シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

この世界の片隅に。ネタバレ必須の感想&解説。原作と映画の違いも含めて。  

劇場アニメ「この世界の片隅に」オリジナルサウンドトラック

 

片淵須直「この世界の片隅に」は、こうの史代氏の漫画が原作の映画です。

各所で話題になっている本作品ですが、その圧倒的なまでに作りこまれた世界。アニメ映画ならではの表現。伝わってくる感情の分厚さ。いずれをとっても、とんでもない作品です。

「アニメ映画で、しかも、戦争ものだし」と思う人もいるかもしれませんが、見る前の人は、ネタバレなしの前半を、見た後の人は、ネタバレをしている後半部分もふくめて「この世界の片隅に」の魅力について、その圧倒的な情報量を紐解きながら語ってみたいと思います。

原作漫画も非常に面白いのですが、映画になるにあたって、カットされる部分もありますし、追加される部分もあります。

そのあたりから、映画でのねらいも含めた中で考えてみます。

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また、原作との対比をした中で、映画の魅力を語っていきますが、原作との比較をすることでより映画の魅力を伝えることを前提としていますので、原作を読んでいなくても全然気にせず読み薦めていくことができますのでご安心ください。

 

昭和の時代を生きる女性

 

主人公の浦野すずは、いたって普通の女性です。

戦争に突入していく時代の中で、明るく生きることで周囲をかえていく、そんな朝ドラの主人公のような人ではありません。

ぼうっとしているところがあって、絵を描くのが好きな人ではありますが、特別な力が備わっているわけでもありません。

そんな、いたってどこにでもいそうな浦野すずという女性の、幼少期から20歳にいたるまでの話が「この世界の片隅に」となっています。


この映画では、すずの主観が映像に大きな影響を与えています。


実は、この映画、どこからどこまでがすずの心の風景で、どこまでが現実世界なのかわざとぼかして作られています。

ただ、基本的にはすずの主観に基づいていることから、非常に優しげな形で物語りは進んでいきます。


主人公の浦野すずは、ぼーっとしていて、ほんわかしているのですが、実は、流されているだけの人でもあります。


当時の時代状況というのも大きいのですが、彼女は、顔も名前もわからない男のお嫁さんになります。

「気に入らんかったら、断ってもいいんで」
といわれるのですが、断るほどの理由もないから断らないままに事が進んでいきます。

旦那さんは、後に幼少期に出合った少年だったことがわかるのですが、彼女は基本流されている人です。

この物語は、流されるままに生きていた女性が、戦争によって、現実を見て、やがては、それを受け入れながら前に進んでいく、という成長物語になっているのです。

 

毎日を楽しむ。

 

ですが、彼女が流されているのは、主体性がないから、ではありません。彼女は「困ったねぇ」と言いながら、受け入れているのです。


当時は、水道はないので水を汲まないといけませんし、コンロもないので、自分で火をつけなければなりません。

物語をみていくとわかりますが、すずは、足が悪くなった母親のために雇われたようなものだったのです。

もちろん、旦那である周作は、すずとの縁を感じて結婚したのですが、旦那が寝ているところをおきて、義理の母親に教わりながら煮炊きをする姿は大変です。


この物語は、理不尽の連続です。


何もわからずにお嫁にきたすずは、姑に嫌味を言われますし、自分の好きな絵を描いていたら、憲兵にとらえられるしで、理不尽な目にわんさかあいます。


また、初夜を迎えるにあたって、おばあちゃんから言い渡されることがあります。

「結婚式の夜に、婿さんが傘を一本持ってきたか、言うてじゃ。ほしたら、はい、新(にい)なのを一本、言うんで」

よくわからないといったすず。

「ほいで、向こうが、さしてもええかいの、というからどうぞという」

「なんで?」

と聞いたら、おばあちゃんは、何も聞くな、とでもいうようなきっぱりとした言い方で「なんでもじゃ」と言います。

いきなり教えてきて、理由は教えない。理不尽です。


このやり取りは、俗に言う柿問答というやつで、結婚した男女がことをなすためにやる儀式のようなものだと考えてください。


でも、まだ子供のすずは、意味がわからないのです。

わかっているかもしれないのですが、暗黙の了解というものがあって、どうしようもないことがある、ということを知るきっかけとなります。

 

やさしいだけのおばあちゃんが見せる、きっぱりとした態度。

自分は何かが変わるのだ、という雰囲気を感じ取ったこともまたわかります。


昔は兄にいじめられて、理不尽の象徴が兄でしたが、嫁ぐことによって、そして、生きる中で様々な理不尽と出会うのです。

 

すずの、現実逃避。

 

さて、原作と映画の描かれ方として、違っている部分があります。

それは、すずの芸術的感性が強く描かれている、という点です。

原作漫画でも、その感性は描かれていて、漫画のコマそのものをつかって描かれているところですが、映画では、それがよりはっきりと描かれています。


この世界の片隅に」は、冒頭でも書いた通りすずの主観が非常に大きな役割を果たしています。

彼女が通してみる世界を、我々もまた見ている、という点が重要になっておりまして、時々、どれがすずの妄想あるいは、想像力で、どこからが現実なのかわからなくなるときがあるのです。

