放課後を待ちながら/内田けんじ「アフタースクール」
内田けんじ監督といえば「鍵泥棒のメソッド」で日本アカデミー賞で最優秀脚本賞も受賞し、そのストーリーづくりに定評のある監督です。
パズルのようにくみ上げられたシナリオ術は、物語を書く人間は一度はみておいて損はないものとなっています。
見ている人は誰しもが騙される、といわれたこの作品。
(キャッチコピーは、甘くみてるとダマされちゃいますよ)
表のスジと、裏のスジにわけつつ、内田けんじ監督の「アフタースクール」について、ネタバレを多分にいれながら解説していきたいと思います。
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途中まからネタバレを書いていきますので、気になる方は是非ご覧のあとに記事まで戻ってきていただけるとありがたいです。
映像による省略した説明
この作品は、冒頭から見事です。
小学生のときに、女の子が男の子に下駄箱の前で手紙を渡します。
そして、その笑顔のまま、二人は一瞬にして大人になり、彼女のほうは大きなお腹をかかえています。
内田けんじ監督は映像をうまくつかって説明を省く、ということを効果的につかう監督です。
前作「運命じゃない人」においても、冒頭のシーンにおいて、何もキャラクターが語ることなく、その行動と映像だけで、彼女がどんな状況にあったか、どんな気持ちかまでもがすぐにわかってしまう秀逸な場面が撮影されています。
映画というのは、編集が命と言われています。
フィルムのつなぎ方一つでその映像の意味は大きくかわる、ということについては映画関係の本を読んだことのある人であれば幾度も聞いたことのあることだと思います。
無表情の人間の顔がでてきて、次に、食べ物の画像がでてくる。
そして、再び同じ顔に戻った場合、その人物はお腹がすいているように、視聴者は考える、という映画の基本的な考え方です。
この食べ物を、新築の家にすれば、家が欲しいと思っていると想像するでしょうし、別の人物であれば、その人のことを考えているように錯覚するのが映画の基本的な要素となっているのです。
「アフタースクール」は、そういった意味で、映画の文法というものを知っている人のほうが騙されやすくなっており、脚本的にも、映像的にもよくできた作品となっています。
妊娠中の妻をおいて不倫で失踪
物語としても、これは騙しの物語となっています。
表のスジとしての説明をしますが、実際は、そんな話しではありません。
ただ、視聴者側からはそう見える、という前提で書いていきます。
そのあたり、ウィキペディア等でかかれているあらすじは、嘘を書かないように、あらすじがものすごく簡略化して書いてありますので、映画を見た後に、気が遣われている感じを確認するのも面白いかもしれません。
さて、早速ここからネタバレとなります。
視聴者側の立場としてみていると、常盤貴子演じる女性は、妊娠しており、堺雅人演じる木村は、妊娠中の妻を置いて、しかも、大泉洋演じる神野に妻を頼んで、不倫旅行にいってしまいます。
いくら親友とはいえ、妊娠中の妻を「あとは頼んだぞ」なんて言って、大泉洋も悪い顔一つしません。
また、同じ部屋で「しっかりしてもらわないと困る」と何度も言う、いかにも常盤貴子のお父さんみたいにぐるぐるまわるおっさんもいて、一見すると家族と、おせっかいなその友人の図にみえます。
そこに関わってくるのが、佐々木蔵之助演じる探偵北沢です。
北沢は表では大人のおもちゃを経営し、裏の家業として探偵(正確にはなんでも屋。鍵泥棒のメソッドでいうところの香川照之演じる男と同じような職業)をやっている男です。
その男が、堺雅人演じる木村と、一緒にいた女性を探すことから、視聴者も巻き込んだ騙しの物語が始まるのです。
アンジャッシュ的勘違い
映像的な騙しをうまく使っている点、物語における騙し、色々な騙しあいや、表と裏があるところが本作品のポイントとなっています。
佐々木蔵之助演じる探偵は、自分が騙している側にいるにもかかわらず、気づいたら自分のほうこそが騙されている、という立場になっています。
違和感があるなぁ、という場面を見過ごしていると、実際に、その違和感は間違いではなかったことに気づいたりするのです。
探偵の男が、失踪した堺雅人を探すために、卒業名簿を入手。卒業生の名前をかたりながら、綱渡りのように大泉洋とやりとりをする場面は、ハラハラしながら見ることができる騙しの場面です。
前半は、ゴドーを待ちながら。
実際は、違うのですが、視聴者側からすると、この物語は、有名な舞台劇である「ゴドーを待ちながら」に似た印象を受けるところが面白いです。
「木村って、どんなやつだ」
「どんなやつって、いいやつだよ」
