やくざと役者は一字違い 安藤昇特集!!
本日は、かつて愚連隊/やくざのアタマを張りながらも引退、その後は役者や実業家として大活躍した異色の俳優、安藤昇をとりあげたいと思います。
安藤昇、その魅力とは
『実録 安藤組』シリーズなど、自分が体験した事柄を自分で演じるというなかなか他にはない東映ならではの俳優生活を送った安藤昇。
まずは簡単に彼の魅力について語りたいと思います。
彼をパッとみて視線がいくのは目ではないでしょうか。
あの何ともいえない鋭い目つき。あの目で見られたら男ならすくみ上がり、女なら「抱いて!」となるかもしれません。かといって本人は全身から怒気を立ち昇らせている様子でもありません。あくまで安藤はどっしりと構えた冷静な佇まいをしています。
そして頬のキズにも触れないといけません。
昔、とあるチンピラに絡まれた時におった刃物のキズです。
一目でただものじゃないことがわかります。
そしてあの肉体。決して長身ではないのですが、細身ではなく、しっかりとした肉づき。やくざ映画にはピッタリの体つきです。
声も渋い。あと自分的にはあのいつも同じの髪型もいいですね。
安藤昇の人生劇場
ここで安藤昇の人生を簡単に振り返ってみたいと思います。
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1926年東京大久保にて出生。
中学では神奈川に移り喧嘩三昧の日々を送ります。両親の赴任先の満州の奉天の中学校に転入するもここでも不祥事(なんと女郎買い!)を起こし退学。その後も幾つかの学校を放り出され、1943年に三重県の海軍航空隊に入隊。
ここで本土決戦に備えた水中からの体当たり攻撃の練習に励みます。これは死と隣り合わせの過酷なもので、安藤自身も毎日死について考えたいたとのこと。
1945年終戦後、かつての仲間を集め、下北沢から新宿、銀座と勢力を拡大させていく。
そんな中、1946年に法政大学予科に入学。
またこのころ、万年東一という愚連隊のドンと知り合う。
その後、用心棒や物資の横流しなどで学生ながら渋谷を中心にさらに勢力を伸ばしていきます。
1952年、27歳の安藤は「東興業」を設立。ここに安藤組が誕生したわけです(『やくざと抗争 実録安藤組』などで映画化されています)。
その後、賭場を取り仕切るなど合法・非合法問わず様々な稼業を行います。
1958年、有名な、横井英樹襲撃事件発生、安藤たち幹部は逃亡生活開始(このあたりは『実録安藤組 襲撃篇』に詳細に描かれます)。同年、ついに逮捕され、懲役八年が言い渡される。
1964年、仮釈放された安藤はもろもろの状況を鑑みて組の解散を決断。
1965年、『血と掟』(松竹・第7グループ)に主演。安藤の知名度・注目度のおかげでこれが大ヒットし、安藤は松竹の専属俳優として「掟」シリーズに出演することになります。
1966年、加藤泰監督作品『男の顔は履歴書』に主演。作品としても俳優としても評価が高まる。
1967年、東映に移籍。加藤泰監督『懲役十八年』出演。任侠路線から実録路線へと移行する中で、安藤は様々なやくざ映画に出演していきます。
1973年、佐藤純弥監督『やくざと抗争 実録安藤組』主演。「実録安藤組」シリーズ始まる。同じく佐藤純弥作品の『実録 私設銀座警察』でも主役を演じます。
1974年、五社英雄監督『暴力街』主演。
1976年、カルトなやくざ映画として有名な唐十郎作品『任侠外伝 玄界灘』出演。撮影の中で実際に実弾を撃ったことから警察から取り調べを受けます。『安藤昇のわが逃走とSEXの記録』主演。『やくざ残酷秘録 片腕切断』の企画・ナレーター・監督(クレジットはされていない)を担当します。
1979年、『総長の首』に出演。本作を持って本格的な俳優活動を停止。
2004年、梶間俊一監督『渋谷物語』に特別出演。同作は安藤昇の生涯を再び映画化したものです。
映画出演だけではなく、著書も非常に多いです。映画化されたものもまた多数です。