 

物語の序盤で、旦那である周作と出会うところでは、彼女は人攫いにさらわれます。

ですが、それは、妹に聞かせるための作り話。ですが、周作と出合ったことは事実だったと判明します。

おばあちゃんの家で、座敷わらしらしきものと会いますが、それもまた、現実にいるものなのか、はたまた、遊郭で出合ったおねえさんの若い頃なのか、それもまたわかりません。ですが、彼女のみる世界は、不思議なものもいる世界だということがわかるのです。

 

芸術的感性以外でも、映画版が強く出している部分としては、彼女が実は、非常に弱い女性であるという点です。


食糧難で食べ物がない中でも、色々な工夫をして、楽しそうにして生きる彼女ですが、ストレスをまったく感じていないわけではありません。

 

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義理の姉である径子にいびられたことや、日々のストレスから、身体的な影響がでてしまいます。


妹のすみからは「海軍の秘密知ってもうた」といわれて、自分が想像以上にストレスを受けていたことにショックを受けたりします。


実は、彼女の想像力や、絵描きは、逃避として使われているのです。

でも、逃避とはいえ、彼女が日々の事柄を工夫しながら楽しく乗り越えていく様というは、本当に素晴らしいです。


ですが、彼女は時々極端に元気をなくしますし、後半になると、目の前で大変なことが起きているのに、それを放っておこうとします。

自分の中にある、いや、人間であれば誰しもがもっている暗くて深い闇を、彼女もまた持っていることがわかります。

 

当時は、家を守ることが大事な時代です。でも、その家がなくなってしまえば、楽になれる。そういう誘惑もまた彼女は感じます。


彼女は決して強くはありません。

ですが、強くない彼女だからこそ、彼女の日常が、戦争に突入していく中で、生きるということがより鮮烈にうつるのです。

 

芸術に魂を。風立ちぬとの関連(ここからネタバレ)


彼女の芸術家としての点が強いと書きましたが、映画版では、それがかなり大きな才能として描かれています。


ここからは、そろそろネタバレが近づいてきますので、気になる方は、映画をご覧になったあとに戻ってきていただけるとありがたいです。

 

ーー 以下 ネタバレ --

 


物語は、戦争に突入します。


すずは、子供のためにと思って、軍港にとまっている戦艦を描きます。
ですが、それは間諜行為であり、禁止されていることだったのです。


今の時代だとそうは思わないでしょうが、軍艦がどんなものなのか、どんな装備をしていて、どれぐらいの数があるのか。そういう情報が敵にまわることは避けなければなりません。


戦中の日本では、軍事工場があるということもあって、東京の立川あたりからは、窓が目隠しをされていて何もみえなかったという話しもあります。

情報が統制されていた時代ですので、絵であったとしても、軍港の様子を描くなんてことをするのは、かなりヤバイ行為なのだったはずです。


ここでは、彼女は、「子供に見せてやろうと思って」と言います。

これぐらいでは、まだ彼女の芸術的な感性はそれほどではありませんが、爆撃が行われて、呉に大きな被害がおきるときがあります。

姪と一緒に畑にいたすずは、逃げるでもなく、空の飛行機を見続けてしまいます。

ここで、すずの視点となり、空にカラフルな絵の具が叩きつけられるのです。彼女には、町や、人を壊す飛行機の姿がそのように見えた、というわかりやすい場面です。


それは、彼女が、飛行機を美しいと思い、その場面を絵として描きたい、と強く思っているということなのです。


ですが、普通の人間であれば、命の危機なので逃げるほうを優先させるはずです。

自分の命とか、そういうのを無視して、美しいもの、感動的なものと出合ったときに、そっちを優先させてしまう、という点では、宮崎駿監督映画「風たちぬ」の主人公もまた同じような感性をもっているといえるのではないでしょうか。


宮崎駿「風たちぬ」は説明するまでもないかもしれませんが、2013年に公開されたアニメ映画です。


「世界の片隅に」とまさしく同時代。軍事産業に従事する青年の、飛行機作りにかけた物語です。

飛行機の設計をした堀越二郎が、それをつくることで多くの命が犠牲になるかもしれないとわかっていても、それでも、自分の飛行機作りへの夢をかなえようとします。

この映画もまた、自分の願いを実現させるためには、悪魔と契約してもかまわないといった覚悟を垣間見る作品です。

 

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風たちぬは、人を殺すことになる飛行機をつくる自分、に対しての疑問を主人公を持つことはありません。

普通の戦争映画とかであればきっと「俺は、人殺しの道具をつくっているんじゃない」とかいいそうですが、堀越二郎青年は、そんなことはいわないところが、いいのです。


話しは戻りますが、「世界の片隅に」のすずもまた、絵を書きたいという衝動に抗うことができない人物だったりするのです。

暴力的なまでにやってくる創作という魅力。そんなクリエイターとしてのすずが、戦争によって創作できなくなっていくというところも見所です。

 