カフェのテーブルで張り込んでいる神野(大泉洋)と北沢(佐々木蔵之助)が、木村(堺雅人)について切り込んだことを聞いてきます。
物語を最後までみると、このやりとり自体、北沢の深読みしすぎな場面なのですが、この時点での視聴者は、北沢に感情移入しているはずです。
つまり、大泉洋は堺雅人の親友として、長年付き合っているが、妊娠している妻を大泉洋にまかせて、自分は、若い女と不倫している。
そんな男に対して「いい奴だ」とかいってしまう時点で、人間の裏ってものをわかっていない、と北沢は言っているわけです。
物語の冒頭にでてきただけで、ずっと姿を現さない木村という男そのものが、どんな人物だったのか、ということが、浮き彫りになってくる構造になっています。
会社の金を取ろうとする人間で、大泉洋を騙す、お前は本当の親友の姿なんてわかっていないだろ、と北沢は言いたかったのでしょう。
いつまでも現れない、謎の人物
「ゴドーを待ちながら」は、劇作家サミュエル・ベケットによる戯曲です。この作品は解釈は色々とありますが、決して現れることのないゴドーという人物について語るという物語です。
それが神(ゴッド)なのかは語られませんが、わからない誰かを語るという物語として、前半を見ることができるのも面白いところです。
ちなみに、ゴドーを待ちながらを意識して作られた作品としては、小説としては吉川栄治賞を受賞した「田村はまだか」。
同窓会の2次会で、田村という男を待ち続ける話しであり、田村という人物が連作短編の中で語られていきます。
映像作品でいえば、「桐島、部活やめるってよ」などは、ゴドーを待ちながらのテイストをうまく生かしながら作品にいかした物語です。
学校中の人気ものであり、人望もルックスも全て兼ね備えている桐島という男が、ある日部活を辞め、学校に来なくなるというところから学校中がパニックに陥っていくという物語です。
桐島という人物は最後まで姿を現すことなく、しかし、画面の外で桐島という人間はずっと影響を与えつづけています。
その中で、学年で2番手だった男の苦悩や、学校のヒエラルキーなど気にしないで生きている神木隆之介演じる男の子など、いつまでも主人公が現れない学園ものとして描かれています。
しかし、「アフタースクール」では、物語の後半、堺雅人演じる木村は、あっさり現れます。
反撃のはなし
堺雅人が現れてからは、さらにひっくりかえしがありますが、基本的には、ネタばらしになっていきます。
裏の存在だと思っていたはずの探偵こそが、裏のことなど知らないままにいて、全てを知っていると思い込んでいただけの人物になってしまいます。
トランプの大富豪(または大貧民。アメリカ大統領ではありません)でいうところの革命のような行為が物語の中で行われるのです。
社長相手に「ビールでいいですよね」
といって、不敵な笑みを浮かべる堺雅人。
不自然と思われる行動の一つ一つが、意味ある行動となっていくところが内田けんじ監督の脚本術の見事なところです。
何がアフター・スクールなのか
題名にもなっている「アフタースクール(放課後)」ですが、佐々木蔵之助に向けたものではありますが、教師として多くの生徒たちをみてきた大泉洋演じる神野の台詞に重きをおいたものだと考えられます。
「どの学年にも一人ぐらいいるんだよ。お前みたいなやつ。全部わかったような顔してさ」
学校をちゃんと卒業できなかった人間は、永遠に放課後をやっているに過ぎない、という手厳しい言葉と受け取ることができる台詞がでてきます。
人生がつまらないのは、まわりが悪いからではなく、その人自身がつまらないからだ、ということを言ってくるのですが、平凡な教師でしかなかった神野と、大手企業に勤めているとはいえ平凡なサラリーマンでしかない木村が、放課後を過ごしているやつらに対して、復讐をしかけようとする話しだと、考えることもできるのではないでしょうか。
この作品は、冒頭でも書いたように、いくつもの「騙し」がいくつも重なっています。
映像的な騙し、物語そのものの騙し、物語の構造そのものの騙し、それもこれも、パズルのように組み込んでいった脚本があるからこそできる芸当だといえるでしょう。
とはいえ、なぜ、大泉洋が覚悟を決めていながら高級車を買ってしまったのか(ファミリーカーではなく)、という疑問はないわけではありませんが、どんでん返しが好きな人であれば、見てみて損の無い映画です。
改めてその映像による省略や、映画的文法を逆手にとった物語の見せ方は面白いところですので、二度目をみるときにはそのあたりを気にするのも面白いかもしれません。
以上、放課後を待ちながら/内田けんじ「アフタースクール」でした!
「アフタースクール」は、TBSオンデマンドでも見ることができます。
また、当ブログでは、内田けんじ監督の以下の記事も書いております。