ブラック企業でも人間性を取り戻せ/サウルの息子
サウルの息子は、第二次世界大戦下のアウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所を舞台にした物語です。
ユダヤ人の虐殺を取り扱った映画は数多くありますが、「サウルの息子」は、今までの作品と一線を画する作品となっています。
その違いを含めて、最後に主人公がどのようになっていったのかを考えてみたいと思います。
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ゾンダーコマンドの悲劇
物語の冒頭は、画面がぼやけていてほとんど何も見えません。
極端に焦点の浅いカメラをつかっているようで、主人公であるサウルがやってきて、ようやくピントがあうといった具合の絵作りです。
この作品は、アウシュビッツでの二日間のできごとを描いたものとなっており、極端に主人公であるサウルの表情に寄った画面ですすんでいきます。
まわりはよくみえないし、表情のほとんどかわらない主人公を見る映画となっていますので、すこし慣れないかたは辛いときがあるかもしれません。
強制収容所の中で、ゾンダーコマンドと呼ばれる収容所で殺された人たちの処分や掃除を担当する労務部隊に所属する主人公が、ガス室で死ぬことができなかった少年を見つけ、それをユダヤ教の教義にそった形で葬ろうとする姿を描いています。
ゾンダーコマンドは、虐殺の現場をみているため、その大半が証拠隠滅のために殺されているという運命をもった人たちですが、彼らがどのようにして生きようとしたか、ということも示されています。
心が壊れたら
物語のあらすじだけで言えば、ゾンダーコマンドの主人公が、息子の死体を埋葬しようとする、ということなのですが、物語をみていくとそこに疑問が生じてきます。
ここからは、ネタバレをしながらすすめていきますので、もし、ネタバレが気になるかたは、映画をみたあとで戻ってきていただければと思います。
では、ここから早速ネタバレです。
主人公たちは、強制収容所につれてこられた人をガス室に送ります。
人々は、強制労働をさせられると思ってシャワー室に入っていきますが、壁にかけられた衣服は次々とゾンダーコマンドたちに回収されていきます。
「フックの番号は覚えて置くように」
とアナウンスされますが、ゾンダーコマンドーたちが機械的にとっていくのをみるとすぐに気づきます。
彼らは、戻ってこないのです。
それを知りながら見送るゾンダーコマンド。
ユダヤ人を部品、とよび、ガス室で殺した遺体を燃やし、灰にしたものを川にすてていく、という人間の最終処分場として存在するのが本作品の強制収容所の本当の姿です。
その中で、主人公であるサウルはとっくに人間性をなくしています。
誰しもそうですが、あまりに酷い光景ばかりを見続けたら、あるいは、自分の見たくないものというのは、不思議と頭に入ってこないものです。
目の前に死体があったとしても、それが死体と認識されていなければ、それは死体ではないのです。
少なくとも、本人にとっては。
サウルはとっくに心が壊れているのですが、ガス室で死ねなかった少年をみつけ、息子であると認識することで、二日間の物語は動き始めます。
サウルはいいやつ?