死んでいたかもしれない。

 

この物語は、流されてばかりだった女性が、現実をみて、自分自身で決めていく、大人になっていくことを描いた物語です。


すずは、劇中で叫びます。


「ぼっーとして、何も考えん、うちのままでいたかった」


彼女もまた子供のままでいたかったはずです。

知りたくないものも、知ってしまうのです。


ですが、現実は、戦争は、彼女から大切なものを奪い去り、強制的に大人へとしてしまったのです。


その象徴の一つは、右手です。

彼女の絵を描くということは、彼女が理不尽なものから逃げるための逃避の手段であり、自分の夢ややりたいことを叶えるための道具でもありました。


また、彼女自身の甘えも失われていきます。

ぼうっとした彼女は、姪である晴美が軍港の様子をみたいといいます。
ですが、爆弾が落ちたばかりの状況で、危険だということをわかっていたはずなのに、彼女は、不用意に近づいてしまうのです。

壁が壊れたことで、見せてあげたかったものが見せてあげられるかも、という彼女自身の優しさが、結果として、最悪の結果を生み出してしまう、という皮肉もまた辛いところです。


多くの罪を背負った彼女は、それでも生きていきます。

 

さて、冒頭でも書きましたが、彼女は特別な人ではありません。


彼女は、流されて生きてきましたが、彼女は流された先で精一杯生きています。


もしも、彼女が「嫌なら断ってもいいんで」といわれて、周作との婚姻を断っていたら、原爆で死んでいたことでしょう。

幼馴染の水原哲と一緒になったとしても、その先彼女は死んでしまったか、青葉と共に死んだ水原を待つ悲しい人生になっていたことでしょう。

 

妹のすみちゃんに「広島にかえってきたらええんじゃない」といわれて、義理のおねえさんに「やっぱり、ここにおっていいですか」といわなかったとしても彼女は、放射能の影響で死んでいたでしょう。

彼女は、確かに流されてはいますが、結果として、その瞬間を精一杯生きている、ということが大事なのです。

 

ラストの女の子は、何ものか。


長くなりすぎますので、最後にオマケを書き足した上で、締めたいと思います。


この作品は、すずの成長もそうですが、顔も中身もたいした知らない男女が、ちゃんと夫婦になっていく、という物語にもなっています。


旦那である周作さんは、結婚前にすずのことを覚えていても、すずは周作のことなんて覚えていません。それでも、嫁として契りを結んだからには、北篠すずとして生きようと、彼女は覚悟を決めていきます。

それを、彼女が北篠という名前を書くことでみせる、というのもにくい表現です。

 

また、半ば無理やり夫婦になったせいで、ぎこちない二人。

どうしても素がみせられない中、幼馴染の水原哲の存在によって、嫉妬と敗北の中でゆらぐ周作が行う、非常に余計なお世話な気遣い。

 

そんな危機を乗り越えながら、お互いが感情をぶつけあい、やがて、夫婦として二人で歩いていく、というラストには涙が溢れます。


ラストにでてくる女の子の意味がわからない、という人もいるようですが、彼女が現れる一つの意味としては、自分のせいで姪と右腕を失ったすずですが、その失った右腕のおかげで助かった命もある、ということです。


ラストの女の子は、いわゆる戦災孤児です。

死んでしまった母親を見捨てた女の子は、シラミだらけで町の中をさまよいます。

本来であれば、のたれ死ぬか、生きられたとしても、人間としての心は失われていたことでしょう。


ですが、同じく腕を失ったすずをみて、死ぬ前に、右腕を失ってまで助けてくれた母親と重なり、人間の心を取り戻したのです。

そうでなければ、地面におちてようが、他人のものだろうが、彼女は落ちたおむすびを食べてしまったはずなのです。

それを、食べずに返そうとした、ということで、彼女が人間として踏みとどまった、ということがわかります。

そして、なくなった右腕のおかげで、すずは一人の女の子を救うことができ、結果として、義理のお姉さんにも希望を与えることができた。


たしかに、理不尽なことで傷つくこともあるでしょうが、その中で精一杯生きることで、誰かを救うことだってできる。

 

戦争に限らず、多くのものは失っても、失ったあとで得るものもある。そういう、人が生きるうえで大切なことを教えてくれる作品が「この世界の片隅に」です。


何度見ても、心にしみる物語であり、まだまだ補足を付け加えたいところですが、とりあえずのところは、このあたりで、本記事は終了とさせていただきたいと思います。

 

 

以上、「この世界の片隅に。ネタバレ必須の感想&解説。原作と映画の違い」でした!

 

戦争を扱った映画の記事は以下です。

この世界の片隅に」の中でも流れていた「玉音放送」が、流される前の壮絶なやり取りが描かれています。

 

cinematoblog.hatenablog.com

 

 

 

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