空っぽの人間がいる場所。是枝裕和監督「空気人形」
是枝監督といえば、「万引き家族」によって、法の外側でしか生きることのできない疑似的な家族のつながりを描き、「そして父になる」では、血のつながらない親子でも、本当の親子になれるのか、という現実を赤子の取り違え事件をもとに作り上げています。
そんな、是枝監督が、韓国の有名女優であるペ・ドゥナを主役にしてつくった映画「空気人形」。
この空虚な世界を生きる我々だからこそ、見てみる価値のある作品となっていますので、どんな見方が面白いのかを含めて解説してみたいと思います。
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人形が心をもつ瞬間
ペ・ドゥナ演じる空気人形は、いわゆる、大人な男性が彼女等の代わりに用いる人形を指しています。
そして、その空気人形の所有者は、板尾創路演じるファミレスに勤める男です。
彼は、職場ではうだつのあがらない男ですが、家に帰ると、ダッチワイフと呼ばれる空気を膨らませる人形を愛でながら生きています。
その溺愛ようはすさまじく、布団をかけて一緒に寝てみたり、食卓を一緒にかこったりと本物の人間のように扱っています。
その想いが通じたのか。
その空気人形は、ある日、人間のような姿になるです。
何もしらない空気人形が動き出し、はじめて、水滴に触れるさまは、感動すらあります。
「空気人形」は、その対象が、性的な玩具であることから敬遠されがちですが、生まれたばかりの生物が、このセカイの美しさに気づくところからはじまる物語となっております。
存在意義
「私は空気人形。性処理の道具です」
と似たようなセリフを何度もペ・ドゥナ演じる空気人形は言います。
作中では、自分自身が何者なのか、ということを何度も問うています。
ちなみに、ペ・ドゥナといえば、謎の怪物と戦う家族を描いた「グムエルの怪物」や、「マトリックス」シリーズでお馴染み、ウォシャンスキー監督の映画「クラウドアトラス」にも出演している世界的な女優です。
そんな彼女が、ダッチワイフとして裸を惜しげもなく見せるあたりは、国際的に大丈夫か不安になってしまうところですが、この作品は、決していやらしい感じには撮られていないのがポイントです。
というのも、本作品は、5980円で売られている大人のおもちゃであるペ・ドゥナ演じる空気人形がセカイのすばらしさに気づくと同時に、その中で生きる人々の空っぽさをみていく物語となっているからです。
「もってはいけない心をもってしまいました」
彼女は、何度も後悔するような素振りをしますが、心をもったことで彼女は、すこしずつ人間のことがわかっていきます。
その姿は、赤ん坊がまねをするようであり、彼女を通じてセカイをなぞっていけるような感覚を味合うことができます。
しかし、彼女は、自分が安物であることや、なぜ自分を作ったのかを考えます。
でも、考えてみれば、我々人間だって、そういう意味では彼女と同じなのです。
空気が入っているか血肉がつまっているかの差でしかなく、登場人物たちは、どこか空虚なまま生きています。
心の温かさ
「手、つめたっ」
と言って、幼稚園児はペ・ドゥナの手をはねのけます。
彼女は、そのことに傷つきますが、そのあとの老人が
「手が冷たい人は、心が温かいというからね」
といって、彼女は喜ぶのです。
本作品は様々な皮肉が描かれており、手が温かくても冷たい人がいるし、常に、何かの代わりを求めていることがわかってくるのです。
板尾という男
板尾創路演じる男は、ダッチワイフに心を与えるぐらい純粋だったのか、というとそうでもありません。
彼は、以前に彼女に振られたことで人間嫌いになってしまったのか、愛情や性欲を向ける対象を空気人形に向けた人物です。
でも、それは、ペ・ドゥナ演じる空気人形だけではなく、そのうち、別の新しい人形を購入してしまったりもします。
ちなみに、そういった性的な玩具の人形を扱った有名な映画として「ラースとその彼女」があります。
ライアン・ゴズリング演じる主人公は、まじめな男ですが、ある日、ダッチワイフを彼女だといって友人に紹介します。
はじめこそ戸惑う周りでしたが、主人公の人柄が非常に良い人なので、空気人形をまるで人間のように扱いだし、やがて、彼女が街の中で大事な存在になっていく、という映画です。
人形が直接動くというのも面白いのですが、人間ドラマが人形を通じてもたらされるという点において、驚異的な脚本力と、面白さのある作品となっています。
さて、「空気人形」は、空気人形を通じて、人々がつながってみたり、人の心の内面が映し出されることによって、弱い自分に向き合えたりする話ではありません。
