巨人にちくびはあるのか。コメディとしての進撃の巨人/進撃の巨人 ATTACK ON TITAN
後編「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンドオブザワールド」の公開が、9月19日に迫っている「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」について、うっすらとネタバレを含みながら解説・感想を行っていきたいと思います。
後編の予習として見ていただいてもいいですし、前編を見たけれどなんかよくわからなかったという場合も、是非復習のつもりでみていただいて、後編への足がかりにしていただければと思います。
また、話が長くなってしまうので、物語の概要、裏の主人公としてのシキシマ、物語の考察をメインに解説・感想を述べ、書ききれなかった部分は、ネタバレありで以下のエントリーで書いてありますので、記事を読み終えたらみてみてください。
安全圏から戦いの場へ
さて、「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」は、映画評論家である町山智浩氏が脚本を担当しています。
町山智浩氏といえば、「映画の見方がわかる本」等によって、映画評論というものをぐっと世間に近づけ、軽妙な語り口で映画を解説してくれる姿は、多くの新規映画ファンをつくりだすことに貢献している、映画評論界の第一人者となっている人物です。
また、普段知ることのできないアメリカの事情なども、現地の雰囲気と共に伝えてくれる日本にとって大変貴重な人物でもあります。

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そんな町山智浩氏による脚本となれば、映画ファンにとってはいやがうえにもハードルがあがってしまうというものです。
映画を批評する側が、映画をつくる。
海外では映画評論家もシナリオに参加するようですが、こと日本においては、それはリスクを負うこと以外の何者でもないのが現状です。
かつて、批評家である東浩紀氏もまた小説「クォンタム・ファミリーズ」を上梓し、アニメの原作者として「フラクタル」をつくり、必ずしも成功したとは言いがたい結果を残してしまったりもしました。
むしろ、本人はもうアニメには関わらないというほどのトラウマを残したともいえます。

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批評する側が作り手になるというのは、それだけで、今までのキャリアそのものを問いかけることになってしまいかねない、諸刃の剣なのです。
映画をみる人間からすれば、そんな事情は知ったことではないということかもしれませんが、そういった事情を知りながらみることで、進撃の巨人への壁が見えてくるかもしれません。
原作のおさらいとして
進撃の巨人といえば、原作漫画が4000万部(2015年9月現在)というメガヒットを記録し、経営体力がそがれていた講談社を劇的に復活させた驚異的な漫画でもあります。
巨人と呼ばれる謎の怪物がいる世界。
人類は巨人から身を守るために三重の壁をつくり、その中で暮らしていたが、ある日、壁が壊されて人類は再び危機に晒される。
両親を殺された恨みをはらすべく、主人公エレンは、人類を守る兵団に入団し、巨人と戦う。
といったところが大まかすぎるざっくりした内容です。
アニメでも大ヒットを記録し、立体機動と呼ばれる特殊な機械で主人公達が動くさまは実にアニメーションらしく、世間での認知度をさらに広める結果となりました。
また、音楽を担当したサウンドホライズンのREVO様が、まさかの紅白出場という、輝かしい姿をお茶の間に晒すことになってしまった原因でもありますが、その影響力がいかに大きいかわかる作品となっています。
主人公であるエレンは、小さい頃、幼馴染であるミカサと共通の事件を体験することで、深い絆で結ばれ、異彩を放つ強烈なキャラクターとして作品を強烈に引っ張っていく存在になっています。
漫画版ではこのように主人公が特殊な存在として内面が描かれますが、映画版はキャラクターの造詣に大幅な変更があります。
また、作品を特徴づけるものは、なんといっても巨人の存在です。
西洋における巨人としてのジャイアント、ゴーレムといったものに近しいながら、人間のような顔と身体をもち、人間を捕食するほぼ不死身の怪物となっています。
原作者である諌山創が、漫画喫茶でバイトをしていたときに、深夜に来る酔っ払った客の、笑っているのに何を考えているのかさっぱりわからない。でも、言葉は通じる、という不気味な人たちをモチーフにつくったとされるだけあって、この作品における巨人というのは、他の怪物とは一線を画しています。
