シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

真実を知ると後悔するかもしれない。「スポットライトスポットライト 世紀のスクープ」でした!

スポットライト 世紀のスクープ (字幕版)

 
時として、大きすぎる事件というのは誰も触れることができなくなってしまうものです。
「スポットライト 世紀のスクープ」は、実際にあった神父による少年少女らへの性的暴行の実態を暴いた実在の事件をもとにしてつくられた作品となっています。
本作品は、新聞記者たちによる業を描き、また、真実を暴くことを丁寧に行っている良作となっております。
 

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教会の大きさ

「協会は昔からずっと地域を支えてきた。二度と起こさない」
本作品におけるキーとなっている事件として、ゲーガン神父の事件があります。
少年に対して神父がいたずらを行ったのですが、司教が、事件をもみ消してしまったのです。
 
本来であれば、裁判になるはずですが、決してそのようなことは起きません。
単なる個人であれば、あっという間に罪に問われて終わるところですが、それが、誰もが信頼し、助けられている教会の神父だったとしたら、それをそのまま断罪することができるでしょうか。

そんな人間の心理と、巨大な権力を背景にカトリック教会の神父が、行った事件が暴かれていきます。

事件に踏み込む

本作品は、まずその根深いカトリック教会の大きさを知らせてきます。
カトリックの神父の事件をとりあげようとしても、誰かが言います。
 
「うちの定期購読者の53%はカトリック信者だ」
 
カトリック教徒が大半を占めるイギリスという土壌にあっては、そもそも、自分たちを支える母体そのものがカトリックになっています。
 
誰が、自分たちの支持している、心のよりどころとしている組織を非難されて、うれしい人がいるでしょうか。
 
物語は、ボストン・グローブという新聞社の、新しい局長が赴任してくるところから動いていきます。
 
新局長であるマーティは、神父による事件を再び調査しようと動き出しますが、
 
「新任は枢機卿に挨拶する慣例が」
 
と言われてしまいます。
中立なはずの新聞社ですら、そんな状態です。
彼らは、教会という巨大な組織を相手に、すこしずつ動き出していくところが見ものです。

被害者たち

この作品では、教会の悪事についつい目がいってしまいがちですが、教会そのものは素晴らしいこともやっています。
 
貧困の子供たちのために食事を提供したり、迷える人たちに救いを与えてくれる存在でもあります。
 
しかし、そんな状況の中で、悪辣な神父がおり、その被害を受けてしまう子供たちもまた存在しているのです。
 
なんで、神父からのいたずらを拒否できないのか。
また、実際に声をあげないのか。
 
といったところもきちんと説明されています。
子供であることはもちろんですが、彼らにとって、神父というのは神そのものだということが示されます
 
また、神父が狙うのは、貧困で、寡黙な、信心深い子供たちを狙うのです。
自分たちが信じている人が、自分にとって悪いことをしているなんて、思うはずもないのです。
そういった判断力のない子供たちを毒牙にかけ、また、その被害者たちは、自分たちのよりどころを失い、自ら命を絶ってしまうのです。
「サイバイバー」と、神父への被害者団体の男が言います。
生き残るほうが難しい状況の中で、声をあげて世間に訴えるというのは、そもそも、難しすぎるのです。
 

真実を追う者たちの末路

「スポットライト 世紀のスクープ」で、面白いのはそれを追う記者たちの業を描いているところでもあります。

彼らは、記事のために人生を投げ出しています。
休みの日だろうが、平気で会社に来ます。
 
それがどういうことかも、描かれます。
「仕事熱心だね。奥さんに怒られない?」
「怒ってますよ」
「だから、私は独身だ。忙しすぎる」
 
弁護士の男は、そういって、新聞記者であるマイクを非難します。
彼には奥さんがいるということで、なるほどな、と思ったりするところですが、これは、あとでもっと悲惨な状態であることがわかります。

家に帰ると、とっくに奥さんが家からでていっているのがわかります。
真実を追う人間が悲惨な状況になっていくのは、弁護士だろうが、新聞記者だろうが、同じだということが示されています。

記者たちの悩み

また、事件の解決というのはどういうことか、ということをついた物語にもなっています。
彼らは、記事をなかなか発表しません。
もちろん、証拠が完全にそろっていなかったり、911という巨大すぎる事件があったりして発表できない状況があります。
ただ、自分の家の近所に犯罪者同然の神父がいる施設があったりして、当人たちも気が気ではない状況です。
 
