「ジョーカー」とは違うジョーカー。「バットマン ダークナイト」
バットマンシリーズは何度かつくられておりますが、傑作と名高い作品といえば、クリストファー・ノーラン監督「バットマン ダークナイト」をはずすことはできないでしょう。
ジョーカーは作中の中でも、バットマン最大の敵でありライバルのような存在となっております。
時に、純粋悪ともいわれれるダークナイトのジョーカー。
ジョーカーの誕生を描いた「ジョーカー」とは異なるものとしてみていただいたほうがよいのですが、悪のカリスマとして描かれる彼の生き様について、感想&解説を述べ、気に入った方へのおすすめ映画も併せて紹介していきます。
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ダークナイトだけ見てもよい?
本作品は、クリストファー・ノーラン監督の3部作の一つとなっているため、本来であれば「バットマン ビギンズ」からみるのが正しいところです。
ですが、下準備のために2時間をかける必要はありません。
ということで、ダークナイトだけみる人のために最低限必要な知識を以下の記述します。
・レイチェルという女性は幼馴染ではあるが、恋人関係ではない。ただし、ブルースは彼女のことを愛しているが、自分にはその資格がないと思っている。
・ハービー・デントという検事は、今回初登場。前作で何かあったわけではない。
・ゴードン警部は、バットマンとこっそり協力している。
といったぐらいで十分ではないでしょうか。
あとは、仲間すら平気で撃ち殺して強盗したお金を独り占めしてしまう、人を人とも思わないとんでもなくずる賢く、悪いやつが、バットマンという正義の味方にゆさぶりをかける物語になっています。
いくつかの見方ができる作品となっているので、さわりを解説してみたいと思います。
純粋悪としてのジョーカー
ジョーカーは、作中で純粋な悪として描かれています。
「お前がいるから、俺のようなやつが現れる」
意地の張り合いみたいなもの、といってしまうと矮小化しすぎかもしれませんが、ケンカの場で、拳がでれば拳で、ナイフがでればナイフで、拳銃がでれば拳銃で応戦せざるえないように、正義と悪という違いこそあれ、巨大な象徴がでれば、それに対応するものがでてきてしまう、という問題が作中の根底にあります。
バットマンがいるからこその、ジョーカー。
「ダークナイト」の中で、ジョーカーは非人間的に描かれますが、自分の口のケガについて何回か異なる説明をします。
彼にとっては、すべてがジョーク(冗談)なのです。
行動原理をもたず、冗談で人を殺してしまう悪。
そんな死の象徴のような存在として、近年はずせない作品としては「ノーカントリー」が思い出されるところです。
「ノーカントリ―」は、コーエン兄弟が監督するスリラー映画となっており、ひょんなことから麻薬取引の現場に居合わせたことで、とんでもない殺し屋に狙われてしまった男を主人公にした映画です。
シガーと呼ばれる殺し屋は、死の象徴として描かれます。
彼は、コインの裏表で人を殺すかどうかを決めます。
彼は頼まれたから主人公を追いますが、その中で殺される人々にとって、彼は死という理不尽そのものです。
一方で、純粋悪であるジョーカーとは性質こそ違いますが、厄災が人の形をしていると思ってくれていいようなキャラクターです。
考えようによっては、ジョーカーは、キリスト教における悪魔のような存在と考えることもできるところです。
悪魔というのは、恐ろしい姿をしていることが特徴ではなく、人間をそそのかす存在というのがポイントです。
「ダークナイト」でも、ジョーカーは冗談によって、人の正義をぐらつかせようとする存在となっています。
具体的な内容については、作品をみていただければとは思いますが、相手を殺せば自分は助かる、という状況をつくりだしたり、レイチェルという最愛の人間と、ゴッサムシティの未来を託すことのできるハービーの命を天秤にかけさせるなど、究極の選択を迫るのです。
恋人か正義かという2択で、結局、レイチェルではなく、結果としてハービーを選んでしまったバットマンは、その選択をしてしまった時点で、運命から逃れられなくなってしまうという構図の作り方はさすがです。
