疑心暗鬼になった男の末路/黒澤明監督「蜘蛛巣城」
黒澤明映画の中でも評価の高い作品の一つに、「蜘蛛巣城」があります。
シェイクスピア「マクベス」をもとにして作られた作品であり、黒澤明による映像や、日本の戦国時代に置き換えた内容は、今見ても色あせることはありません。
「蜘蛛巣城」について、どういった物語なのか、見所を含めて解説してみたいと思います。
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疑心暗鬼に陥る男の話。
シェイクスピアといえば、説明するまでもない世界的で最も有名な劇作家です。
「蜘蛛巣城」は、シェイクスピアのマクベスの内容を、ほぼそのまま戦国時代の日本に置き換えた作品となっており、人によっては、そのまま過ぎると思うかもしれませんが、「マクベス」の上に、黒澤明による脚本・演出が加わるところに面白さがあります。
主人公である三船敏郎演じる武時は、森の中で出合った老婆に予言を伝えられます。
それは、武時が北の館の主になり、さらには蜘蛛巣城の主になること。
また、一緒にいた友人の三木が一の砦の大将となり、その息子が蜘蛛巣城の主になる、ということでした。
この予言の通りに物事が進んでいく中で、三船敏郎演じる武時が、どんどん周りも自分自身も信じられなくなる、という話しが「蜘蛛巣城」の概要となります。
はじめこそ、武時は老婆の予言を気にしないように努めますが、山田五十鈴演じる妻にけしかけられて、周りを疑い、結果として、出世していくことになります。
疑う心が暗闇に鬼を生む
「予言のことが大殿の耳に入れば、謀反の恐れありとして、切られますよ」
予言通りに「北の館」の主になった武時は、妻に主君を殺すように持ちかけられます。
予言の通り物事が運ぶのであれば、旦那が城主になるわけです。
武時は、妻の言葉巧みなやりかたによって、心が揺れ動きます。
妻が言っていることは一理あり、一理あるだけに、彼は疑心暗鬼に陥るのです。
「蜘蛛巣城」の面白いところは、森で出合った老婆の予言によって疑心を植えつけられることです。
戦国時代の世の中とはいえ、武時は主君に対して忠誠を誓っています。
しかし、貴方は蜘蛛巣城の城主になるということは、それはそのまま主君を殺すことになるのです。
今まで、考えたこともなかった事柄。
しかし、言われてみれば実現できてしまう物事を教えられることで、武時は、徐々に心を持ち崩していきます。
一度疑ってしまえば、暗鬼が生まれます。
根も葉もないと思われる予言によって殺されるかもしれない、という恐怖が暗鬼となり、暗鬼が疑心を深める。
「蜘蛛巣城」に関して言えば、予言がなく、且つ、妻が武時に吹き込むことがなければ、彼は北の館の主として満足した生き方をしていたかもしれません。
ですが、老婆と出会い、妻にたきつけられることによって、彼は主を殺すことになるのです。
悪女。
シェイクスピアの「マクベス」においても、主人公の妻が重要な役割を果たします。
マクベス夫人は、王の酒に毒を盛り、動揺したマクベスをかばいつつ、王にしようとします。
「蜘蛛巣城」でも、奥さんがたまたまやってきた城主と近衛兵に薬を盛り、三船敏郎をけしかけます。
そこまでお膳立てされてしまえば、もう殺さざるえないという状況にもっていったのです。
奥さんがどこまでいっても強烈です。
予言の通りになると思った武時は、城主を予言で言われた三木の息子に譲ると言い出します。
子供のいない武時は、それが正しいのだと思うのですが、奥さんはそうさせません。
「子供は、私が生みます」
年齢ははっきりとあかされませんが、結構な年齢に見えるにも関わらず子供を宿してまで夫を踏みとどまらせようとするその姿勢。
地位や名誉に対して執着しているのは奥さんのほうなのです。
罪悪感
三船敏郎演じる武時は、非常に優れた武将という風に劇中で評価されているのですが、非常に弱い人間として描かれています。
妻の言動で心を動かし、何度も城主への感謝を述べながら、結局城主の地位になってしまいます。
そして、城主の地位を譲るとしながら、結局、居座る。
宴会の席では、亡霊におびえ、錯乱します。
妻は、それでも「最近の城主は、お酒が入るといつもこのようになるのです」
と、無理やりやり過ごそうとしますが、その醜態をみても、武時の精神が普通ではなくなったことがわかります。
