解釈しても藪の中?/黒澤明「羅生門」
果たして真実は何だったのか。
芥川龍之介による「藪の中」を原作にした澤明の傑作映画の一つ「羅生門」は、人間の業を見事に描いている作品です。
一人の男が殺され、現場にあったはずの高価な短刀が失われた。
その変えられない客観的な事実があるものの、事件に関わった人間が、それぞれ異なる真相を話し出す。
しまいには、死人までもが証人となってでてきて、また違う真相をはじめるにいたって、登場人物たちの混乱は絶頂に達します。
芥川龍之介の原作は、何が本当のことであるのかは語られないままに終わります。
しかし、黒澤明による「羅生門」は、物語とはじめと最後を羅生門という別の短編とかけあわせて、藪の中をその中で語る物語にしています。
そして、たんなる藪の中に真実があるとするのではなく、明確な意図が付け加えられています。
そのあたりを含めつつ、羅生門で雨宿りをした人間たちが、何を思ったのかを想像してみたいと思います。
思い悩むキコリ
「わかんねぇ。さっぱりわかんね。何がなんだかわかんね。こんな不思議な話、聞いたこともねぇ」
志村喬演じる木こりの男が独り言を言っています。
同じく雨宿りにきた男が志村喬の話を聞く形で物語は進行します。
志村喬は、男が死んでいる現場に出くわしたため、役人のもとで、男を殺したものは誰か、どうしてそのようになったかを事情聴取を受け、現場にいたと思われる人間の話を聞くのですが、どうも話が食い違っているのです。
ちなみに、証言をするときに、カメラに向かって話しかけるという手法がとられるのですが、黒澤映画でもたびたび見られる表現となっていまして、「生きる」なんかでも、役所で次々と陳情にきた奥さんたちがたらいまわしにされる場面でも使われています。
まるで自分に話しかけられているようにつくられていて、視聴者自身が、役人になって、藪の中の真実を知っていくようにつくられているのが、面白いところです。
さて、一人目に証言する男は、三船敏郎演じる盗賊 多襄丸です。
彼は、旅をしていた夫婦を見つけ、その女に心を奪われてしまいます。
盗賊家業をやっているだけあって、あっという間に男を捕まえ、女を手篭めにします。
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ここまでは、異論のないところです。
三船敏郎は、夫である男と勇敢に戦い、見事に勝ちます。
すると、女の姿はなく、女が護身用に使っていた短刀もまた消えてなくなっていた、と語るのです。
「あの男は立派に闘った。俺と20合切り結んだものは天下であの男だけだ」
と男を褒め称え、
奥さんに対しては
「女はどこにもいない。恐ろしさに逃げ出したんだろ。俺はあの女の気性の激しさに心引かれたのだ。しかし、結局は当たり前の女に過ぎなかった。探す気にもなれなかった」
と低く落としたような言い方をします。
三船敏郎の豪放磊落っぷりには素晴らしく、多襄丸というキャラクターをより複雑にしています。
三船敏郎は、映画「七人の侍」でも、武士と農民の気持ちをわかる重要な人物を演じ、その大物っぷりを如何なく発揮されています。
いかに映画スターとして影響力があったかが、現在においても十分に伝わってきます。
羅生門で取り扱われている事件の中に、いくつか論点があるのですが、そのうちの一つが、手篭めにされた奥さんは、三船敏郎に心を動かされたのではないか、という部分です。このことが、男の嫉妬を思い起こさせて面白さを倍増させます。
奥さんが手篭めにされてしまったとき、なよっとした夫よりも、荒々しく男らしい多襄丸に魅力を感じてしまったかもしれない、と思わせる説得力が生まれてくるのは、三船敏郎が演じているからに違いありません。
もし三船敏郎でなければ、なぜ単なる盗賊である男に、奥さんが心引かれたように感じたのかわからなくなってしまうところです。
食い違う証言
続いて、手篭めにされた奥さんが、証言を始めます。
