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シネマトブログ

映画の評論・感想を紹介するサークル「ブヴァールとペキュシェ」によるブログです。不定期ですが必ず20:00に更新します

純愛物語  神代辰巳『赫い髪の女』

ニャロ目でありやーす。

 

今回は神代監督の最高傑作ともいわれる『赫い髪の女』(「あかいかみのおんな」、1979年、73分)を取り上げたいと思います。

 

日活ロマン・ポルノだけではなく日本映画史に残るといわれているこの傑作、はたしてどんな内容なのでしょうか。

 

主な登場人物

赫い髪の女(宮下順子

光造(石橋蓮司

孝男(阿藤海、現在は阿藤快

和子(阿湖)

 

 

…。

……。

………。

劇中、ほとんど雨が降り続いている。

 

それは時代の閉塞感をあらわしているかのようだ。

 

どんよりとした空気がまとわりつく部屋で、光造と赫い髪の女はまぐわい続ける。

 

お互いをなじるように、責めるように彼と彼女は内々から湧き上がる感情をお互いの体に投げ捨てる。

 

伸びきったインスタントラーメンのように、または脱ぎ捨てられた下着のように、だらしなく、物悲しい内向世界。

 

いまここには二人しか存在せず、下の階の薬中の女の叫び声も聞こえないかのようだ。

 

神代辰巳のカメラはまるでそんな二人を盗み見るかのように写し続ける。

 

手前に様々な遮蔽物をぼんやりと写しこみながら、裸の二人の祝祭。

 

まさに「ありのまま」の愛の確認である。

 

倦んだ世界にひっそりと開いた裂け目から、われわれは愚者たちの楽園に迷い込む。

 

 

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光造と孝男はまぎれもないプロレタリアートであり、チンピラである。

 

二人は社長の娘を手篭めにして、孝男はそのまま娘と付き合うことになる。

 

一方の光造は帰り道で雨に濡れる赫い髪の女を拾い、狭く汚い自分の部屋に連れ帰る。

 

どこから来たか、いままで何をしてきたか。これからどうするのか。

 

光造は女に何も聞かない。

 

自分の肉体性と女の肉体性で、お互いを確認しあうのみだ。

 

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雨。

 

降り続く雨で仕事のない光造。

 

雨を避けるために迷い込んだ女。

 

映画を観ると納得してもらえるだろうが、カメラが二人の姿を静かに切り抜く時、石橋蓮司は確かに光造であり、宮下順子は赫い髪の女以外の何者でもなかった。

 

そう、これはまぎれもなく作り物の映画だ。

 

しかし、それだからこそ、ある時代を生きた男と女の真実の姿を描写することができたのだ。

 

あの日あの時、監督は脚本は俳優はスタッフは、この映画のためにしか存在しなかった。そんな濃密な時間を今でも観ることができるのは幸せというほかあるまい。

 

 

 

和子は二人に襲われたことにより妊娠した。

 

正直、光造と孝男のどちらの子供なのかわからないのだが…、和子と孝男はこの雨の降り続く陰気な町をでて、新たな場所で生活を始めようとする。

 

光造は雨の中、姉の家へ赫い髪の女を連れていく。

 

姉とその情夫は確かに赫い髪の女をある場所で見たと口にする。

 

しかしながら光造は、前の夫がどうだとかそんなことは気にせずわい談を続ける。

 

 

 

孝男に光造に赫い髪の女を犯したいと相談される。和子をともにレイプした件もあり、光造は承諾する。

 

手はずを整えてやり、孝男が女と交わっている間、光造は商売女の中で果てる。そして改めて自分が赫い髪の女を愛していることに気づくのだ。

 

この町から逃げ出す孝男と和子を赫い髪の女は少し羨ましそうに語る。

 

光造たちはどこへもいけない。

 

この雨音に包まれた部屋が、二人だけの小さな宇宙なのだ。

 

お互いの肉体を船にしてどこまでも進んでいくことができる。

 

逃れようのない孤独や、将来への不安、時代の喧騒をものともせず、ささやかな抵抗を重ねることで生きている、その事実を感じあう。

 

偶然性が生んだ真実の愛の物語。

 

この名作を前に本当はこんな言葉などいらない。

 

恋愛映画に飽きた御仁もきっと納得の一本である。

 

ぜひ部屋を薄暗くしてご覧いただきたい。

 

 

■神代監督作品レビュー

cinematoblog.hatenablog.com

 

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