不良少女は悪魔憑き/ウィリアム・フリードキン「エクソシスト」
映画好きにはみないわけにはいかない映画というのはいくつもありますが、オカルト・ホラー系のジャンルでいえば、その一つにウィリアム・フリードキン監督「エクソシスト」をあげないわけにはいかないでしょう。
怪奇現象、超能力といったものに、悪魔的な要素を盛り込み、人間の本質的な葛藤を含めて描き出された「エクソシスト」は、アカデミー賞脚色賞と音響賞を受賞しました。
よくよく知られている作品ではありますが、本作品は、単なるオカルト・ホラーというだけではなく、人間の心理にも深く通じた物語となっておりますので、そのあたりも解説しつつ踏み込んでみたいと思います。
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真面目ないい娘がなぜ悪魔に!
この作品でとにかく有名なのは、悪魔に憑かれてしまった少女リーガンでしょう。エクソシストについて調べると、まっさきに画像として出てくることと思います。
「エクソシスト」は、表面的な部分だけみると、悪魔につかれてしまった少女を救うため、ボクシング経験や心理学等を学んだ異色のカラス神父が、悪魔祓いを行って少女を助けるといった内容になっています。
サブリミナル的に挿入される、悪魔のような男の顔は有名で、部屋の中に気づくと浮き出ていたりする演出に、ぎょっとすることでしょう。
その演出と、悪魔VS神父といった戦いの構図。
少女リーガンの身体を媒介として、信仰を越えた戦いを見ることができます。
ですが、それはあくまで表面的な部分に過ぎません。
「エクソシスト」は人間の心理的な部分を、悪魔というメタファーを用いて表現されている、と考えてみると、違った見え方になってくるのです。
思春期の少女がグレた!
悪魔に憑かれた少女リーガンは、不幸な少女なのでしょうか。
作中では、「どうして、あの娘が・・・」
とまわりの大人たちが嘆きますが、実は悪魔というものが比喩表現を誇張したものだと考えると、特別不思議なことではないことがわかります。
リーガンの母は、女優をやっています。
理由は明確ではありませんが、両親は離婚しており、母親である女優のクリスには恋人のような人もいるのです。
また、リーガンは作中でたびたびでてくるのですが、もともと情緒不安定な娘として設定されています。
決して、
「バーグ(母親に言い寄ってきている?映画監督)と結婚してもいいのよ」
と言って、母の幸せを考えるしっかりものの娘ではありません。
アメリカ版こっくりさんといったヴィジャボードを一人でやっていることがわかるシーンがあります。
母親が「やってみましょうか」と声をかけるけれど、その申し出を断って一人でやろうとするのです。
そもそも、この手のゲームは、一人でやるようなものでありません。そのことからも、リーガンに友人がいないことを示唆しています。
また、彼女が書く絵をみても想像できるところです。
リーガンの書いた絵は、小さく描かれた奇妙な動物達や、粘土か何かをつかって作られた置物一つとっても、奇妙な形をしており、情緒がしっかりと育っているようには見えません。
彼女は12歳という設定ですが、決して順調な人格形成が行われているとは思えず、リーガンはもともと悪魔に憑かれる素養は十分に持ち合わせていることが、示されているのです。
悪魔、汝は何者か!
1973年の公開当時、映画をみて失神した人がいたそうです。
現代の我々がみても、さすがに失神する人はいないと思います。
では、なぜそこまで恐ろしいものだったのでしょうか。
大昔ではありませんが、当時は今よりも信仰が厚かった時代です。
そんな時代に、リーガンという少女が、悪魔が憑いたとはいえ、非常に汚い台詞を連呼します。
さらには、ゲロ状のものを吐き出したり、十字架で自慰を行い血まみれになったり、もうむちゃくちゃです。
「娘さんは、汚い言葉をよくつかうのですか」
と医者は言います。
物語の当初、母親であるクリスは、何をいっているのかわからない、といった感じです。
母親にとっては、リーガンは物分りのいい可愛い娘だったはずです。
そんな娘が、汚い言葉をつかって人をののしるなんて考えもできないはずなのです。
娘の状態を知ったのであれば、母親はこう思うでしょう。
悪魔が乗り移った、と。
悪魔という表現は使っていますが、これは、グレた娘の話であり、愛情が十分に与えられなかった娘の話でもあるのです。
女優の母親。
転々と引越しを繰り返し友達もできず、父親とも会えない。
そんな中、母親には恋人がいたり、もしかすると、娘であるリーガンに対しても色目をつかっていたかもしれない母親の恋人(階段に落ちた原因はそのあたりにあるようにも思われます)。
そのストレスの中で、ナイーブな彼女は辛い思いをしていたに違いありません。
そんな彼女に、悪魔が忍び寄ってくるのは決して理不尽とはいえないのです。
現代医療は恐ろしい!
