シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

世界は狂っていていい。ネタバレ感想。こうやって見た「天気の子」

天気の子

 新海誠監督は、「君の名は」で圧倒的な知名度と人気を得ました。

その新海監督による最新作「天気の子」は、物語的にかなり驚くことをやっています。

普段映画を見慣れない人もいると思いますが、本作品が、どんな特殊さがあるのか、シネマトブログ運営がどのように見て興奮したのかを感想&解説をしていきたいと思います。

ネタバレしておりますので、ぜひ、映画をご覧いただいてから本記事を見ていただければ幸いです。

あるいは、そもそも見る気がないけど、内容やテーマについて知りたい方はぜひ見てもらえればと思います。

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ストーリーと設定

まずは、「天気の子」のストーリーをざっくり書いてしまいます。

家出少年である帆高(ほだか)が東京に出てきますがすぐに挫折します。そんな彼が、祈ることで天気を100%晴れにすることができる少女陽菜と出会い、セカイを変える力を得ながら、自分たちの生きたいように生きようとする典型的なボーイミーツガールものとなっています。


設定は、雨が2か月以上も降り続ける東京が舞台となっており、新海誠特有の現実よりも美しい東京を見ることができます。

帆高は16歳の男の子で、何の力もありません。

理由は後述しますが、ほとんどお金もないままに家出をしてきて、駆け出しのミュージシャンがやりそうな、東京にでてくればなんとかなると思った、といった若者らしい突っ走りで東京にでてきました。

結局、ネットカフェに泊まったり、ネットの書き込みで自分の足りない知識を埋めようとしますが、あっという間に挫折します。


結局、彼が東京に着く前に知り合った大人である、須賀というおっさんに助けてもらうことで、なんとか自分の居場所を作っていくのです。

 

少年からみた物語

物語全体の結論から話をする前に、主人公である帆高の成長についてみていきたいと思います。

「天気の子」のパンフレットでも新海誠監督が以下のように書いていますが

帆高は家出をして東京に出てきますが、その家出の理由を劇中では明確に語っていません。トラウマでキャラクターが駆動される物語にするのはやめようと思ったんです。

天気の子 劇場パンフレットより

 

たしかに明確には描いていませんが、帆高は、陽が射すところを自転車で追いかけて、ようやく、たどり着いたと思ったら、自分の届かないところへ光が行ってしまった、と語っています。

映画をみている最中、家出の理由はなんだったんだろうと頭をちらつきました。

親との不仲。

コンプレックス。

最後まで明かされない中で、そのシーンをみて、主人公が物語の前半で、顔をばんそうこうだらけにしていた理由もわかるのです。


この物語は、少年のビルディングスロマンともなっていて、J・D・サリンジャーの名作「ライ麦畑でつかまえて」をもってでてきた少年の、世間とか社会とかと合いなれないながらも、どこかで信じようとしている物語になっているのがじわじわとわかります。

絆創膏については、書くまでもないかもしれませんが、帆高が、陽を追いかけて何度も自転車で転んだから付いた怪我です。

それだけ、何度も転んでたどり着いたと思ったものが、自分の手からすりぬけていく。

その光を追いかけた先が雨の降る東京であり、そこに、女の子がいた、という話なのです。

少年のごくごく純粋な好奇心だとか、島に住んでいて若者特有の閉そく感の中で、息苦しさから抜け出して、自分自身をためしてみたいという純粋さを、帆高は持っています。

疑似家族ものとして

「天気の子」をみていてふと是枝監督映画「万引き家族」を思い出しました。


直接的な関係はないと思いますが、「天気の子」における帆高は、家族(居場所)を求めています。


さんざん世間の冷たさに触れた彼は、唯一自分に優しくしてくれた須賀というおっさんと、夏美さんと出会うのです。

単なる小間使いのように生活する帆高ですが、3人の歩く姿を後ろからうつしたショットがあり、その姿はまるで親子のように見えます。

東京で居場所をつくった少年は、今度は、自分で家族(居場所)をつくりにいき、やがて、疑似的なものではなく、本当の居場所をつくっていこう、という物語になっているところも、多層的な表現になっていて面白いです。

 

