物語は円を描く、さながら天使の輪のように。 『菊次郎の夏』
今日は北野武監督作品『菊次郎の夏』(1999年、121分)を取り上げてみたいと思います。
菊次郎と正男の夏休み
この話がどんな話かというと「菊次郎(ビートたけし)と正男(関口雄介)が遠く離れた地で暮らす母親に会いに行く」のが目的で、「結局、顔を見るだけで母親とは会わず、地元に帰る」という結末となります。
この作品は歴代の北野映画では最も上映時間が長く、ストーリーもわかりやすく、感動を提供する内容となっています。
祖母と二人暮らしの正男は、夏休みに遊びにも連れて行ってもらえず、友達も旅行にでかけたりしてやることがないのですが、偶然手に入れた母親の住所をてがかりに愛知県に向かおうとします。
子供一人では無謀だということで、よくわからないおっちゃんである菊次郎が引率することになります。
菊次郎は定職を持っているようにはみえないチンピラ風のおっさんなんですが、正男と同じように暇を持て余している状態なので適役ではありました。
ただ、旅費を使い込んだり、ことあるごとに他人と喧嘩するなど、かなりヤンチャで困った人物なんですけどね…。
どちらが主人公?
映画のだいたい半分過ぎくらいで、いろいろな事情があり「正男が自分の母親と会う」という目的が達成できないことが判明します。
その時間帯まで、この映画は正男の視点から組まれた映像が中心となります。
とくに正男が見る、様々な夢のシーン。
昼間起きた出来事を脳が整理して、再構築する映像の数々。
よく知らないおっさんに連れ回される不安感、母親に会えるという期待、普段の行動範囲を超えることの興奮、など色々な感情がないまぜになっているのが夢の中身からよく分かります。
正男は子供ですから自分の口ではっきりと感情を主張するわけではありません。その色々な感情を分かりやすく映像で見せる手法がいいな、と感じました。
自分も子供のときはこういう感覚で、夢をみていたなあ、という気分になります。
正男が母親と会えないことが分かった後、映画は今度は菊次郎の話へと変化します。
傷心の正男をどう慰めるか(天使の鈴、お祭りの露店、川辺でのキャンプなど)菊次郎は考えます。
そして、菊次郎自身もしばらく会っていない(はずの)母親に会いに養護施設に向かいます。そこには年老いた母親がいましたが、かける言葉もなく、菊次郎は顔を見ただけで帰るのです。正男と同じ状態ですね。
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というわけで、前半から中盤の主人公は正男、後半の主人公は菊次郎だといえます。
歩く二人
この映画は、二人が歩いているシーンがとても多いです。
北野監督は一作目の『その男、凶暴につき』から、「歩く」という動作を非常に好んでいます。
テンポに非常にこだわりをもっていたという岡本喜八監督は、役者の歩く歩数まで指示していたらしいのですが、そこまで厳密ではないにせよ、「歩く」という動作が一連の北野作品の一定のリズムを生んでいるのは確かです(そして、それは『座頭市』のタップダンスに結実します)。
さて、その「歩く」という行動・リズムを一度停止させることで映画にメリハリが出てくると思うのですが、『菊次郎の夏』にもそんなシーンがあります。
それはバスの来ないバス停(待合所)のシーンです。
自分もこのシーンは大好きなんですが、それはなぜかというと、この場面が映画全体を象徴しているからです。
バスの待合所は、田舎の一本道の中にぽつんと建っています。
そのまっすぐ伸びた田舎道は、あたかも彼らのこれまでの旅の道程と、これから進む道のりを端的にあらわしているかのようです。
また、草がぼうぼうと生えている様子が夏という季節を強調しています。
バスが来ず、車が通りかかっても二人を乗せてくれない。なすすべのない二人の様子がいい味をだしています。
さよなら、正男は走って帰る。
というわけで、父親のいない正男にとっては菊次郎が父親代わりになり、友達代わりにもなって旅を終えます。
はじめて見かけた時は、とぼとぼ歩くただの「陰気くさいガキ」だった正男に「おばあちゃん、大事にしろよ」と優しく語りかける菊次郎。
北野映画は「庇護する者」と「庇護される者」の関係性を描いた作品が多いです(『その男、凶暴につき』の我妻兄妹、『HANA-BI』の西夫婦、『BROTHER』の義兄弟など)。
この作品も菊次郎と正男は「庇護する-庇護される」の関係にあるのですが、ヤクザと喧嘩して怪我をした菊次郎を正男が介抱する場面があったり、二人とも親に名乗ることができないなど、従来の「縦の関係性」から、同じ痛みを共有する「横の関係性」が発生しているといえます。
旅の目的は達成できなかったけど、天使の鈴を鳴らしても天使はやってこなかったけど、忘れることのできない夏の思い出を手に入れた正男。
この映画の冒頭で、正男は羽根のついたリュックを背負い、天使の鈴を鳴らしながら走っています。つまり、菊次郎との旅を終えたあとのシーンを最初に持ってきているのです。
ラストシーンと最初のシーンが同じということです。
また、菊次郎と正男がはじめて会った場所も同じところで、旅を終えて二人が別れたのもほぼ同じ場所です。
この映画は、映画の始まりと終わり、菊次郎と正男の出会いと別れの場所を一致させるという、いわば円環構造を持った作品なのです。
そう、あの田舎の一本道を進んでいたらその道は、さながら「天使」の輪のように円を描いていたのです。
決して振り出しに戻ったわけではありません。旅に出る前と出た後で正男は確実に変化したのです。
菊次郎と会ったときにはとぼとぼと歩いていた道を、正男は今度は走って帰るのですから。
ブログ内の北野映画感想をまとめました。