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映画版の進撃
映画は多くの人がにぎわう市場のようなところから、アルミンが主人公を探して町のはずれにいくところから始まります。
エレンとミカサ、アルミンの三人が、町のはずれにある不発弾の前で会話し、そこで、エレンは壁の外側について話をします。
海を見てみたい。
そして、不発弾に書いてあった水色を海だと思い、3人はいつか海を見たいという共通の願いをなんとなく共有します。
でも、アルミンは壁の外にでることは無理だ、という。
壁の外にでようとする人間はほとんどおらず、むしろ、壁の中にいることに対してなんの疑問も抱いていないのです。
原作と同様、エレンのみが壁の向こう側に強い興味をもつ人間となっています。
この映画は、壁を越えようとする男の話だというのがみえてくる場面です。
また、この瞬間のミカサは、全身真っ白な服を着ていて、エレンにとっての無垢なものの象徴として、実にエキゾチックに演出されています。
後に、ピエール瀧がなぜか「この門をくぐるもの、一切の希望をすてよ」と意味ありげにつぶやくことで、ダンテの「神曲」を下敷きにして、エレンという男が、地獄めぐりをしていく物語であるということもまた提示され、無垢な存在であったミカサを取り戻すという話に、後編でなっていくのではないかという方向性もみてとれるようになっています。
さて、冒頭でも言いましたように、表の主人公はエレンですが、裏の主人公というものが、本作品では、演出においてもシナリオ上でも重要な役割をもっています。
ジョン・ミルトンの失楽園
「オオカミの群れを恐れて、檻の中で暮らすもの。それをなんという」
「家畜・・・。(俺は)違います!」
原作では最強の存在であるリヴァイ兵長にあたる男、シキシマがエレンに言います。
「お前は檻の中でいていいのか」
随所にそういった台詞がでてくるのですが、この言葉からは、ジョン・ミルトンの著作「失楽園」をモチーフにしているのがわかります。

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ジョン・ミルトンの失楽園といえば、神に反逆した天使ルシファーが、アダムとイブをそそのかし、知恵の実を食べさせる物語です。
楽園に行く前に、ルシファーは徹底的に神に反抗します。
「服従よりも、自由に闘って敗北することを選ぼう」
反逆者であるにも関わらず、男すぎる天使ルシファー。
エレンに対して、家畜のまま生きるか、巨人と戦うかと問いつづける男。
シキシマという男は、神に反逆するものルシファー(サタン)の象徴であることが暗示されます。
それ以外にも、ミカサにりんごを食べさせるシーンがあるのですが、これは、まさにエデンの園でりんごを食べさせる蛇そのものです。
ただ、ポイントなのは、ミカサはそのりんごを、少しだけ齧るということです。
まだ、彼女は少ししか齧っていない。
実に控えめに。でも、エレンに対してあてつけっぽく。
そこに余地があるというのが、いい演出でした。
人によっては、シキシマの演技があまりにベタでヒドイという人もいるようですが、彼は、悪魔そのものなわけですから、非人間的に描かれていて当然なのです。
非人間的に描けば描くほど(程度はあるとしても)、非人間性というのが強調されて、悪魔としてのキャラクターが際立ってくるのです。
どんな演技でも違和感なくこなす長谷川博己が、あえてそのような演技をするからには演出の意図があると考えるべきでしょう。
実は、真の主人公はシキシマこと長谷川博己
シキシマを演じる長谷川博己といえば、
亀との出会いによって願いが叶い、ロックスターになるものの、やがてもとの4畳半に帰っていく園子温監督「ラブ&ピース」
愛する妻のために娘を主演にした映画をとろうとするヤクザに頼まれて、映画という芸術に魂を捧げてしまった男を描く「地獄でなぜ悪い」
テレビドラマでは、MOZUなどでも、非人間的な役を演じ、今の日本映画における、変な演技をナチュラルにこなす数少ない俳優の一人です。
その長谷川博己が、原作では人気ナンバーワンである、リヴァイ兵長に相当する人物をやるというのがまた、絶妙なキャスティングといえるでしょう。
園子温映画では、いずれも自分の欲望(芸術)のために、メフィストフェレスに相当するものに魂を捧げてしまう役を演じていたのに、本作品ではメフィストフェレス(誘惑する悪魔)側をやっているのが面白いですね。
神に対する徹底的な反抗を行うものとして、シキシマというキャラクターは最重要人物になっています。
エレンに対して執拗にアプローチしてきたり、巨人に襲われているエレンを助けずに、「跳んでみろ」というだけのスタンスをみせる様は、普通に考えると謎です。