余談ですが、物語の前半はリーガンの治療シーンがあります。
ただ、当時の医療はまだまだ怪しい部分も多く、性能がいいとは決していえなかったと思われます。
脳のレントゲンをとるところは、痛々しく、見ていてつらいぐらいです。
当初は、脳の一部分を切除すれば大丈夫かもしれない、といった話もでてきており、かなり乱暴な医療方針が述べられていたりします。
当時の医療がいい悪いというわけではないでしょうが、その不信感が描かれているのは間違いないでしょう。
ちなみに、精神病院の実態を告発した名作「カッコーの巣の上で」は、名優ジャック・ニコルソン主演で、ロボトミー手術によって大人しくさせられてしまう患者の末路が描かれています。
始めこそ大きな症状ではなかったリーガンは、病院でのストレス等によってますます症状を悪化させていくのです。
ただ、愛情という面だけで考えると、リーガンは、学んでいっているとも考えられます。
何を学んでいるのか。
それは、いままで母親に迷惑をかけないいい娘でいたけれど、自分が病気になればなるほど、母親は自分のために時間や愛情をかけてくれる、ということです。
まわりの反応をみながら徐々に、悪魔という形が浮き上がってくるのは、リーガンそのものの願望が生み出しているのかもしれない、というところも「エクソシスト」を見る上で面白いところです。
当時の医療はさじを投げます。
「悪魔祓いをしてみてはどうでしょうか」
カラス神父もまた迷っている!
物語の後半は、悪魔祓いが中心となっていきます。
もう一人の主人公であるデミアン・カラス神父もまた悩んでいる人です。
決して珍しいことではありませんが、彼はギリシャ移民の子供です。
彼自身は神父として、大学で勉強もさせてもらい、悪くない生活をしていると思われますが、彼の母親は違います。
「私はこの家を離れない」
といって、明らかに治安の悪い町に住んでいるにも関わらず家から離れようとしません。
治安の悪さは、あえて彼が通りを歩いていくシーンで示されているところがうまいです。
彼の母親は足も悪く、一日中ラジオを聴いているという生活を送っており、カラス神父は苦々しく思っていますが、母親は頑として動こうとしません。
移民としてアメリカにやってきて、相当な苦労があったと思います。
ですが、カラス神父はそれを母親に返すこともできず、結局病院に入れてしまうのです。
現代人であっても、いまだに判断が難しいところです。
身体の悪い親がおり、自分自身も仕事があって一緒に住むことも難しい。
親は心配だけれど、どうしようもないという中でカラス神父は決断しているのですが、後悔しているのは明白です。
心理学等も大学で学んでしまっているカラス神父は、キリスト教への信仰も揺らいでいます。
ちなみに、信仰に対して疑いをもってしまっている牧師が、再び神へ反発しながらも信仰にもどっていく作品として有名なのは、「ポセイドン・アドベンチャー」です。
エクソシストの数年前にでた作品ですが、その影響というのを感じないわけにはいかない作品となっています。
悪魔祓いは成功したのか!
「お前の母親も一緒だ」
デミアン・カラス神父は、自分の母親が既に死んでいることを悪魔が知っていると思って動揺します。
ですが、カラス神父ぐらいの年齢であれば、母親が亡くなっている可能性は十分あります。
物腰や家の中からもれ聞こえてくる会話で彼が神父だということもわかるでしょうし、コールドリーディングとよばれる手法で十分推測できることだったりします。
(ただし、悪魔祓いの最中のギリシャ語は、彼女が知りえるはずのないことだったりします)
リーガンは本当の悪魔なのか。
そのあたりは、エクソシスト2や、本当の続編とされるエクソシスト3を見ることで考え方もかわるでしょうが、少なくとも「エクソシスト」単体でみたときに、デミアン・カラス神父はその悪魔の中に、自分自身の弱さをみたはずです。
「俺の体内に入れ!」
と叫び、カラス神父は、自分の中に悪魔を認め、または取り込んだ上で、行動を決断したのです。
「告白することはあるか」
と彼は聞かれますが、何も答えません。
悪魔というのは形をかえて色々な人の心の弱い部分を映し出します。
一緒に悪魔祓いをしていたメリン神父は言います。
「悪魔の言葉に耳を貸すな!」
そして、聖書を唱え続けるのです。
「エクソシスト」は、たしかにホラー・オカルトに属する映画ではありますが、思春期の子供の心理や、信仰とはどういうものかといったものを考えさせてくれる優れた映画となっています。
今見ても決して色あせることのないテーマが含まれた作品ですので、時々見直してみることで新たにみえるものもあると思われます。
以上、不良少女は悪魔憑き/ウィリアム・フリードキン「エクソシスト」でした!