青春は暴力そのもの。原作も含めた感想。映画「恋は雨上がりのように」
女子高生に好かれる中年おじさんの映画。
ある程度現実というものに巨大な壁があると知っている人たちからすれば、単なる妄想を具現化した作品だと思ってしまうのが「恋は雨上がりのように」という作品のある意味においての不幸なところかと思います。
ファミレスの雇われ店長の、45歳バツイチが、女子高生に好かれるという非現実性と、近年問題視された「PとJK」といった作品もある中で、偏った見方になりそうな本作品について、原作も含めた中で、どのような魅力があるか、感想を述べてみたいと思います。
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恋愛映画にみせかけた成長物語
映画の大半は、成長ものとしてみることができます。
物語の冒頭の主人公は、物語後半にはなんらかの成長を遂げて、ラストに向けて走り出します。
「恋は雨上がりのようの」の主人公である橘あきらは、ケガによって走ることができなくなった陸上部のエースです。
病院の帰り、雨宿りのために入ったファミレスの大泉洋演じる店長に優しくされたことで、店長に好意をもちバイトを始めます。
そのあとは、皆さん想像がつくと思いますが、店長に想いを伝えながら二人の関係は一進一退を続ける、という内容になっています。
本作品は、小松奈々演じる橘あきらが挫折から立ち直るという話しでもあると同時に、大泉洋演じるファミレス店長にとっても、自分自身と向き合うという話になっている点がおもしろいところです。
雨の表現について
「恋は雨上がりのように」というタイトルなだけだって、本作品は、雨による心情表現が重要となっております。
物語冒頭の水滴のような音に始まり、雨によって立ち止まってしまう二人を描いていきます。
映画的な表現としても、雨が降ると登場人物が悲しんでいるという意味にとらえるのが一つのセオリーになっているため、天気に注目することで彼らの気持ちの状態が推測できます。
また、芥川龍之介「羅生門」が作品の中でたびたびとりあげられます。
羅生門といえば、雨宿りをしていた下人が、死体から髪を引き抜いている老婆をみつけ、その理由をきいたことで自身に変化がおきるというものです。
「恋ひゃ雨上がりのように」でも、雨によって立ち止まっている男女が、お互い影響しあうことで変化していきます。
出演者について
一応、主演俳優についても確認しておきます。
主人公の橘あきらを演じているのは、「渇き。」で鮮烈的な映画デビューをかざった小松奈々です。
「バクマン」や、近年ではマーティン・スコセッシ監督「サイレンス 沈黙」に出演するなど、女優として着実にキャリアを積んでいる人物です。
また、冴えないファミレス店長を大泉洋が演じており、原作を読んでいる人たちからすると、少しイメージと違うのではないかと思うところです。
ですが、映画をみてみると、アニメ版の演技が実に忠実に行われており、「探偵はBARにいる」や、北海道で活躍していた頃のひょうきんなキャラクターではない、悩める中年を違和感なく演じています。
ちなみに、お遊びとしてでしょうが、大泉洋演じる近藤の息子の髪が、もじゃもじゃしてしまっています。
どうしても漫画等が原作の場合違和感が発生してしまうものが多い中で、思った以上に違和感がない配役ですので、原作・アニメファンでも楽しめるかと思います。
原作の魅力
映画版についての感想の前に、原作・アニメも含めた中で「恋は雨上がりのように」がどのような点が面白いかを考えてみます。
冒頭でもかきましたが、本作品は、中年男性が女子高生に好かれてドキマギすることが主眼の物語ではありません。
橘あきらという主人公は、可能性と才能に溢れた人物です。
対して、近藤という男は、若い頃は小説家になるべく頑張ってた人物ですが、いつのまにか小説へ情熱を向けることができなくなり、ファミレスの店長として自分を殺しながら生きています。
偶然ながら橘あきらに好かれた近藤は、嫌でも自分と向き合わざるえないというのが物語の面白さです。
物語の前半こそ、橘あきらの恋心が、鈍感な店長に伝わらずやきもきするところですが、ひとたび、それが伝わった後は、近藤サイドの物語に移り変わっていきます。
近藤は夢を諦めきれなかったことで中途半端な人生になってしまった男です。
友人が作家になっているのに、自分自身は何も書くことができない。
そのジレンマをかかえている中、橘あきらという可能性の塊に憧れられたところで、その想いを受け止めることなどできないのです。
「店長は、すごいです」
といわれたところで、
「俺は、たんなる中年なんだよ。やめておいたほうがいいよ」
動き出せないでいる中年に、若者の羨望はあまりに辛いのです。
映画版について
さて、一応映画版について話してはいますが、原作・アニメ版の総集編のような映画となっているのが本作品の一つの特徴ではないでしょうか。
原作のある作品ですので、そのあたりはしょうがないのですが、台詞まわしはほぼかわらず、映画として一本にまとめるためにエピソードをはしょりながら、映画オリジナルの要素も付け加えています。
演出的に物足りなかった部分はあって、先ほど書いたとおり、本作品は可能性のある若者と、可能性を諦めている中年の葛藤の物語です。
「店長、小説書いてるんですか。すごいです」
「すごかないよ」
「本も沢山読んでますし、わたし、店長の小説読んでみたいです」
「君に、俺の何がわかるっていうんだ」
自分の才能や何かに盲目的な自信をもてなくなってしまった近藤にとって、あきらの期待はあまりに重過ぎるのです。
原作アニメでは、近藤という男は、必死によい年上であろうとしています。
それは、橘あきらのことを子供としてしかみておらず、自分自身とは関係ないとどこかで思っているためです。
ですが、真剣に想いを告げられたことで、対等な立場として向こうが踏み込んできたとき、自分の弱さについてムシできなくなってしまいます。
映画版だと、このやり取りが、かなりタンパクになっているため、近藤の葛藤がすこし弱めに感じるところです。
また、彼女をだきしめるシーンにしても、犯罪者だとか倫理だとかは別のところで、彼は、自分が彼女を受け止めるに値する人間じゃないというところを含めて葛藤するのですが、映画版だとあっさりとしているように見えます。
大学の友人について
すこし余談です。
本作品の重要人物の一人、九条ちひろという人物は、戸次重幸が演じています。
大泉洋と同じTEAMNACSに所属しており、彼らは大学時代からの友人でもあることから、「恋は雨上がりのように」における二人のかけあいが自然に感じるとすれば、そのあたりに理由があるのではないでしょうか。
小松奈々との演技について大泉洋は、かぎりなくアニメに近い演技をしているに対して、九条ちひろ演じる戸次重幸と会話をしているシーンは、素に近いようにみえるところが面白い点です。
二人のシーンそのものも重要であり、「お前のそれは、未練じゃない。執着だ」
と言って、小説をかけないでいたり、青春時代から離れられない近藤を励まします。
恋というモチーフを、かたや女子高生からの一方的な恋心や、自分自身の過ぎ去った青春を苦々しく思ったりする中で、近藤という主人公が、再び過去と向き合っていくという点が、「恋は雨上がりのように」で、注目すべき点です。
いずれにしても、本作品は、自分の思いに正直になることを薦める物語となっています。
「本っていうのは、人に薦められて読むんじゃだめなんだ」
一時的な気の迷いで橘あきらが店長に対して想いをもってしまったのか、近藤がそれをどう受け止めていくのか、ということも含めて難しい物語ではありますが、自分自身との向き合い方をみせてくれる映画となっておりますので、原作・アニメも含めた中で、映画をみることで勇気付けられるかもしれません。
以上、青春は暴力そのもの。原作も含めた感想。映画「恋は雨上がりのように」でした!