ですが、彼は神に反抗する者。
「進撃の巨人」における神の使いと呼べるものは、巨人です。
神に反逆するものとして、仲間をつくろうとしているのが、今回のルシファー=シキシマであると考えられます。
だから、シキシマは、エレンを助けない。
エレンが巨人に叩かれて、ビルの屋上に激突してしまう様をみても、シキシマは「そういうこともあるさ」と気にも留めない様子でした。
巨人に襲われて死ぬようであれば、仲間になんてなれない。
シキシマは、人間を育てて、神に反抗させようとしているのです。
人間にとって、知恵の実を与える人物は、果たして敵なのか見方なのか。
家畜のままで生きるのか、自由のために死ぬのか。
ニーチェによるシキシマの見え方
作品の終わりごろに、シキシマは意味深に「怪物を倒すものは、自らも怪物にならねばならない」と、ニーチェを引用したような台詞をいうのですが、これは、エレンのことをさすというよりも、シキシマ自身のあり方を表しているようにも思います。
ニーチェといえば、超人思想。永劫回帰といった、キリスト教的世界に対し、反旗を翻した思想家です。
「神は死んだ」
そう、シキシマは最終的にこう言いたいはずなのです。

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ニーチェそのものは、キリスト教が好きであるがゆえに、キリストに対してのアンチテーゼを唱えてしまったという側面もあり、非常に屈折しています。
ジョン・ミルトン「失楽園」におけるルシファーもまた、神に寵愛をうけた従僕であるからこそ、結果として神に対して反抗せざるえなかった天使なのです。
また、原作でも考察されているところですが、実はループした世界なのではないかという指摘があります。
ループといってもわかりずらいかもしれませんが、同じ世界が何度もやり直されている、まるでゲームをやって、ゲームオーバーになったらまた1からやり直すような、そんな世界なのではないか、という指摘です。
誤解を恐れずに言うと、ループする世界と同じようなことを言っているのです。しかし、無限ともいえる同じ時を生きながら、その中で、その物事を引き受ける人間こそが、超人である、と述べています。
そのニーチェの永劫回帰、超人思想をもっともわかりやすく、面白く描いているのが、ハロルド・ライミス監督「恋はデ・ジャブ」になります。
グラウンドホックデイと呼ばれる祭りの日に取材にいった主人公が、退屈な1日を何千回と繰り返していくうちに、成長していく(超人になっていく)物語になっています。
題名からもわかるとおりラブコメディ風ですが、いかに人が変われないのか、また変わっていくのかを描いた良作です。
話をもどしますが、ニーチェの台詞の引用から、映画版の世界にも、永劫回帰としてのループ世界を暗示させている可能性もあるのではないかと推測できるのです。
巨人は神か、神の使いか。
原作とも関係してしまうところかもしれませんが、巨人=神ではないと思います。なぜなら、巨人をつくった存在こそが、神だからです。
巨人を作った神そのものもまた巨人という可能性もあるとは思いますが、映画版の進撃の巨人は、強烈に壁の外側が隠蔽されています。
映画の舞台となっているのは、長崎県にある軍艦島が撮影現場です。
映画監督である樋口真嗣監督自身が、軍艦島での撮影を当初から望んでいたというのは、町山氏の発言からもわかっています。
また、町山智弘氏が、TBSラジオたまむすびでも言っていましたが、日本人が演じるからキャラクターの名前が大変だったとおっしゃっています。
たしかに、進撃の巨人のキャラクターは、ドイツ系の名前です。
ですが、愛称とかそういうことにしてしまえばいい話で、なぜそこまでこだわるのか。
日本人として許容できる名前である必要があったのではないか。
今の日本で、リヴァイなんて名前の人はいません。エレンとかサシャとかであれば、ぎりぎりいるかもしれないレベルです。
そうでなければ、原作と映画というのは、まったく別物でいいわけですから、日本人名にこだわる必要はないのです。
そのこともあって、架空のファンタジー世界にみせて、実は、未来の日本の姿なのではないか。
それに加えて、プロモーション映像のナレーションが、なぜか林原めぐみです。
庵野秀明監督「巨神兵 東京に現わる」のナレーションも林原めぐみが務め、且つ、沈んだような声のトーンも口調も同じであり、樋口真嗣もかかわっている作品でもあることも考えると、関連性がゼロとは考えずらい。
そうだとすれば、なおのこと、この世界が文明が崩壊した東京なのではないかという邪推をしてしまいたくなります。
また、「告白」や「渇き。」で監督を務めた中島哲也監督が「進撃の巨人」の映画をつくろうとした際に、東京に巨人が現れるという内容にしようとしていたという話があるので、この予告編の内容も合わせて考えると、舞台が東京であるという設定が、後編で復活するのではないだろうかと考えてしまいます。