人を殺さないバットマンが、人を殺すしかなくなるのです。それが、たとえ嘘であったとしても。
組織のジレンマ
本作品は、バットマン、ゴードン、ハービーの3人が顔を突き合わせるシーンがあります。
ゴッサムシティを守るために、それぞれの立場から戦っている人たちですが、それぞれ動けない事情があることがわかります。
そもそも、ゴッサムシティは犯罪や不正にまみれており、ゴードンが組織の撲滅を行おうとしても、事前に内通者がタレこみをしてしまい、今一歩というところで逃げられてしまいます。
ハービーもまた同じで、たった1人で戦おうとしても、やはりうまくいかないのです。
だからこそ、制約を受けることのない法の外側の人間であるバットマンが動くしかなく、また、同じく法の外側にいるジョーカーに遊ばれる運命にあるのです。
レイチェルという女性
彼女は、一応、検察官として働いており、正義のためにハービー・デントと行動をともにします。
そして、ハービーからも求婚されており、どちらにも期待をもたせる存在となっています。
さて、話そのものをもっと大枠からとらえてみます。
当然、裏の存在であるバットマン。
作中でも言われる通り、彼は闇の騎士(ダークナイト)です。
一方で、光の騎士として登場するのがハービー・デントという男です。
この場合、人々に認められ、法律的に正しい行いをしている人物としてみてもいいのではないでしょうか。
バットマンは、市民に認められて犯罪者をさばいているわけではありません。たんなる、慈善活動として勝手に悪人を退治しているにすぎないのです。
ハービーは、法律に基づいて裁く人物であり、表の人物として描かれます。
作中における正義というものが、二人の人物に分割された結果、レイチェルは二人の男の間でどっちつかずな人物になってしまいます。
ですが、正義を象った一人の人間に対しての思いだとすれば、合点のいく悩みです。
ただし、死ぬ直前に言ったレイチェルの台詞がなければ、ハービーは二面性をもたなかったかもしれません。
ハービーの内面は、どちらも同じ表むきのコインだったはずなのに、ジョーカーという悪によって、彼はコインの裏表をもつ存在に代わってしまったのです。
まさに、ジョーカーが悪魔のような存在といえるところです。
ジョーカーの恐ろしさ
ハービーがいるから自分はいらない。
そして、自分がいることでまた犠牲者がうまれ、悪が生まれる。
そう思わせることで、バットマンの正義そのものを揺らがせる。
武器がすごいとか、肉体がすごいとかではなく、ジョーカーは言葉によって人を倒す存在なところが恐ろしいのです。
ダークナイトだけみても問題ないと冒頭で書きましたが、もちろん、ビギンズからみたほうがはるかに納得感が増すところです。
ブルース・ウェインは、「ビギンズ」において自分自身の肉体を鍛え、挫折を繰り返しながら、ヒーロー性を獲得しました。
ですが、ハービーは違います。
バットマンはジョーカーのゆさぶりに対して自我を保ちましたが、ハービーはまだヒーローになりきれていなかった為に、ジョーカー(悪魔)の誘惑に負け、ツーフェイスと自ら名乗るヴィラン(悪役)へと変貌してしまうのです。
ジョーカーは倒されてしまいましたが、ジョーカーのもくろみは成功します。
表だけの正義がゴッサムシティを救う。
そのことに意味があったはずなのに、結局、バットマンが罪をかぶることによってぎりぎり保たれる危うい正義が成り立つことになったのです。
アメコミヒーローといういわゆる子供向けの作品であるはずのものが、正義や悪を大真面目に語り、そのうえで、主人公たちがどのような苦悩をもつにいたるのかということを拾い上げた作品であるからこそ、「ダークナイト」は他作品とは一線を画す作品となっています。
ちなみに、こういったヒーローものの悩みをもっと別の角度から取り扱った名作として「ウォッチメン」があります。
超人が本当に実在したら、という世界の中で、ソ連が崩壊せずに残ったらという歴史のIFを描く傑作作品となっています。
流れの中でみていくと、感慨深いものがありますので、併せてみてみてはいかがでしょうか。