子供の幸せは誰が決めるのか/ゴーン・ベイビー・ゴーン
ベン・アフレックといえば、「ゴーン・ガール」で冴えない旦那を演じる俳優を一方で、「グッド・ウィルハンティング」では共同脚本、「ザ・タウン」や、要人救出のために、偽の映画をつくるといって乗り込む「アルゴ」では監督もこなす多才な人物です。
そんなベン・アフレックが初監督をしたのが「ゴーン・ベイビー・ゴーン」であり、弟であるケーシー・アフレックを主演させ、且つ、モーガン・フリーマンやエド・ハリスといった有名俳優を起用した大変豪華な作品となっています。
ただし、数々の賞を受賞した本作品でありながら、日本では劇場公開されなかった作品でもあります。
スポンザードリンク
?
愛しき者はすべて去りゆく
「ゴーン・ベイビー・ゴーン」は、デニス・へレインという作家による「愛しきものはすべて去りゆく」を原作にしています。
「私立探偵パトリック&アンジー」シリーズの第4作品目にあたります。
あくまで、映画「ゴーン・ベイビー・ゴーン」として本作品を語ってまいりますが、私立探偵パトリック&アンジーシリーズは、ボストンを舞台に、アメリカ社会の比較的暗い内容に切り込んだ作品となっており、本作品では、誘拐事件について取り扱われているところです。
- 作者: デニスレヘイン,Dennis Lehane,鎌田三平
- 出版社/メーカー: 角川書店
- 発売日: 1999/05/01
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 8回
- この商品を含むブログ (17件) を見る
「ゴーン・ベイビー・ゴーンは、アマンダという4歳の女の子が何者かに誘拐されるところから物語りははじまります。
ニュースでみていた探偵パトリックでしたが、事件の当事者本人達からアマンダを探して欲しいと依頼がまいこんできます。
果たして、パトリックたちは少女を探し出すことができるのか、というのが大まかなプロットになっています。
しかし、この物語は、はじまりから違和感たっぷりにはじまります。
依頼人は母親本人ではなく、兄の嫁であるビーが、探偵に頼みにきているのです。
ケーシー・アフレック演じるパトリックが、アマンダの母親に会いますが、母親は、娘を探そうとしている人間に対して、協力的ではありません。
しまいには、パトリックの相棒であるアンジーまでもが、乗り気ではない始末。
この、違和感たっぷりの中で、物語は闇をぽっかりを開け始めるのです。
母親は麻薬常習者
物語の序盤でわかることですが、母親は、娘が誘拐されたときに、ドラックをやって家を空けていたのではないかという疑惑がもちあがってきます。
しまいには、ドラックがらみの事件に関与していることがわかり、その現場に、娘までつれていっていることがわかってくるのです。
一応、ネタバレはもう少しあとにしますが、パトリックは、アマンダを助けることができませんでした。
その結果、相棒であるアンジーのは心の安定をかいてしまいますし、パトリックもまた、自分自身の考えに疑問をもつようになります。
そして、贖罪をするかのように、次の誘拐事件に、頼まれもしないのに介入していくのです。
本作品は、アメリカ社会のもつ闇に触れている作品でもあります。
特に、「ゴーン・ベイビー・ゴーン」では、子供の誘拐問題だけではなく、性犯罪を起こした人間の出所後について、また、台詞にとどまりますが、誘拐事件には興味を示しても、黒人4人の殺人に対しては興味を示さない人たちなどが語られています。
アマンダの事件を通して、性犯罪者同士が刑務所で仲良くなって、出所してからも、犯罪をする危険があるにも関わらず、野放しになっている、という現状がわかります。
そして、実際に事件はおこり、パトリックはどうすればいいのかわからなくなっていくのです。
この作品では、多くの人がいうように、法律を守るべきか、という点も考えさせられる物語となっています。
子供に対する闇
モーガン・フリーマン演じるドイル警部は、12歳だった娘を失ったことがある人間です。
彼は、アマンダを助けたいがあまりに、法令を守る立場にありながら、権限を逸脱した捜査に加担してしまいます。