サウルは、ゾンダーコマンドとしての微妙な立場を利用しながら、息子の遺体を取り戻します。
仲間たちは彼の行動を非難しますが、彼は息子の遺体を、埋葬してやろうとします。
埋葬をするためには、ユダヤ教の聖職者にあたるラビが必要です。
彼は、ラビを探しまわります。
下手に動いたらいつでも殺されるという状況にも関わらず、サウルは無茶をします。
なぜか、仲間たちはサウルのことを見逃したり、強制収容所を脱出する計画に彼を参加させようとしています。
むしろ、脱出に必要な火薬の受け取りをサウルに依頼していたりするなど、仲間内でもかなり頼られている人物なのです。
彼は無表情で、息子の遺体のために翻弄するのですが、誰一人彼を見捨てません。
そこから考えられるのは、サウルという男は非常にいい人間だったのではないだろうか、ということです。
もともと、暗い人間だったわけではなく、映像が物語るように、彼はすこずつ心を閉ざし、見たくないものを遮断して生き延びてきた。
仲間たちはサウルとともに脱出をはかり、そして、小屋に逃げ込みます。
ブラック企業でも人間性を。
突然ですが、忙しい、という文字は、心を失うと書きます。
よくある話ではありますが、ブラック企業に勤めている人がなぜその会社をやめないのか。
様々な状況はあるかと思いますが、一つの側面としていえるのは、そんな辞めようとか考える気力も体力も時間もない、ということでしょう。
強制収用所を脱出したところで、逃げ延びることができる可能性が低いことも彼らは知っていたはずです。
それでも、希望にすがるしかなかった。
その中で、サウルは、大量の遺体の中、息子の遺体を見つけるのです。
ちなみに、ネタバレをするといっておりますので、ネタバレしますが、作中で存在感を示す、サウルの息子の遺体は、おそらく、サウルの息子ではありません。
「おまえに、息子はいない」
と仲間に言われたとおり、サウルの本当の息子ではないでしょう。
「名前は?」
と息子の名前きかれて、答えられないことからもそれが伺えます。
じゃあ、サウルの息子とは一体何者だったのでしょうか。
人間性とは
来る日も来る日も仲間を殺す手伝いをして、その遺体の処分を続ける。
精神が壊れてしまったはずです。
ブラック企業。または、詐欺の会社などに勤めたりしていたら、人間性は磨耗してしまうに違いありません。
その中で、サウルは、息子に希望をみたのです。
その子供を埋葬してあげることで、失った自分の人間性を取り戻したい、と。
そこまで明確に願ったかはわかりませんが、少なくとも、彼が、危険をおかしてでも、当たり前の日常だったら、当たり前にできるであろうことを少年の遺体にしてあげようと強烈に思ったのでしょう。
少しだけ話しはそれますが、災害によって困難な生活を余儀なくされてしまったかたが、コンビニに沢山おいてある商品をみて、涙がでた、ということをきいたことがあります。
平常時にはコンビニに食べ切れないぐらいの食料や商品が並んでいるのは当然です。
ですが、災害が起きたとき、棚に何もない非日常こそが現実になり、その不安・絶望をより深く感じさせてしまうのです。
結果として飽食の現在の一つの代表ともいえるコンビニに、商品があることが日常を思い起こさせてくれるトリガーとなるのです。
さて、「サウルの息子」において、サウルは、日常(息子を埋葬できる)を取り戻すことで、自分自身の人間性を取り戻そうとしたのではないでしょうか。
ラストの意味は
さて、そんなことを考えつつ、「サウルの息子」のラストを見てみるとより感慨深いものになります。
物語のラストで、仲間と共に小屋に逃げ込んだサウル。
そこで、彼は、現地であるポーランドの少年と目があいます。
たんに、たまたま森を探検していたであろう少年は、サウルたちをみて逃げていってしまいます。
ですが、サウルは少年をみて、はじめて笑顔になって、手をふるのです。
それまで無表情で、ぼそぼそとしかしゃべっていなかったサウルは、少年を見続けます。
そして、ずっと、サウルの顔を大写しにしていたカメラは、少年の後姿を追うのです。
無常にも少年の後ろのほうで、銃声が鳴ります。
サウルは殺されてしまったのでしょうが、そのカメラの移動によって、サウルは、遺体を埋葬することで果たそうとしていた人間性をとりもどすということを、見かけた少年の姿に託すことで成就させることができたのだとわかります。
体験型とよばれる映画
「サウルの息子」は、ひたすら主人公の表情をアップにした絵で続く作品であり、一カットが長いこともあって、没入感の強い作品となっています。
もしも、自分がアウシュビッツの強制収容所にいたとしたら、ということも追体験させてくれる映画でもありますし、人間性を消失した男が、あるいは、そういった類の人間が、どのようにして希望を抱いていけるのか。
絶望の中にあったとしても、人間が人間らしく生きるということが、どういうことかを教えてくれる作品となっておりますので、単なるアウシュビッツを体験する映画、というだけでみるには惜しい映画となっておりますので、気になるかたは、そんな見方も含めてみるとより面白く感じることができるかもしれません。