原作とアニメの演出の違い。京都アニ「氷菓」感想&解説
京都アニメーション制作アニメ「氷菓」についての感想となります。
米澤穂信の描く原作そのものが面白いのもあるのですが、今回は、アニメーションとなった「氷菓」が、より面白く演出されている点について、語ってみたいと思います。
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米澤穂信とは
米澤穂信といえば、日常系の謎を取り扱ったミステリを数多く輩出している作家であり、特に「小市民シリーズ」では、いかに小市民であろうとするかを考える小鳩くんと、小佐内さんによる「春季限定いちごタルト事件」をはじめとした作品は、タイトルの時点で魅力に感じる人もいるのではないでしょうか。
ミステリーといえば、「名探偵コナン」や「金田一少年の事件簿」、ちょっと、古すぎますか。「美食探偵」にしても「探偵はBARにいる」にしても、だいたい人が死んだりします。
人が死ぬ、という事実は、それだけでドラマになりますし、その死が謎であれば謎であるほど、解き明かされたときのカタルシスはすばらしいものとなります。
ですが、北村薫からハッキリとしてくる日常の謎を取り扱った作品もまた存在しており、米澤穂信という人物は、それらの系譜の中でははずせない人物でもあります。
そんな人物が描いた「氷菓」のアニメ化となれば、それは、どんな話になってしまうのだろうかと思うところです。
そもそも、「犯人はお前だ!」みたいな見せ場が発生するような話ではないので、アニメ向きか、と言われると難しく考えてしまうところでした。
さて、ここからは「氷菓」という作品をある程度知っている方、知っている人で、アニメをみていない人であれば、間違いなくみてほしい、という部分について語ります。
原作とアニメで何が違うか
京都アニメーションは、原作を原作のままに映像化する、という点で評価されることが多いとされています。
原作を改変することは手法の一つだと思いますし、かつての、アニメや映画であれば、もう原型をとどめないぐらいに作り変えられてしまった作品も数多くありますから、一概な判断はできませんが、「氷菓」については、まさに原作通りです。
ですが、原作通りなのに、受ける印象は全然違います。
アニメオリジナルの部分(11、5話)などもありますし、順番の入れ替え等もあったりしますが、基本的には原作のとおりに物事が進んでいるのですが、回を重ねるごとに、その構成の見事さに目を惹かれました。
主人公である折木奉太郎は、「やらなくていいことはやらない。やらなければいけないことは手短に」を信条に、何事に対しても省エネを貫く男です。
そんな男が、千反田えるという女生徒と出会うことで、日常における謎を解かざるえなくなっていく、というのが大きな流れになっています。
そこに加えて、自らを「データーベースは結論をだせない」と言っている福部里志。
いずれにしても、みんなある程度の信念をもっていきていることがわかります。
原作においても、その役どころにかわりはありませんし、アニメの中でも、その基本的な人格には影響はないのです。
しかし、アニメーションになった「氷菓」が、その感情のゆらめきがハッキリと表現されているのが特徴です。
愚者のエンドロール
「氷菓」は「古典部シリーズ」の第一作のタイトルとなっており、二作目は「愚者のエンドロール」、続いて「クドリャフカの順番」と続いていきます。
アニメでは、それに「遠回りする雛」と「いまさら翼といわれても」におけるエピソード、原作者自身のプロットによるオリジナルも加えながらつくられているのですが、物語のテーマや事件との一致が、アニメについてはより一層うまくつくられていることに驚きます。
ちなみに、ここからは、ネタバレになりますので、必ず、一度はアニメをみてからご覧いただいたほうがよいかと思いますのでご注意願います。
たとえば、「愚者のエンドロール」(8~11話)での話。
主人公たちは、女帝と呼ばれる入須冬美にうまくのせられて、ミステリ映画の結末について推理させられてしまいます。
折木奉太郎という男は、省エネ主義ということもありますが、自分自身の才能について無頓着です。
まわりの人間は、その主人公の異才に気づいてはいますが、本人はかたくなにそのことを認めません。
「理屈と膏薬は何にでもくっつく」と言って、自分の能力への過大評価を否定するために推理をはじめるといったエピソードもあるぐらいです(19話)。
ですが、折木は、入須冬美に文字通りそそのかされて、自分自身の才能について考えさせられます。
特別ではないと思っていた自分が特別であると気づいてしまい、いつもの自分と違うことをしてしまう、という一連の話し合いを、原作とは違って、高級なお茶屋さんで行うことで、特別館をさらに演出する構成です。
場所を変えただけで、セリフなどはほぼ同じ。
しかし、特別な人に認められていると思わされることで、一人の人間が狂ってしまう瞬間を描いています。
その結果、折木は間違った推理をしてしまい、優しい仲間たちから、ボタンでもかけちがってしまったかのように、違和感をもちながら疎外感を覚えるのです。
矮小化して言ってしまえば「お前はやればできる、と言われてやってみたら、なにやってんだよ、と逆に一歩引かれてしまった」といったところでしょうか。