(物語の核心にふれる部分ですので、そのあたりのニュアンスについては、映画をご覧いただきたいと思います)。
ですが、それを実行させてしまったことは、純粋に、子供を守りたかった、という思いがあったからにほかならないのです。
「ゴーン・ベイビー・ゴーン」は、アメリカの闇を扱っているだけあって、話しはかなり重たい内容になっています。
パトリックの相棒であるアンジーも、はじめは子供捜しに乗り気ではありませんでした。
「ゴミ箱の死体はみたくない。性的虐待を受けた子も」
と、捜査が切望的なこともわかっていますし、おそらく、過去にそういった目にあったことがあるのも匂わせています。
パトリックたちに協力する刑事、エド・ハリス演じるレミー刑事もまた、麻薬課に所属していたときに、ろくでもない親に虐待されている子供をみて、無理やり証拠を捏造して、親を刑務所おくりにした経験をもっています。
あまりやる気のない人たちかと思いきや、全員が、子供が被害に合うことに対し、辛い思いをしている人間ばかりなのです。
アマンダの叔母であるビーもまた、子供ができなかったという事実もあってアマンダを可愛がっていたことがほのめかされます。
子供は誰のもとにいるべきか。
「娘をとりもどせたら、二度とドラックはやらない。まともになるって誓うわ」
アマンダの母親であるへリーンはそういって涙を流します。
ここからは、ネタバレになりますので、映画を純粋な気持ちでみたい方は、鑑賞後戻ってきていただきたいと思います。
さて。
モーガン・フリーマン演じるドイル警部は、自ら辞職します。
事件の責任をとるかのような形にみえますが、実際は、誘拐されたアマンダを自分の娘として育てるためでした。
「ヘリーンには親の資格がない」
正直、ヘリーンはドラック中毒者ですし、娘を大事にしていないのはあきらかです。
「他人の行動は、自分の価値観だけでははかれない」
この作品の後半のテーマが浮き彫りになっていきます。
パトリックの決断
「本当にこうしたほうがいいか確信がもてる? どうなの?」
「わからない」
アンジーはパトリックに問いかけます。
モーガン・フリーマン演じるドイル元警部は、アマンダを助けるために自分の経歴を捨てることを考えます。
彼は、自分の経験にプラスして、多くの虐待された子供達を見てきたからこそ、誰かを助けたいと思ったのでしょう。
「子供が虐げられるのをみるのは、もう沢山だ」
アマンダが、モーガンフリーマンの胸に飛び込んでいきます。
アマンダからすれば誘拐されただけではあるのですが、彼女は、ドイル元警部にすっかりなついています。
ケーシー・アフレック演じるパトリックは、事件の真相に気づいたあと、ドイル元警部と言葉をかわします。
まさに、そのシーンこそが「ゴーン・ベイビー・ゴーン」で大きく悩まされるシーンといえるでしょう。
誘拐したことを「娘の将来のためだ」というドイル元警部に対し、
パトリックは
「母親から実の娘を奪った。あんたに、そんな権利はない」
といい放ちます。
パトリックが黙認すれば、アマンダはドイル元警部と共に生きていくことになるでしょう。
そして、愛情をたっぷり受け、きちんとした教育を受け、正しい生きかたができたかもしれません。
母親であるヘリーンは明らかに母親失格であり、再び母親のもとに戻れば彼女の将来は明るくないであろうこともわかります。
パトリックは、自分の倫理に従って決断します。
どちらも間違ったことはいっていません。
ただ、今の世界の倫理では、ケーシー・アフレックのほうが正しいのは違いありません。
アマンダが戻ってきたとき、母親であるヘリーンは言います。
「いつも子供に目をかけ、気をつけてあげて」
そして、ほどなくして、ヘリーンは、娘そっちのけでデートをしにでかけてしまうのです。
ソファの上に座り、パトリックはアマンダと二人でテレビを見ます。
何が正しいのかはわかりません。
ですが、「ゴーン・ベイビー・ゴーン」が投げかけてくる問題は、心のどこかでひっかかり続けるに違いありません。
以上、「子供の幸せは誰が決めるのか/ゴーン・ベイビー・ゴーン」でした!