陽菜、凪と3人でいるシーンも、凪を子供にした夫婦のように描かれている場面があるのは、疑似的な家族をつくりたい演出意図が見えるところです。

補足として横道にそれますが、「万引き家族」は、まさに疑似家族の物語となっており、血はつながっていないけれど、彼らは家族として、しかし、法の外でしか生きられない人たちを描いています。

虐待されていた子供を拾ってきて家族にしたり、万引きの仕方しか子供に教えられない親(リリー・フランキー)だったりするのですが、彼らは家族であり、そこにしか彼らの居場所がなかったりするのです。

 

cinematoblog.hatenablog.com

 

最終的に、その疑似家族は崩壊してしまうもので、でも、そのあとに本当の絆が描かれるところではあるのですが、それについては、上記の記事をご覧いただければと思います。

いずれにしても、「天気の子」が単なるボーイミーツガールだけではない映画であるところが魅力です。

陽菜という子

陽菜という女の子は、帆高にとってのファムファタールとなっています

ヒロインとしての純粋さをもっており、水商売で稼ごうとしてしまう危うさがあったりはしますが、基本的には純粋な女の子です。


母親が死んでしまったことで、弟と二人暮らしをしているのですが、お金などあるはずもなく、豆苗を育ててみたり、ネギを育ててみたりと、圧倒的に家庭的な子になっています。

「天気の子」の世界の東京は、就職難が続いており、人手が余っているのか、労働条件は決してよくないようです。

その中で、未成年の子供二人が生き延びるというのは並大抵のことではありません。

陽菜は、天気と繋がることで晴れを生み出す力を得て、その能力によって、自分が消えていく、という代価を支払わされます。


このあたりは、新海誠監督らしいセカイ系の人としての表現であるな、と思います。


自分を犠牲にすることでセカイが救われたりする、という物語や、謎の奇病とか能力とかの影響とかっていうのは、よくつかわれる表現です。

「天気の子」が雲の上にとらわれてしまう少女の話となっていることから、どうしても、ビジュアルアーツキーによる「AIR」を思い出してしまうところです。

 

 

どこかにありそうな田舎の町にいる女の子のもとに、人形遣いの男が出会う。

その女の子は空の上にとらわれており、少しずつ子供に帰っていってしまって、いろいろなことができなくなっていき、といった、いわゆるセカイ系の物語となっています。

その「AIR」を彷彿とさせる「天気の子」の設定。

「AIR」では、主人公はカラスに生まれ変わって、結局、傍観するしかなかったりする悲劇を描いていますが、「天気の子」は、全然違う話になっていて度肝を抜かれました。

この雨は生きている

「天気の子」で驚いたのは、そのビジュアルの美しさだけではありません。

数作前の「言の葉の庭」では、雨の日に出会った男女の物語が描かれており、雨が彼らを社会から隔絶するものとして、美しいものとして描かれています。

 

cinematoblog.hatenablog.com

 

リアルな雨にこだわっていた「言の葉の庭」と違って、「天気の子」は、生き物としての雨になっています。

魚のような水。

まるでジブリ映画をみているような、水難だけど生きているように見える表現が「天気の子」では気になる特徴となっています。

今まで、新海誠が美しい風景として描いていたものを、それもふくめて生命として描いているところに、東京という場所の逞しさをみてとれるように思ったところです。

 

狂っていていい

さて、「天気の子」をみて度肝を抜かれたところ、それは、主人公が「世界が狂っていていい」と言ったところです。


そして、大人たちがそれに対して、責任を必要以上に負う必要はない、といったところです。


何を言っているのか、と思う方もいるでしょうが、本作のような物語での終着点は、雨が晴れることにあるはずです。


異常気象によって2か月以上雨がふる東京。

それって、もう壊滅的な事態です。

だから作中でも、レタスの価格が3倍に上がってしまったり(雨で農作物が作付けできなかったり、病気でやられたりして、大変なことになっていることがわかります)、交通網も影響がでますし、普通に生活している人たちが生活を営めなくなってしまうのです。


陽菜という女の子が天気を操る力をえて、人柱として自分をささげれば、雨が止まる。

しかし、雨が止んだとしても、帆高の前から陽菜はいなくなってしまう。

普通の物語であれば、

そんなことは許さないとばかりに、青春一直線の力をつかって、まぁ、いわゆる想いとか気合とか、純粋な気持ちとか、そういう超常的な力を超える力によって、犠牲をださずに晴れて、大団円を迎えるのが物語の本来の落としどころでしょう。