ただ、悪妻であった奥方もまた、見えない恐怖にとりつかれ、血の手を洗い続けるという行動に走ります。
もはや、蜘蛛巣城の臣下たちからは信頼を失っていき、武時はますます孤独になっていくのです。
孤独になっていた彼が頼るのは、結局、森の中の老婆だったりするのが、人間の悲しいところです。
「森が動かぬ限り、戦に破れることはない」
と言われ、武時は安心してしまいます。
部下たちの前でも、そのことについて演説します。
「森が動くと思うか!」
大勢の前で演説しますが、部下の心が離れていくのがわかるようです。
最後には「しまった。わしとしたことが」といって、三船敏郎は、随一の武力を持ちながら、物の怪の言葉に頼ってしまったために、勝てる戦で負けてしまうのです。
森が動かなければ負けないいっているところで、ちゃんと森が動いているように見せる映像の面白さがあります。
森の老婆は何者か。
霧の中から現れる老婆は、枠せ輪(わくかせわ)とよばれる糸をつくる道具をつかっています。
見るからに人間ではない存在なのですが、糸繰りの道具をつかっている姿は、能において重要な道具となっています。
能と蜘蛛巣城の関係については、他の方が書いているブログ等を参考にしていただきたいと思いますが、糸繰りをつかって現れる老婆は、物の怪だ、というのが、道具をつかっている姿でわかるようになっています。
その姿は、能の演目の一つ「黒塚」で登場する鬼婆そのものだからです。
小道具や、引きのおおい舞台を意識したようなカット割等は、日本の伝統芸能である能を意識してつくられています。
そのため、城主を殺害するところなどでは、カメラが概ね固定されたまま、三船敏郎がフレームの中に出たり入ったりを繰り返すなど、舞台としてのカメラワークが意識されています。
シェイク・スピアを下地におきながら、日本の能を取り入れる、という伝統と伝統を掛け合わせている、というところが魅力の一つとなっています。
映像的な見所
蜘蛛巣城の見所といえば、ストーリーよりもやはりその映像でしょう。
お金をかけたセットや多くもそうですが、ラストシーンの、大量の矢で三船敏郎が射抜かれるシーンは、それだけでこの映画を見る甲斐があるというものです。
有名な話ですが、飛んでくる矢は、実際に弓から放たれたものもあり、三船敏郎は、「殺す気かっ!」と怒鳴ったといわれています。
そのこともあって、矢が次々ととび、自分が刺されているという現実そのものに驚いている、という三船敏郎の、かっと見開かれた表情の迫力は凄まじいです。
見方によっては、この物語、物の怪に出合った武時が、やがて、物の怪になってしまう物語でもあります。
だからこそ、三船敏郎は矢で喉を貫かれてもなかなか死なず、最後は、弁慶の立ち往生そのままに死を迎えるのです。
おかしくなった男の末路
蜘蛛巣城の冒頭は、霧の中にある城の跡地が映し出されるところからはじまります。
蜘蛛巣城があったという立て板が映し出され、そして、終わりにもまたその場面が映し出されます。
この物語は、あくまで、戦国の時代にあったかもしれない、霧の中に包まれた蜘蛛巣城の悲劇が描かれた、というスタンスで作られているのです。
そのため非常に寓話性を高くした物語としてみることも出来ます。
どういうことかと言いますと、かつて気は小さいが武に長けた男がいたけれど、その男が物の怪や妻に言動に影響されて城主となったものの、やがて死んでいった、という盛者必衰の物語としてもみることができるのです。
武時の間違いというのは、現代でも起こりえるかもしれない問題です。
現代風にたとえれば、「あなたは社長になる」といわれて、課長や部長で満足していた男が、社長になるように画策し、妻も共謀することでトップに上り詰めるものの、部下も誰も信じられなくなり、やがて自滅する。
そんな、どんな時代でも行われてきた物事なのです。
そのため、蜘蛛巣城は、すべて終わったあとの場所を映し、観客は、その中の霧の中のできごとを見たに過ぎない、ということを、蜘蛛巣城の跡地を見せることで伝えようとしているのだと思われます。
黒澤映画は、古い映画ではありますが、いつの時代にみたとしても変わらないテーマが隠されていますので、一つでもきっかけをみつけることで、見方がかわるかもしれません。
黒澤明監督作品で、当ブログで紹介している記事は以下です。