っていうのは、単なる邪推なわけなので、今回は割愛しますが、後編における様々な伏線が張られているところは、日本人名にこだわるというところ以外にも散見できますので、まだ見ていない方は、注意して映画をご覧いただければと思います。
ジャンルを飛び越える映画
映画版進撃の巨人は、いくつものジャンルを飛び越しています。
当ブログでも、ターミネーター1で紹介しましたが、一つの映画の中で作品のジャンルが変わっていくというのは、非常に物語に厚みを与えます。
まずは、パニック映画として始まります。
壁を見に行った3人。
そこに、超弩級の大型巨人が現れて、100年間安全だった壁が壊される。
巨人から逃げ惑う人々。
逃げる人たちに踏み潰されそうになったり、建物に逃げ込むものの、すし詰めになって巨人に食われるシーンなどは、パニックものとしてすばらしいです。
「炎628」という戦争映画をもとに作られたシーンということですが、僕は、ポセイドン・アドベンチャーを思い出しました。
判断を間違えば、次の瞬間には死んでしまう。
自分がもしその場所にいたとしたら、絶対に死んでるだろうなぁと考えさせてくれる傑作映画です。
ひっくり返り沈没しつつある船から、上を目指して脱出するジーン・ハックマン演じる神父がみんなを引き連れて脱出しようとします。
この神父もまた、神に見放されたと思いながらも神への反逆を行ってしまう人物として描かれています。
その中で、何も考えないで逃げ惑い死んでいく人々は、他人事のように思えません。
作中で、エレンがミカサのためにとった行動が、結果として自分を助けることになるシーンは皮肉そのものですし、逃げ惑う人々や、その中での葛藤といったものは、ポセイドン・アドベンチャーに通じるものだと思います。
ゾンビとしての巨人
漫画を読んでいるときはそう思わなかったのですが、実写版の巨人をみて、はじめてわかったことがあります。
それは、巨人というのは、巨大なゾンビなのだなぁということです。
ゾンビといえば、ジョージ・A・ロメロ監督が切り開いた「ゾンビ」をもとに、様々なアレンジが加えられ継承されるホラー映画の一ジャンルです。
巨人はゆっくり動いて、うめき声をあげたり笑ったりしながら、人々を捕食します。
また、巨人の身体というのはほとんどが、すごくだらしない身体をしています。
お腹がでていたり、極端にがりがりだったり。
とても肌を人前にみせられるような状態にはない人たちです。
そして、人間の顔をしていて、半分酔っ払っているような奇妙な怪物。
ゾンビのように血まみれではないですが、人間的でありながら、非人間という違和感が、生理的な嫌悪感を生み出して、実にきもちわるく見ることができました。
生理的嫌悪感というのが引き出されるという点においては、CGではなく実際の人間をつかってやっているというところがうまくいきているところです。
序盤では、遠近感がつかめず、全裸の男女が歩いているようにしかみえない場面もありましたが、後半になるにつれてそういった違和感はなくなります。
ゾンビ映画におけるゾンビは、必ず何かを象徴しているものです。
巨人そのものが、神(世間や空気)への支配を受け入れ、永遠に死ぬことのない存在、何も考えることのない人々を揶揄するものになっているのかどうかは、後編で明らかになるのではないでしょうか。
巨人達が、人間をとりあって食い殺すシーンなど、グロテスクなシーンがありますが、その生理的嫌悪感を高めるという点において、非常によくできた造詣だと思います。
アクション映画からウルトラマンへ
前半の主人公は闘うことができません。
闘うことができない状態では、巨人は恐怖の対象でしかないのですが、闘えるようになると、アクション映画に様変わりします。
それはさしずめ、ターミネーター1のサラ・コナーが、逃げるだけだったウェイトレスから、ターミネーターと闘う強い女性への成長する様そのものです。
また、ネタバレぎりぎりになってしまうのですが、原作を数巻読んでいる方は知っているので書きますが、後半はウルトラマンになります。
立体機動という、特殊な装置によって巨人と戦うのがメインではありますが、ある意味、ウルトラマン的要素による戦闘もまた、一つの見所だといえるでしょう。
ガメラで特撮監督をやったという樋口真嗣監督でありますので、やはり、そういったシーンについては、すばらしいできばえでした。
映画版におけるコメディ的要素。
さて、コメディとしての進撃の巨人ですが、
これは、町山智浩氏が映画ムダ話という有料の音声データ配信の、ゴーン・ガールの回で言っていたことです。
「脚本で、ギャグとして書いているにも関わらず、実際映像になったときには、大真面目に撮られていることがあるんですよ」