でも、「天気の子」は、一度東京が晴れますが、帆高が
「雨が降り続けたっていい」

と言って、陽菜を助け出し、世界が壊れることを肯定するところに物語の新鮮さがあるのです。

彼らの罪

物語を考えるうえで、どうしても気になってしまう部分というのはあります。


たとえば、主人公が自分の知らないこととはいえ誰かを傷つけたり、取り返しのつかない間違いをしたとします。

でも、敵が倒されてハッピーエンドとなった場合に、主人公が傷つけた人たちとか、困った人たちを放っておいて、登場人物のまわりだけよかったね、とすませていいのか、という問題があるわけです。

敵にだって家族がいるわけで、魔王にだって大事な人がいるかもしれないわけです。

それを、一方的な自分の事情を正義と信じていいものか。

そんなもの関係なく、あくまで、きみとぼくとの壊れた世界を楽しもうっていう物語は、数多くでてきています。

多くの主人公たちは、そういった罪悪感をかかえながら生きていますが、「天気の子」では、どうでしょうか。

帆高は、再び東京に雨を降らしてしまい、3年間も続く大前によって水没した街に対して罪悪感を感じています。


でも、この映画で大人たちは、そんな彼に言うのです。

「うぬぼれてるんじゃねーぞ」

「東京はもともと沼地だった。だから、もとにもどっただけだよ」

罪を忘れてしまってはいけないわけですが、すくなくとも「天気の子」では、もともとくるっていたセカイに対して、過剰に自分だけが加害者だとか思うんじゃない、と言っているのです。


もちろん、帆高と陽菜には雨を止める力はあった。

その結果、瀧くん(特別出演)のおばあちゃんは家を追われてしまったりしましたし、おそらく、その結果亡くなった人だって多くいたでしょう。

でも、そんな被害とか犠牲を全部自分のせいだと思うのは、うぬぼれていると言っているのです。

セカイ系の物語というのは、どこまでも自分の中でしか完結しない物語です。

セカイ系で有名で、かつ、京都アニメーションの代表作の一つ「涼宮ハルヒの憂鬱」は、ハルヒという一人の女の子によって世界が終わってしまうかもしれない物語となっています。

自分の状態次第で世界というが変わってしまって、それに対して、何か責任を負い続けなければならない。そうだとするのであれば、世界はあまりに息苦しい。

 

 

帆高にとって、島での生活は息苦しかったでしょう。物理的な閉そく感もあるでしょうし、どこかわかりあったセカイ。生活には困らず、特別なイベントも起こらない世界。


でも、だからといって、誰かが困ったりつらい思いをしたとしても、その中でしっかりと生きている人はいるのです。


ふり続ける雨の中でも人々は花見をきにしてみたり、船を使ったりしてそれなりに力強く生活しています。


崖の上のポニョ」でも、津波にあった人たちは、別に悲壮な感じはありません。
大災害というのは大変なことではありますが、人間というのは、そんなことでめげたりはしないのです。

 

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「天気の子」でいえば、水商売に連れていかれそうになった陽菜を助ける帆高。

そこで陽菜が怒ること同じです。

俺が助けなきゃ、と必要もしていない相手に自分が慈悲を施そうなんて、自分を何様だと思っているのだ、という話なのです。

ハンバーガーのお礼とか思っているわけ」

というわけですが、人それぞれ事情があって、その中でみんな一生懸命生きているのを、すべて自分が救ってあげられる、と考えるのはおこがましい話というわけなのです。

大人と穂高の対立

「なんで、邪魔するんだよ!」

と帆高は叫びます。

ここで邪魔をする存在は、刑事たちであり、大人たちです。

須賀という男は、体制側(大人)たちであり「大人になると優先順位をかえられなくなるもんなんだ」といったことをいったりする、子供よりではあるものの、やはり、須賀という男もまた大人側です。