2015年、88歳で亡くなります。前年に、競演作も多く松竹から東映に移籍という自分と同じ道を歩んだ菅原文太の死を見届けたあとのことでした。
俳優としての安藤昇
正直いって安藤昇は演技が特別うまいわけではありません。特に初期はセリフはわりとたどたどしい印象を受けたりもします。まあそりゃそうです。何年も演技の勉強をしていたわけではありませんから。
しかしながら存在感はさすがで、いるだけですぐわかります。それって、スターシステムの映画界では非常に大切なことですよね。
なので、きっと当時の人も安藤昇を観る視線というのは他のスター俳優を観るそれとは違ったものがあったんだと思います。
なんせ、彼が実際生きてきた人生をデフォルメして、それを彼自身が演じているんですから、これ以上ない「実録」ですよね。しかも彼にはこれまでのやくざものとは違って現代的である種清潔なイメージさえ感じますからね。
そんな彼は五社協定をものともせず、松竹から東映に移籍(安藤自身はそのような協定があることをしらず、そして誰も文句をいえなかった…)。当時の東映は任侠映画から次第に実録やくざ路線へ移行していく時期だったため、これは非常に良い移籍だったと思います。そのおかげで「実録 安藤組」も作られましたし、なんといっても菅原文太や高宮敬二といったハンサムタワーズの面々が東映に移ったのも、安藤のアドバイスがあったからです。つまり、安藤の移籍がなければ『仁義なき戦い』シリーズも今の形では生まれなかったということですね。
タイミングとか運とかいうのは非常に大事ですね。
まあ、安藤昇クラスになると向こうからやってくるものかもしれませんけど…。
アイデアマン、安藤昇
安藤は非常に頭の切れる人物で上記の『映画俳優 安藤昇』でのインタビューにおいても様々なエピソードが語られています。その内の幾つかを紹介してみたいと思います。
まず安藤組の「掟」について。
刺青、指つめ、麻薬、上納金といったそれまでのやくざ組織なら定番といえるような事柄を全て禁止しました。そういう意味でも安藤の「新しさ」は伺えますね。
そもそも安藤組は幹部クラスは全員が大卒か大学中退者という珍しさです。
さらに山田洋次監督の代表作、『男はつらいよ』シリーズのアイデアはもともと安藤が監督に話をしたことから始まったそうです。これは自分はこの本を読むまで全く知りませんでした(真偽のほどは定かではありませんが…)。
そして東映・藤純子のヒットシリーズ『緋牡丹博徒』の主人公の元ネタになった人物も安藤が紹介し、それを膨らませて作品が製作されたそうです。
うーむ、まさにアイデアマン。こりゃいろんな人が彼をほっとかないわけですね。
モテモテ、安藤昇
そして安藤といえば女性にもてることで有名。
横井を襲撃し、指名手配を受けている間も全国の女の間を渡り歩く生活を続けます。そしてそれが後に『安藤昇のわが逃走とSEXの記録』というイカれすぎたタイトルの映画になるんですからモテモテの格が違いますね。モテの極みです。
彼は複数回離婚と結婚を繰り返しているそうですが、まあそれも納得でございます。
やくざと役者は一文字違うだけ
この言葉はやくざも役者もいい加減な商売だし、字面もほとんど一緒だから似たようなもんだよ、という意味で安藤昇が発言した言葉です。
そういわれればそうかな、とも思えますよね。
どちらにも明確なお手本なんてないわけで自分の才覚(と立ち回り)で切り抜けていく力が必要です。
当時の東映なんて本職のやくざが俳優に演技指導してたり、元やくざがプロデューサーになったりと、まさにやくざと役者の境目が曖昧でしたし。
それが「(ある意味緩くて)いい時代だった」という言葉でまとめてしまっていいのかどうか現代の片隅でひっそり生きる私にはわかりませんが、邦画の歴史の流れとして安藤昇の言葉とともに覚えていたいです。
これまで当ブログで取り上げた安藤昇関連作品の感想はこちら!!