とおっしゃっていました。
「自分が書いた脚本でもそういうところがあった」という発言があったので、いったいどこがシナリオの意図と逸脱してしまった場所なのだろうかと思っていました。
が、あるシーンで、役者があきらかにすべっているような、見ていて恥ずかしくなる場面があったので、これであろうと思います。
ちょっとみんなから嫌われている男ジャンが、休憩中に「巨人にみんな食われてしまえばいいんだ、覚悟のできていないやつはいないほうがいい」みたいなことを言って、場が騒然とするシーンがあります。
カップルの片割れの女の子が、「もうやめてよ」と叫び、どうするこの雰囲気といったところで、
「巨人にちくびはあるのか?」
と、エレンが言います。
「な、なんだって」
「ちくびだよ。巨人にちくびはあるのか」
この台詞により、エレン以外の人間は巨人を見たことがないということがわかり、強がりを言っているジャンをコケにすると共に、みんなの恐怖感をやわらげようとするエレンの気遣いが感じられるはずのやり取りです。
ですが、今まで、ちくびとかいう単語は一度だって出ていません。
もちろん、これは穿った見方なのかもしれませんが、今までのシリアストーンの台詞から、なぜかここだけ浮いているように感じられました。
つまり、ココこそが、町山氏が言う、シナリオとしてギャグで書いたにも関わらず、撮影される段階では、監督から役者にいたるまで、みんな真面目に演じてしまったという場面ではないではないかと思ったのです。
そのあと。
石原さとみ演じるハンジが、
「巨人には性器がない。ゆえに、乳首はない!」
もう、笑うに笑えない。
役者も真面目なだけに、どう反応していいのか、いたたまれなくなります。
このことからもわかるように、コメディとまで言っていいのかわかりませんが、ギャグ要素が意図的にちりばめています。
ただ、ギャグとしての要素がシナリオにいれられているけれど、演出としてはシリアスな場面としてつくられている結果、ねじれが発生してしまっているのです。
しかし、そのねじれがあることを前提に考えると、実は不評と言われているドラマパートがそこまでおかしいものでもないことがわかります。
先ほど、長谷川博紀演じるシキシマが、ミカサにりんごを食べさせる場面があると書きました。
そのりんごを食べさせるシーンのわざとらしいこと。
また、その場面に登場する前に、エレンにりんごをぶつけながら「邪魔だったか」と言ってくるシーンなんて、なんで気づかないんだよ、と思ったりするのですが、これもまた一種のギャグと考えれば、それほどおかしくはありません(ギャグ的にもおかしくないのが残念ですが)。
物語上おかしいと感じる場面の多くは、うまくいっているかどうかは別として、シナリオ上はギャグとしてかかれた場面が多いのではないかと感じました。
神のみぞ知る評価
映画というのは総合芸術です。
町山智浩氏も述べていますが、映画におけるシナリオは骨組み。骨組みが悪ければそこにつく肉はおかしくなるし、バランスもおかしくなる。だからこそ、骨組みがいいだけでも、どうしようもない。
町山氏も過去の解説などで言うように、名匠キャロル・リード監督、オーソン・ウェルズ主演「第三の男」でも、有名なスイスのはと時計の台詞は、脚本にはなく、オーソン・ウェルズがその場で書いたものであったり、「ファイト・クラブ」において主人公がブルース・リーの真似をするのも監督であるディヴィット・フィンチャーの意図しないところであること。
また、役者の演技がわからないため、何度も撮影し、その中から選んでいたというスタンリー・キューブリックなど。
あげれば枚挙に暇がないほどに、映画というものは様々な偶然によってできるものなのです。
後編もありますので、最終的に、世間ではどういう評価になるかは神のみぞ知るところですが、近年の日本映画にはないスケール感。
深読みできる物語構成。
そもそも、賛否両論がでてくるという時点で決して悪くはないのです。
「進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」の後編にあたるエンドオブザワールドの公開が日に日に近づいていますが、改めて、進撃の巨人の映画について思いをはせていただければと思います。
冒頭でも書きましたように、少々長くなってしまったので、がっつりしたネタバレを含む場面や詳しい内容については、以下のエントリーに書いていますので、興味がでた方については、こちらも参考にしていただければと思います。
ついつい、長いエントリーになってしまいましたが、最後までみてくださった方、ありがとうございました。
以上「巨人にちくびはあるのか。コメディとしての進撃の巨人/進撃の巨人 ATTACK ON TITAN」でした!