死を前にして何をするのか。映画「ラッキー」感想&解説
映画「ラッキー」は、普通に見ている分には非常に地味な映画です。
老人の日常生活をひたすらに見せ続け、ふいに永遠に続くかと思われていた自分の生活に死がちらついたとき、その老人が何を思うのかといったところをみせる作品になっています。
ただ、その描き方や、受け入れ方は大変すばらしい作品となっていますので、どのあたりが面白く見ることができたのかを含めて解説してみたいと思います。
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老人の日常
ハリー・ディーン・スタントン演じる主人公ラッキーは、90歳の老人です。
物語の冒頭から彼の体の大写しから始まり、朝起きて筋トレをして、お馴染みの牛乳を飲み、いつものコーヒーを飲む、という彼の中の一連の行動が、ずっと行われてきたことがすぐにわかる映像になっています。
いつもの道を歩き、いつものダイナーで
「元気か」
と聞かれて
「ろくでなし(ナッシング)」
と言って返す。
いつもの席に座って、いつも通りクロスワードパズルを解く。
ありふれた田舎町で暮らす、老人の何気ない一日です。
ここでは、いつもの時間に仲間が来なければ心配されますし、軽口一つたたくのでも形式美となっている世界です。
そして、謎の場所に向かってラッキーは必ず「クソ女!」と言って、去っていきます。
彼は、かたくななまでにそれらの日常を守っています。
いたって普通にみえる老人の普通の生活の中に、何かが起こるというところが面白い導入部となっています。
死の気配
おそらく、ラッキーは、自分が死ぬなんて思いもしていない人です。
医者もまた、体は健康そのものだ、といっていますし、彼もまた筋トレやクロスワードパズル含めて自分が体にいいと思っていることを愚直に続けているからこそ、日常は変わらないと思っているのです。
ですが、デジタル時計が12:00を指したまま赤く点滅しているのをみたことをきっかけに、ラッキーの日常に変化が訪れるのです。
気を失ってしまったラッキー。
原因は不明です。
なんとなく、赤い点滅を見つめているうちに一種の催眠状態になったような気がするようにも思えますが、彼の日常がずれるキッカケになったのは間違いありません。
唯物論者
ラッキーは、映画の世界では珍しく唯物論者です。
「現実主義は、物だ」
と突然、いきつけのバーでラッキーは言います。
周りの人間は、何を言っているんだか、と思って聞き流しますが、ここからいえることは、彼は神を信じていない、ということです。
だからこそ彼は、自分のことは自分でやりますし、神が助けてくれるなんて思っていないのです。
だからこそ、自分の体が原因不明の事柄で倒れてしまう、ということにも納得がいかない。
そんな彼のいきつけのバーには、いろいろな人がいます。
デヴィット・リンチの亀
デヴィット・リンチといえば「イレイザーヘッド」や「マルホランド・ドライブ」、「ツイン・ピークス」といった名だたる作品の監督です。
そんなデヴィット・リンチ監督も出演しており、その役柄としては、リクガメを親友として一緒にいたものの、逃げられてしまった老人を演じています。
独り身の彼は、亀に自分が死んだあとに遺産を譲ろうとして弁護士に相談したりしていました。
それに対して、ラッキーがものすごく怒るのです。
ラッキーは唯物論者ですから、死んだ後のことを煽って、お金をもぎとろうとする弁護士に対して腹がたったに違いないのです。
しかも、自分の健康に対して不安を抱いているときに死を商売にしようとしている人間を見れば不快に思うのも無理ありません。
ネタバレ
さて、ここからネタバレになりますので、ぜひ、一度見てから改めて記事を見ていただいと思います。
ラッキーという映画は、老人が死に向き合う話というだけではありません。
死をにおわせる描写はいくつもあって、特にバーにるポーリーという男は、赤い光の中に入っていきます。
EXIT(出口)と書かれたドアがあるのですが、たんなる出口だとは思うのですが、ラッキーはその赤い光の中でたばこをふかし、突然目が覚めます。
また、象徴的なのは赤い電話です。
ラッキーはたびたび赤い電話をつかって誰かに連絡をしています。
ですが、彼は、独り身であり、肉親はいません。
そんな彼が連絡をするところなどあるはずがないのです。
夜中だろうと、昼だろうと電話をしているのですが、本当に通じているのかは謎です。