「なぜ、尻込みする!今も子供たちが狙われているんだぞ」
とマイクは怒ります。
そこで、最古参にあたる記者のロビーが言うのです。
「我々の狙いは教会だ。全体像を暴けでないと再発を防げない」
 
マイクの気持ちもわかるところです。
 
ですが、何人かの神父をやり玉にあげたところで、事件はなくなりません。
また、病気扱いとして休職させられたり、別の教区へ異動してしまい、そこで再び犯罪を行うにすぎないのです。
 
「特ダネが大切なのはみんな同じ。私はミサにはいってない。おばあちゃんには話てないわ。教会を信じているもの」
 
彼らは、一番効果的なタイミングで記事をだすことで最大の力を発揮することもまたわかっています。
 
目の前の被害者だけを助けるのではなく、教会というシステムそのものを糾弾することによって、目の前の被害者だけではなく、これから発生するであろう被害者たちも助けなければならない。
 
マイクは、それを納得できない、と怒りますが、同時に苦しむことになる、というところが「スポットライト 世紀のスクープ」の、人間性を描いたところでもあります。
彼らは、ただ真実をやみくもに暴くだけの仕事第一主義の人間ではなく、同時に悩める人間であることも示しています。

深く地域に根ざした教会

さらに、教会という組織のおかげで暮らせている人たちも多くいることも示されます。
 
教会からの訴訟を請け負って大金を稼いでいる弁護士もいます。
ただ、彼らもまた職業倫理の中で悩んでいるのです。
 
「少し悪のために、多くの善を捨てることはできない」
 
良くも悪くも、地域社会と教会が密接であり、教会を非難することで、多くの不幸があったりする事実も描いています。
 
たしかに、子供たちへの被害は少なからずあるけれど、それを明らかにすることで多くの人たちがつらい想いをするのであれは、小さな悪は見逃すべきではないか、と言っているわけです。
 
そんなことはダメに決まっている、と一刀に切り捨てられないことも、映画で幾重にもわたって描かれているところです。

「局長は2年もしたらでていくが、君はどこへいく」
「スポットライト」の描く物語は、大きすぎる問題を描いているのです。

同時に、自分たちへの非難も描いています。

不実の罪

記事を発表する直前のことです。
 
神父の弁護をした弁護士に対して、彼らは非難します。
「教会のダニだ」
「彼は仕事をしただけだ」
と言われます。
 
ただ、その情報は、新聞記者であるロビーの親友からなのです。
 
親友である彼がどのような気持ちで神父を弁護していたかも知っている彼は、まわりの人間たち同様に非難することはできません。
 
「俺たちはどうだ。情報は集まっていたのに何もしなかった」
 
実は、7、8年前におきた事件でも、告発そのものが新聞社にあった、ということも、本作品に刺さる杭として機能しています。
 
局長が変わり、事件が明るみになったことでわかったとはいえ、かつてもまた同じ事件がおきており、それを告発しようとした人たちがいたにもかかわらず、当時の新聞社はその事実を黙殺してしまっていたのです。

「お前だろ。当時の担当は」
 
「ああ。引き継いだばかりのころだ。だが、俺だ」
 
言い訳にはなりません。
 
ですが、実際にそうなってしまったことで、事件は一度闇に戻ってしまっていたのです。
本来であれば、もっとはやくにわかっていたかもしれない事件だったにもかかわらず。

人間だからどうしようもないことです。
そういったところに対して、局長であるマーティは言ってくれます。
 
「私たちは毎日、闇の中を手探りで歩いている。そこに光が射して初めて間違った道だとわかる」
 
誰だって手探りで進んでいる。
 
間違ってしまうことだって当然ある、という当たり前のことを言っているのですが、巨大すぎる闇に気づけなかった、あるいは見過ごしてしまっていたことの罪悪感をもってしまった彼らに対しては、大きな救いの言葉になったのは間違いないでしょう。

こうして「スポットライト 世紀のスクープ」は、歴史的な事件である911の影に隠れながらも、大きな反響を与えることになります。

本作品は、ジャーナリストの業や、教会という巨大すぎる組織に対しての、簡単には解決できない状況を踏まえながら、記者たちの視点で描いた作品となっています。
真実に触れる恐ろしさも描いた本作品は、見ていて損のないものとなっておりますので、気になった方は何度でもみてみてもらいたいと思います。

以上、真実を知ると後悔するかもしれない。「スポットライトスポットライト 世紀のスクープ」でした!
 
 
 
 
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