空回りしているのに本人だけ気づいていない、といった表現でも近いかもしれません。
結果として、折木は立ち直るわけですが、そのあたりの追加エピソードは11.5話にあったりするのがにくいところです。
クドリャフカの順番
クドリャフカの順番(12話~17話)は、学園祭で、つくりすぎてしまった部誌をどうやって完売させるのか、という点を主題に、部活からものが盗まれる十文字事件を追っていく、というストーリーになっています。
これらの話では、今までデータベースとしての役割に徹していたはずのに福部里志が、自分の役割に対しての、不満であるとか、自分自身が特別ではないということを認められない屈折した思いがみてとれる話に演出されています。
千反田えるにしても、福部里志にしても、伊原摩耶花にしても、それぞれが、今までのキャラクターに合わないことをして苦しんでいる、という演出がポイントです。
もちろん、原作でも同様なのですが、それぞれの表情や動きから、それがより一層シャープに表現されています。
また、才能についての話でもあり、事件が発生した原因でもある「夕べには骸に」という作品に端を発した、期待や嫉妬について取り扱った作品となっているのも見事です。
原作にもたしかに書いてはあります。
しかしながら、演出だけでこれほど見え方がかわるのか、という点において、出色の話だといえるでしょう。
自分が事件を解けなかったことや、犯人をつかまえるために張り込んでいたにも関わらず折木に指摘されて怒るシーンなど、原作ではあっさりした書き方です。
ですが、アニメでは、言葉こそあっさりしていても、態度で、なんで自分は特別な存在になれないんだ、という焦りとあきらめが混在しているのがわかります。
ただ、折木という存在をしらない、囲碁部の谷くんから、ライバル氏されてしまったことで、自分が主人公になりたかったけれど諦めたというその現実を含めて、つい動きたくなってしまった、という点も、見逃せません。
ちなみに、16話での連絡通路での会話もまた秀逸です。
福部里志は、犯人を行動力でとらえようとしましたが、結局、犯人をつかまえることができず焦ります。しかし、折木は、犯人をいつもののらりくらりとした態度でみつけようとします。
「つながりもミスも見つけず、犯人を特定しようっていうのかい。どうやってさ」
あまり熱くならないはずの彼が、踏み込んで聞いてくる様は、異様です。
「まぁ、犯人がどうというわけじゃない。すこし考えをまとめたいんだ」
「ふーん、聞かせてよ。奉太郎」
セリフだけではたいしたことありませんが、演出では、あきらかに表情のこわばりや、今まで積み重ねてきた福部というキャラクターとは違う雰囲気であることがわかります。
色々な感情を飲み込み、自分の役割に徹しようと抑え込んで、「ふーん、聞かせてよ」という声の変化は、声優の見事さもありますが、原作にはない心の動きがしっかりと読み取れます。
「期待してるよ、奉太郎」
薄暗い場所から、明るい場所に立っている奉太郎に向かってつぶやく。苦々しい顔で言う表情もまた、映像表現ならではでしょう。
クドリャフカの順番では、それぞれがキャラクターの才能(または、信条)に合わないことをしているということが面白い点です。
そして、自分に才能があるにも関わらず、それに価値を感じないでいる存在へのいら立ちと、期待。
事件そのものもまた、そういった個人的な感情から発露したものであると同時に、キャラクターたちそのものの葛藤とも重ね合わせてみることができる、という点でも、すさまじい構成のうまさといえるでしょう。
しかも、セリフではなく、表情やしぐさでわかるところが素晴らしい。
そして、それが、才能あるものによって見事に解決されてしまうというところも含めて。
結果として、原作よりもはるかに重たい内容になっていたりします。
もちろん、原作と内容はかわっていないにもかかわらずです。
京都アニメーションの作品は、ヴァイオレットエヴァーガーデンでも、そうでしたが、原作から意図を汲み取って濃縮することに長けている作品が多いように思います。
ある意味のアンサー
改めて言うまでもありませんが、本作品のアニメーションは、そのクオリティも含めて高品質です。
キャラクターの動きや表情、細かい場所への配慮も含めて。
また、京都アニメーションといえば「涼宮ハルヒの憂鬱」が有名です。
これは、うがった見方ではありますが、「氷菓」は「涼宮ハルヒの憂鬱」への一種のアンサーのようにみることもできて面白かったところです。
物語のはじめのほうの主人公折木奉太郎は、「高校生活といえばバラ色。バラ色といえば高校生活。さりとて、いわゆる、灰色を好む生徒というのもいるんじゃないのか」
そんな灰色な高校生活をおくるつもりだったが主人公に、色がついていく、というところなんかは、常に一歩引いて物事をみていた「涼宮ハルヒの憂鬱」における主人公キョンを一歩進めたキャラクターのようにもみえるのです。
まぁ、これは、あくまで個人的な見方ですが。
やれやれ、と一歩引いて世の中をみていた主人公が、ボーイミーツガール的に、物事にかかわっていく、というのはある種の定型ですが、自分のモットーに忠実な、すこしだけ違う主人公の活躍が面白いところです。
ちなみに、アニメは後から見直すと、何気なく事件の伏線がしこまれているので、2回目以降も面白くみることができます。
以上、原作とアニメの演出の違い。アニメ「氷菓」感想&解説でした!