また、ラッキーが倒れていたときのデジタル時計の点滅も赤です。
この作品の中で、赤いものは死や悪いものの象徴のようにして描かれているのは面白いところです。
死ぬかもしれない。
とはいえ、少なくとも劇中でラッキーが死ぬことはありません。
(ただし、役を演じていたハリー・ディーン・スタントンは、撮影の1年後に亡くなっています)。
深読みしすぎることをすれば、ラストシーンは、煉獄のような場所にいるようにも見えますが、おそらく、そうではないでしょう。
彼は、いつまでも終わらないものに執着していたのではないかと思うところです。
変わらない日常。
でも、いつか終わりがくることを彼は悟ったのです。それは、必ずしも死ではないのですが、かわりゆくことに彼はあらがっていたのです。
その変化に気づいた彼は、自分の不安に向き合うようになっていきます。
老人の秘密
ダイナーで働いている女性が、ラッキーの家に訪ねてきます
そこで、ハッパを吸いながらラッキーと女性はテレビをみるのですが、そのシーンが非常に印象的です。
世界的なピアニストであったリベラーチェの映像を二人はみていて、ラッキーはぽつりと語りだすのです。
「俺はバカだった。ただの派手なゲイだと決めつけた。でも、演奏を聴き天才だとわかった」
ここだけ聞くとよくある話です。
一定以上の年齢の人であれば、時代的に同性愛者を厳しく非難していたのは当然でした。
特にカウボーイをやっていたような人たちからすれば(ラッキーはカウボーイではなく元水兵ですが)、同性愛者というだけで殺されても不思議ではない時代もあったのです。
だから、今の時代には合わないでしょうが、老人であるラッキーが、非難するような言葉をいうのはまぁよくある話です。
「なんで彼の性的思考にこだわっていたんだろうな。彼の好きにすりゃいいんだ」
時代は移り変わり、人の価値観も変わっていきます。
これもまた、必定といえるところでしょう、ですが、一緒にテレビを見ていた女性が驚いたのは次のセリフです。
「俺のはもうタタナイけど」
ある意味突然といえる言葉ですが、まぁ、つまり、ラッキーが独り身であるのも、自分自身こそが同性愛者だったからと告白したも同然です。
「俺の秘密を聞いてくれるか。怖いんだ。」
といったラッキーに対して
「わかっているわ」
というシーンは、胸に迫るものがあります。
同性愛者であることを隠して死んでいったリベラーチェ。
ラッキーは自分と重ね合わせてみていたことがわかりますし、同性愛を隠すためにあえてカウボーイのような、いかにも男らしい恰好をする、というのもよくある話だったりします。
それからラッキーは死を感じて何か備えることにした弁護士の話や、死体が転がっている中、笑っている少女の話をする退役軍人の話などを聞いて気づいていくのです。
受け入れること
セリフの多いシーンですが、物語の後半にいきつけのバーで、たばこを吸おうとして非難を受けるシーンがあります。
禁煙の場所で、たばこを吸おうとするラッキーにバーのママは注意しますが、ラッキーは従おうとしません。
「いつか、吸ってやる」
その反抗的な態度にみんなからいわれるのですが、彼は
「俺は真実にこだわる。真実は実態のあるものだ。向き合い受け入れることだ」
「どういうことだ」
「すべては無くなるということだ。管理者などいない。そこにあるのは、無(ウンガッツ)だけだ」
「ならどうする?」
とみんなは言います。
「微笑むのさ」
といって、いままで笑っていなかったラッキーは笑うのです。
で、やっぱりたばこを吸って、みんなは、笑いながら彼を見ています。
結局吸うのか、と思うところですが、ラッキーは悟ったわけです。
デヴィット・リンチ演じる友人の男もまた、逃げたリクガメを探すことをやめて、彼の努力や準備を邪魔していたのは自分かもしれないと考えなおします。
ラッキーが、自分自身の性愛を隠していたり、かつて行きつけだったイブの園というお店に対して毎日悪口を言っていたことも、すべては彼自身が決めていたことにすぎないのです。
管理者などいない。
自分が育てたサボテンよりもずっとずっと大きな植物たちを見て彼は、微笑み、歩いていきます。
映画「ラッキー」は、本当に地味な映画ではありますが、その日常の描写や、年月を重ねた主人公の機微に触れることができる映画となっております。
以上、死を前にして何をするのか。映画「ラッキー」感想&解説でした!