奥さんが言うには、多襄丸は奥さんを手篭めにした後、どこかへ去ってしまうのです。
そして、縛られた夫にしがみつくと、夫が自分のことをさげすんだ目でみていると言い始めます。
「私は殺されてもかまわない。でも、でもそんな目で私を見るのはあんまりです」
そして、自分が投げ捨てた短刀を夫に手渡し「殺してください。一思いに私を殺してください」と強く懇願するのです。
ですが、何も言わない夫に耐えられなくなり、奥さんは気絶してしまうのです。
起き上がったときには、夫は自分の短刀を刺して死んでいた。
そして、逃げ出してしまい、池のほとりで身を投げて、自殺を図ったというのです。
なんと、悲しくも凄まじい物語でしょうか。
さて、奥さんの話はおいておきまして、続いては、死んだはずの男が話を始めてしまいます。
一応、巫女の口を借りてというところが面白いですね。
ともかく、この場合、死んだはずの人間が語るということに意味があります。
死んだ男が言うのは、多襄丸は奥さんを口説いています。
そして、妻はうっとりと顔をあげるのです。
「私はそれまで、それほど美しい妻をみたことがない!」
死んだ男の慟哭と思えばこそ、寝取られてしまった主人としては、泣くしかないところです。
ただ、夫にとって、いかに妻が美しい存在であったかがわかります。
そして、男は自ら死ぬのです。
まさに、男。
妻を取られた情けない男ではあったが、最後には、妻の短刀を持ち、自ら潔く命を絶ったのです。
全ては自分の都合
そして、最後に、もっとも真実に近い男が証言を始めるのですが、それは実際に映画をご覧いただきたいと思います。
さて、ここから先は、ネタバレです。
もし、先入観なしに見たい方は見てから戻ってきていただけると嬉しいのですが、そのまま見ていただいても、「羅生門」の面白さは色あせることはありません。
ここまでの証言を聞くと、もちろん、それぞれの証言が異なっていて、ミステリーのように感じてしまうかもしれませんが、これは、人間の業を描いているに過ぎません。
事実、羅生門で話をしている男たちは、その真実をすでに知っているのです。
「嘘だ。その男の話も嘘だ」
志村喬はそう言って、死んだ男の発言を信じようとしません。ですが、それに対して坊さんが
「しかし、死んだ人間まで嘘を言うとは考えられない。人間がそれほど罪深いものだと考えたくない」
お坊さんは、あくまで、人間というものを信じたい人なのです。
しかし、下人の男は悪魔のようにお坊さんに語りかけるのです。
「坊さん。それはお前さんの勝手だが。一体、正しい人間なんているのか。みんな自分でそう思っているだけじゃねぇのか。人間ってやつは、自分に都合のいい悪いことを忘れてやがる。都合のいい嘘を本当だと思ってやがる。そのほうが楽だからな」
まさに、このやり取りにこの映画の真実が言い当てられているのです。
証言した人間たちは、自分に都合のいいことしか言っていません。
三船敏郎演じる多襄丸は、自分は男らしく戦った。女をものにできなかったのは、女が逃げたためであり、自分こそが見限ったのだ、と。
そして女は、自分は夫に助けを求めたが夫は自分をさげすみ、自ら死のうとしたが死ぬことができなかった、と自分に非はないといっているのです。
また、死んだ男は、死んでなお、自分の妻の美しさ、自分がいかに苦しんだか、自ら死を選んだか、ということを言っています。
それぞれが、自分にとって、都合のいい事実を述べているのです。
それは、3人しかみていない藪の中で行われたことだからこそ言えるものであり、人間というのが、いかに自分自身のことしか考えていないのか、ということがわかるのです。
ここまでが、芥川龍之介の「藪の中」の話です。
人間の業の肯定
突然ですが、落語家である立川談志は、落語とは人間の業の肯定である、と言いました。
落語にでてくる人物たちはどうしようもない人たちばかりです。ですが、落語というものはその人間の業を肯定することによって、面白さをつくっているのです。