帆高に対して指導する側であると同時に超えなければならない存在として描きつつ、でも、最後の最後には、帆高を助ける存在になります。


また、夏美という存在は、女子大生という立場であり、大人でもなく、帆高たちよりは子供ではない、という状態。中間的な存在となっています。

おそらく、夏美が就職をしてしまっていたのであれば、帆高たちを止める存在になってしまっていたでしょう。


帆高たちは、そういう大人たち、常識、そういったものから逃れるためにもがくのです。

「鳥居にけば、陽菜にあえるんだ」

という帆高と、とにかく、逮捕されるわけじゃないんだから、警察に出頭しろという須賀。

客観的にみたら、どっちが正しいか一目瞭然です。

16歳の少年が頭がおかしくなっているようにしかみえません。

でも、「天気の子」をみた我々ならわかるはずです。

なんで、帆高をとめるんだ、行かせてやれよ、と。

そういう彼らを邪魔するものなんて取っ払ってしまえばいい。


その結果、世界が狂ったままだとしても、それはそれで、しょうがないし、セカイが壊滅したって、人々は力強くその日を生きていく。

だから、そこに余計な責任を考えなくてもいい。

だっても、もともと世界は狂っていたし、そういうものでしょ、という主張があったことに衝撃を受けました。


この振り切り方というのは、ルールとか法律とか倫理とかそういったものを守らないことで糾弾する人々が増えた世の中では、強烈です。

何かにつけて賠償しろ、とか、責任をとれ、という世の中で、帆高と陽菜は、ある意味において無責任な行動をしたわけです。

自分たちを優先して、多くの人達の生活を混乱させた。

でも、それでも人々は生きているし、主人公が「僕らはきっと、大丈夫」といった、発言は、一見無責任でもあるし、それ以上に、すべてを包括した力強い言葉にも思えるのです。

 

補足

長くなりましたので、補足をして本記事を終えますが、今回は、貧乏を楽しんでいる、というところも面白く見ることができました。

「君の名は」の主人公たちは、良くも悪くもお金持ちです。

 

cinematoblog.hatenablog.com

 

東京でパンケーキを食べるとか、田舎とはいえ大きな一軒家に住んでいるとか、裕福です。

一方で、帆高は家出少年とはいえ、そのハンバーガーのおいしさに感動してみたり、ヒロインが育てた豆苗や小ネギを切って料理に入れたチャーハンに感動してみたりする庶民派っぷりはなかなかありません。


また、三人でブティックホテル(ラブホ)に入って、そこにあった、電子レンジで温めるたこやきとか、からあげくんとか、カップヌードルなんかを片っ端から食べる贅沢さ。

これは、パンケーキとは違う贅沢さがあります。

貧しいけれど彼らにとっての心の豊かさがわかりますし、中学生たちの考える豪華さというほほえましさと、それを豪華と感じる彼らの状況の皮肉さが見事に描かれています。

 

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「天気の子」のうまい点は、アニメ「タイガー&バニー」よりも巧みにちりばめられたスポンサーとのコラボでしょう。

東京の街の看板はいいとして、女性向け求人広告の宣伝カーがでてきたり、カップヌードルは2分がうまい、といったCMとのコラボだったり。

料理動画サイトである「クラシル」にレシピをつくってもらい、ポテトチップスのうすしお味をつかったチャーハンを作中で調理。

さらには、それをローソンでも売ってしまうという商魂たくましい連携っぷり。

今までの作品でもちらほらやってはおりましたが、ここまで露骨に、しかし、観客側からすれば、どことなく「天気の子」のセカイに近づいたような気になれる演出が面白いです。


さて、長くなりましたが、「君の名は」から3年が過ぎて公開された新作は、物語的な振り切りもさることながら、映像の美しさ、また、スポンサーとの連携を含めて非常にうまい作品となっています。

後日に見直すのも面白いとは思いますが、こういった流れの中で作品をみて、同時代を生きるというのも、面白い体験になりますので、すでにご覧になっているとは思いますが、いろいろな楽しみ方を実践してみても面白いかもしれません。

ちなみに、作中にでてくる「うすしおすご盛りチャーハン」は、さっそくつくってみましたが、ポテトチップスがすぐに柔らかくなるので、まぜるタイミングが重要であることをお伝えいたします。

 

以上、世界は狂っていていい。ネタバレ感想。こうやって見た「天気の子」でした!

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