空虚で、代わりを求めている。
ペ・ドゥナ演じる空気人形は、存在意義を求めます。
自分が5980円の少しお金があれば買えるような大量生産の商品であることにも衝撃を受けるわけですが、それは、心をもった自分が代替のきかないものになった、という思いがあったからではないでしょうか。
しかし、人々は、何かの代わりを求めます。
恋人の代わりに空気人形を買ってみたり、家族が家からでていったイライラをぶつけてみたり、いなくなった恋人の代わりを探してみたり。
そんな代わりばかりの世の中に、ペ・ドゥナ演じる空気人形は傷ついていくのですが、彼女は、ビデオ屋の男ジュンヤと親密な関係になっていきます。
内面が空虚な彼に、自分と似たものを感じ取るのです。
空気が抜ける
空気人形は、誤って空気が抜けてしまいます。
みるみるうちにビニールにもどっていってしまう姿は面白くも寂しげです。
「空気人形」では、ペ・ドゥナの裸が何回も現れます。性的な場面もでてきますが、いずれも、いやらしくは描かれていません。
ですが、ジュンヤが、ペ・ドゥナの空気を入れるときだけは、ものすごくエロティックに描かれます。
誰かに空気を入れてもらったのであれば、それこそが、かけがえのないものになれた、ということとして解釈していいのではないでしょうか。
ペ・ドゥナ演じる空気人形は、基本的には自分がされてうれしかったことは誰かにしてあげる、純粋な存在です。
そのため、ジュンヤに空気を入れてもらったことがうれしい彼女は、同じく、過去のトラウマによって、空気のような存在になってしまったジュンヤに同じことをしてあげたくなってしまうのです。
穴がないなら開ければいいし、ふさぐときはテープをつかえばいい。
そんな気軽な気持ちで、彼女はジュンヤを殺してしまいます。
時々、なぜ殺してしまったのでしょうか、と疑問に思う方がいるようですが、彼女にはまだ悪意というものがなく、純粋であるからこそ人を殺してしまったにすぎません。
アリや虫を大量虐殺してしまったとして、子供にその意味や意思をもっているとはかぎらないように。
あるとすれば、純粋な好奇心が大半でしょう。
また、ジュンヤは抽象的な意味で「僕も同じようなものさ」といいますが、ペ・ドゥナは、抽象的なことはわからないので、自分と同じ空気人形なんだ、と解釈してしまう悲劇もあったりします。
切ない場面
「白髪が生えててな。ショックやったわ。いつまで、お前とえっちできんねんやろ」
と、板尾演じる男は言います。
それは全男性にとって考えなければならない事柄でしょう。
ある意味、年をとらない女性が目の前にいるとして、その存在に対して、男として存在し続けることができるか、というのは、永遠の悩みといってもいいと思います。
また、自分の空気人形が心をもってしまったとわかった彼は「前に戻ってくれ」
といいます。
少年漫画であれば、心をもったことに喜んで、新たなストーリーがはじまるはずですが、彼は心のある女性などいらなかったのです。
心なんていらないと思っていたはずなのに、その人形に心が宿ってしまうという悲劇の物語というのが皮肉です。
また、ビデオ屋の店長も、朝ごはんをもりもりたべる元気で下品なおじさんかと思いきや、カメラがちょっと家の中をうつすと、家族がでていってしまったあとであろう、悲惨な状況が映ります。
ペ・ドゥナからみればなんともない世界でも、裏では、とんでもなく陰惨な状況になっていたりするのです。
「きれい」
とおそらく青森あたりのりんご農家出身の偏食の娘が、ごみステーションを見下ろして言います。
ペ・ドゥナ演じる空気人形は、ゴミステーションで空気が抜けていきます。
彼女が今まで集めた宝物に囲まれながら。
心を持ったからこその悲劇かもしれませんが、心をもったからこそ、彼女は、美しいものに囲まれることができたという、皮肉が込められた美しいラストになっています。
また、吉野弘の詩が本作品では印象的です。
詩の内容については別途検索をしていただければと思いますが、「空気人形」の中で、人々のかかわりについて、吉野弘氏の詩で示唆しているあたりは、洒落ております。
心をもった以上、彼女また生命。
であればこそ、彼女は、誰かにとっての虻であったかもしれない、のですが、それがよかったかわかるかったかも含めて、わからないのが世の中となっております。
心をもったことが悲劇なのか、いったい何が、その人を特別なものにするのかを知るためにも、素晴らしい映画となっております。
以上、空っぽの人間がいる場所。是枝裕和監督「空気人形」でした!