゼ。
正直言って、かなり辛い生活なはずです。
ですが、
「偉大なるパク社長」
と叫んでは、地下室から家の明かりを操作して、自動点灯したかのように演出するのです。
金持ちに寄生させてもらっている。
圧倒的なまでに卑屈なグンゼ。
そこに疑いの気持ちなどなさそうに思えます。
金持ちであるパク氏たちは結局何もしらず、地下では、貧困とはまた違う存在が足元にいる状態で生活していたということが示されます。
貧乏人の心知らず
大雨によって、地下に住む人たちが避難することになります。
キム一家の家もまた水没。一家は、どこかの体育館で生活しますが、そんな非常事態の中、電話がかかってきます。
「ダソンの誕生日会をするから、来てくれないかしら」
丘の上に住んでいる彼らは、キム一家を含む貧困層の人々がどんなに大変な目にあっても気づきもしません。
大雨が降ったことに対しても
「雨が降ったあとは、PM2.5が少なくていいわ」
と言う始末です。
ギテクは、そういう金持ちたちの言葉を聞いています。
そうして違和感を感じながらも、お金ももらえるしそれほど気にしないようにしていますが、ある事件をきっかけに、変貌してしまいます。
残虐の中で。
グンセは、キム一家を殺そうとします。
ギウは殴られ、ギジョンは刺され、チュンスクもまた危なく刺されそうになりながら、反撃します。
こんな殺人鬼が現れて、場が騒然となっている中、家主であるパク氏は、ギテクに対して、逃げるから車のカギをよこせ、というのです。
変質者が現れたわけですから、逃げるのは当然ですが、目の前で人が刺されているのですから、もっと大事なことはあるはずです。
グンゼと地面の間に車のカギが挟まってしまい、パク氏は、地下に住むもの独特の匂いに嫌悪した様子をみせ、それでも車のカギを取っていきます。
その姿をみて、ギテクは、ナイフでパク氏を刺してしまうのです。
刺してしまう心境は、良くも悪くも共感してしまうところです。
パク一家とキム一家は、貧富の差こそあっても、同じ人間です。
ですが、ことあるごとに、パク氏は「あの匂いが苦手だ」といってみたりして、はっきりと貧乏人が嫌いだ、とはいいませんが、その差別的な感覚は十分に伝わってきます。
グンゼは、理由こそよくわかりませんが、「パク社長、万歳」といって慕っています。
そんなこと、パク氏には関係ないかもしれませんし、当然の反応なのかもしれませんが、今までの積み重ねを含めて、パク氏の行動は、腹が立つ、というか、こりゃ、ナイフを刺すしかない、と思わせるのに十分すぎるもののように思えるのです。
ギテクには、憎しみはなかったでしょうが、半地下で生活するものの代弁者として、世の中の矛盾を含めて、こんな男を生かしておいてはいけない、と思ったに違いありません。
そのニュアンスのうまさこそが、貧富の差をコメディとして笑いとばしながら、我々のすぐ後ろに迫ってきている貧困問題を感じさせる凄さではないでしょうか。
関連映画
はからずも、同じ時代に同じ雰囲気の映画があるように思います。
それは、ホワキン・フェニックス主演「ジョーカー」です。
知能の遅滞がみられる主人公のアーサーは、ピエロを仕事としています。
ですが、まわりからはバカにされており、笑わせたいはずの彼は、笑われることでストレスを感じています。
仲間もおらず、母親からは束縛を受けて抑圧された生活を送っていた彼は、殺人によってジョーカーという象徴になっていく、という物語になっています。
本作品は、普通の人よりも劣ってしまっている人が、普通の人々に対して起こす反乱のようなものとなっています。ここには貧富の差も当然ありますが、決して笑えるような内容にはなっていません。
一方、「パラサイト 半地下の家族」は、普通の人たちであるにも関わらず、金持ちによって使われ、ないがしろにされている。そんな状況を笑いながら、それでも、その理不尽にナイフを掲げる物語になっているからこそ、見る者にひっかかりを残してくれるのではないでしょうか。
世界的な貧富の差はより拡大しているように思えますが、それはやはり目に見えるものではありません。
ですが、そんな目に見えないものを、目に見える形で表現している「パラサイト 半地下の家族」は、今の時代だからこそ、見ておくべき作品になっているのではないでしょうか。