ニュースでは、社会的に悪いことをしたとか、不倫したとか、賄賂をもらったとか、まぁ色々と事件があります。それはもちろん駄目なことでしょうが、でも、その駄目な人間そのものを肯定することこそが大事なのです。
羅生門も、登場人物たちは、自分たちにとって都合のいいことを並べ、人を欺くものたちです。
志村喬演じる木こりは、「わからねぇ」と言います。
何がわからないのか。
それは、事件の真相などではなく、人間そのものがわからない、と言っているのです。
木こりは真実を知っています。
それは、3人が語るような美しい真実ではありません。
もう、それは情けない話です。
お互いがお互いを罵り、へっぴりごしで闘って、勇ましいことなど何もない。
人は、自分の都合だけで自分や他人を欺く存在。
そんな情けない生き物なのです。
赤ん坊の意味と、お坊さん
男たちが話していると、赤ん坊の泣き声が聞こえます。
下人の男は、赤ん坊に近寄っていくと、くるまれている布を奪おうとします。
それを志村喬が止めに入ります。
「何をする!なんて酷いことを」
「どっちみちこの着物は誰かが剥いでいくにきまっている。俺がもっていくのが、何が悪い。俺が鬼なら、こいつの親はなんだ。てめぇ勝手が何が悪い。人間が犬を羨ましがる世の中だ。てめぇ勝手じゃなきゃ、生きていけねぇ世の中だ。」
そして、下人は、志村喬演じる木こりが隠していたことを暴いてしまいます。
自分は傍観者で関係ないように語っていた木こりは、思わぬ反撃を食らって、自分自身の闇を自覚し、何も言い返せなくなってしまうのです。
そして、赤ん坊の泣き声と共に雨があがります。
さて、実はこの物語は、食い違う証言を聞いて混乱してしまった木こりが主人公としてみることもできますが、実は、魔を退けたお坊さんの話でもあるのです。
下人の男は、お坊さんに対して次々と人を信じられなくなるような言葉を語りかけます。その語り方はまるで、悟りから遠ざけようとする、魔そのものです。
正しい人間なんているのか。
人間は、都合の悪い嘘を信じるものだ。
鬼のほうが人間の恐ろしさに逃げ出した。
など、数々の言葉でお坊さんを誘惑します。
「人という人を信じられなくなったら、この世は地獄だ」
そう、この世はまさに地獄。
木こりの話を聞けば聞くほど、お坊さんは人間不信に陥っていくのです。
木こりの男は、坊さんから赤ん坊を引き受けようと手を伸ばします。
お坊さんは、「赤ん坊の産着まで奪おうとするのか」と怒りますが、志村喬は自分には子供が6人いて、7人に増えるのも同じ苦労だ、といって赤ん坊を受け取るのです。
「ありがたいことだ。おぬしのおかげで、私は、人を信じていくことができそうだ」
赤子を抱いて羅生門を去る木こりの姿こそが、黒澤明が投げかけたもう一つの真実であり、業の肯定とも取れるラストシーンなのです。
ここでは、実は志村喬もやっぱり嘘をついていた、なんていう深読みをする必要はないと思います。もし嘘をついていたとしたら、雨が上がることはなく、志村喬もまた笑顔をみせることはないはずだからです。
酷いことをするのも人間なら、赤ん坊を助けることができるのもまた人間。
そんな人間の複雑さを見事に表現しているのが映画「羅生門」です。
特に、この作品の時代は、飢饉などに見舞われた平安時代の末期が舞台にされていることから、人間の本性がでてしまう世界です。
だから、赤子の肌着を奪ったとしても、誰もとがめることはできず、自分勝手に生きなければ死んでしまう世界であるというのは、下人の言うとおりなのです。
下人が悪いわけではなく、そんな世界こそが悪いのです。ですが、それは仕方がないこと。
混迷を極める世界だからこそ、羅生門のような人間の本性を暴く物語は面白く、いざ自分がそのような地獄に陥ったとき、どういう行動をするべきか教えてくれる指針にもなるのです。
大変深みのある映画ですので、気になる方は是非ご覧いただければと思います。
心の雨があがるきっかけになるかもしれません。。
当ブログで紹介している黒澤明の映画は以下となっています。